憬文堂
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◆   古風なロマンス
 Romance antique de Monaco
 ◆

   仲秋 憬


<土曜日>



 午前中にフリー走行。午後からいよいよ予選が始まる。今日は絶対にレースを見な

ければ。そしてみんなと一緒に頼久を応援するのだ。

 あかねは詩紋と共に朝早くパドックへ顔を出す。

 ピットは戦場だから、とても足を踏み入れられない。モーターホームのテントまで

にとどめておく。

 そこにはドライバーやメカニックなどスタッフの身内の女性も幾人かいて、皆、男

達の戦いぶりをモニターやコンピューターの電子画面で見守っていた。レーサーの奥

さんや恋人達は何気ない服装でいても、皆どこか光っていて、あかねの目を引いた。

 日本でキャンギャルと呼ばれてレースとは別の視点で眺められる、水着と見まごう

コスチュームの美女もあちらこちらで笑顔を振りまいているが、今、ここでその女性

達を気にかけている男はいない。誰もがレースのことしか頭にないようだった。



 午前中の3回目と4回目のフリー走行の間中、あかねと詩紋はモーターホームのテ

ントにいた。

 頼久は9位と8位という結果だった。新人としては予選に向けて上々だ。

 フジワラのもう一人のベテランフランス人レーサーも確実にタイムを上げて5位に

つけていたので、モーターホームはわきかえっていた。



 昼食を取りにピットのスタッフたちが交互にモーターホームへ戻ってくる。レーサ

ー達もだ。チームのスタッフや取材のための報道スタッフ幾人かに囲まれた頼久の姿

を見て、詩紋は軽く手を振り合図を送った。

 頼久はモーターホームで浮き上がっている少年少女を認めると、ほんの少し瞳を和

らげてうなずき、そのまま車の中へ入って行った。

「頼久さん、やってくれそうじゃない? 余裕ありそう。予選楽しみだな」

 詩紋は目を輝かせて、あかねに確かめる。

「うん……そうだね」

 あかねも力強くうなずいた。

 天真も食事をしに戻ってきたので、今日はあかね達も一緒にモーターホームで用意

されているバイキング式の食事を取った。数々用意された料理はイタリア料理と和食

の混合といった具合だ。好きなものを好きなだけ。味も日本のレストラン顔負けで、

聞けば専属のシェフをスタッフとしてやとっているのだそうだ。

「メシは大事だもんな。フジワラには日本人も多いんで和食も用意するんだと。頼久

なんか米の飯がないと駄目だって言ってるし。パスタとか生ハムとかチーズとかイタ

リアンがうまくなったのはアランチャーノが関わってからみたいだぜ」

 皿にいくつも取り分けたまだ温かいピザをぺろりとたいらげて、天真が言った。

「へぇ……食事にもスポンサーの力って関係するんだね」

 詩紋が感心する。

「アランチャーノ……って、そんなにすごいんだ?」

 あかねが尋ねる。

「金のことは、はっきり公表されねぇけど、半端じゃないのは確かだろ。F1くらい

金のかかる興行はないってくらいだしな。まずマシンだろ。人だろ。それも常に開発

開発入れ換えだ。速く走らせるために何十億かかってるか……気が遠くなるぜ。スポ

ンサーの金なしでなんてやってけねーよ。フジワラはこれまでタバコメーカーとか、

でかい所がついてなかったからな。アランチャーノと組めたのは正直、かなりありが

たかったはずだぜ」

 友雅は、そのすごいスポンサーの人なのだ。

 どう考えても、彼はモナコであかねにかまけている暇のある男ではない。困惑はふ

くらむだけだった。



 食事を済ませて、いよいよ午後の予選。天真や頼久たちは、もうピットへと向かっ

た。モーターホームにいては彼らの勇姿を眺められないので、パドックに残る者は、

そう多くはない。戦場に向かった彼らの帰りを待つ者だけだ。

「あかねちゃん、今度はスタンドに行かない? 座席指定のチケットあるよ。やっぱ

り走ってるところを見たいしさ」

「うん……」

 あかねはパドックに来れば、もしかしたら友雅に会えるのではないかという期待を

抱いていた。

 しかし、この予選と本戦がいよいよレース本番だ。彼は一昨日、あかねを連れて自

らチェックしていたあのクルーザーの上で、彼の大事な客とレースを見るのかもしれ

ない。美しいモデル達や大事な商談の相手と共に。それは彼の仕事でプライベートと

は関係がないだろう。

 もし彼とまた偶然出会うことがあっても、あかねが声をかけたりして仕事の邪魔を

してはいけないのではないだろうか。自分たちは物見遊山の応援ツアーだが、彼は仕

事でモナコに来ているのだ。ならば、あかねは日本に帰るまでに、もう彼と話す機会

はないかもしれない。

 そんなことを考えて、あかねが詩紋と共に席を立とうとした時、今まであかねを悩

ませていた男がモーターホームのテントに現れた。

「ああ、まだここにいたのか。ピットにいかないのかい? それともスタンドには?」

「友雅さん……こそ……」

 あかねは、ただ驚いて彼を見つめた。

「昨夜、具合を悪くしただろう? 私が一日引っ張り回したのに、最後まで送れなく

てすまなかったね。こんな人混みに出て、もう大丈夫なのかい?」

「ご心配かけてすみません。ただの立ちくらみでしたから、今日はもう全然平気です」

「顔色は悪くないようだが……」

 友雅がごく自然にすっと右手を出してあかねの頬に触れそうになった時、あかねは

反射的に後ずさり、その手を避けた。

 ふっと友雅の動きが止まり、あかねに差しのべられた右手はゆっくりと戻った。

「ホントに大丈夫です! それより友雅さんはこれからモーターホームでお仕事なん

ですか? いよいよ予選ですものね」

「あかねちゃん……?」

 どこかこわばった空気を読み取って、詩紋があかねを気遣う。友雅は詩紋にかまわ

ず、あかねだけを見ていた。

「君を捜していたんだよ」

「え?」

「君達のホテルに立ち寄ればもう出た後だと言うし、ならばこちらだろうと思ったの

だけれど、うるさいのにつかまりそうになってね。あわてて野暮用を片付けて撒いて

きた」

「友雅さん……冗談は……」

「本当だよ。嘘は言わない」

 友雅は微笑んで言った。

「君に会いたかったよ、あかね」



 ひっきりなしにうなるエキゾースノートに紛れた友雅の言葉を、あかねは信じられ

ない気持ちで聞いた。

 ここで確かめるべきだろうか。

 あかねは、混乱の中にいた。

 嘘は言わないという、その言葉が嘘ではないのか。

 偽りを許せないほどあかねは子供じゃない。だから、ごまかさないでほしいのに。

 友雅の言葉のどこまでが真実なのか、あかねにはすっかり見えなくなっていた。



 あかねは、確かめなければならなかった。

 周囲から響いてくるマシンのうなりでかき消されないように、できるだけ、しっか

り話そうと努力したので、その声は友雅にも届いたようだった。

「友雅さん、私……私ね、友雅さんに聞きたいことがあるんですけど」

「なんだい? 姫君。教えるのは得意じゃないのだけれど、君にならいいかな」

「……私は姫君なんかじゃないですって言ってるのに。あの……ね……」

「ムッシュウ!!」

 あかねの声を上回る大きな声で呼びかけて、友雅に近付いてくる眼鏡の若い男性が

いた。

「見つけましたよ! ムッシュウ。冗談じゃありませんよ。いったいどこに雲隠れし

ていたんです? あなたがいないで、どうしろと言うのですか。アランチャーノがモ

ナコにどれほどかけているか、もう少し理解してください!」

「ああ、鷹通……少し声を抑えてくれまいか。日本語でいいよ」

 友雅はやれやれといった様子であかねから鷹通と呼ぶ男に視線を移した。

「抑える?! 抑えられるものなら抑えていますよ。どんなに叫んでも、あなたの耳に

届かないから、自然と声も大きくなるのです!!」

「少し落ち着いたらどうだい。何か飲むとか。見たまえ、君の無粋な登場に皆、驚い

ているよ」

 確かに彼の登場にモーターホームのテントに残っていた人々は目を見張っていた。

「ええ、ええ、よく見ていただいた上で、あなたも思い知っていただきたいものです

ね。これだけ目立てば逃れようもないでしょうから」

 鷹通は眼鏡を押し上げ、必死で冷静になろうとしているようだった。

「昨日のパーティにも間に合ったし、こうして予選も今から君と見られるのだから、

いいじゃないか」

「よくはありませんよ。もう少し真面目に取り組んでくださいと何度言えばわかるん

です。いずれ継ぐ、ご自分の会社のことですよ! ムッシュウ、クラウディオ・ロメ

オ・トモマサ・ディ・アランチャーノ!!」



 あかねはびっくりして顔を上げた。

 呪文のような長い名は誰のもの?

 クラウディオ・ロメオ・トモマサ・ディ・アランチャーノ?

 あかねの知っている橘友雅という優しい人は、どこへ消えた?


 ──彼の名前はタチバナじゃないわ──


「あかね……」

 友雅は蒼白になっているあかねに気付くと、肩を抱いて、そのままテントを出て、

パドックの外へと彼女を連れ出した。

 ただならぬ様子に、声をかけた鷹通も、側にいた詩紋も、テントでこの様子に驚い

た人々も、誰も友雅を止めることはなかった。







 予選のタイムアタックが始まっているはずだが、その様子がうかがえないモナコ港

の南外れに彼らは向かい合って立ちつくしていた。

「驚かせてしまったね。……許してくれるかい?」

 友雅の口調は優しかった。見せかけの優しさだとはあかねにはどうしても思えない。

 しかし確かめなければならないだろう。

「……友雅さん、私、もう嘘はいやなんです。友雅さんにとって私は気まぐれの対象

なのは無理もないし、それはいいんです。友雅さんにとって私がまだ子供にしか見え

ないのも、本気になれないのも、わかります。でも嘘はいや」

「あかね……」

 友雅の顔が、金曜日、あのマティスの教会で見た表情になったので、あかねは、ほ

んの少し安心した。

 こうしてコースのまったく見えないところに立っていても、やはり潮風にF1レー

スの喧噪とエキゾースノートは混じっていたけれど、なぜか、とても静かに感じる。

「……私は……好きですから」

 友雅はいつものように聞き返したりはせず黙ったままだった。あかねはそれにかま

わず、もう一度はっきりと口にした。

「私は、友雅さんを好きになってしまったけど、私が好きな橘友雅さんが、ディ・ア

ランチャーノという人と同じ人かどうか、わからないから……」

「あかね」

「できたら本当のことを言って、きちんと失恋させてくれたらなって思います。友雅

さんの本当の名前は橘友雅じゃないんですね」

「私にとっては橘友雅もクラウディオ・ロメオ・トモマサ・ディ・アランチャーノも、

どちらも私の名前だが、戸籍上の名となれば、アランチャーノという長い名前が私の

名だね」

 友雅は静かに話し始めた。

「私の母は日本から歌を勉強に来ていた娘で、ミラノで見初められて結婚した。故郷

の日本に帰ることなく息子をひとり産んで死んだのは、まだ四十になる前だった。母

の旧姓は橘で、結婚相手はアランチャーノ。アランチャ……オレンジのことだよ。柑

橘類つながりだったんだ。おかしいだろう。私にとっては橘もアランチャーノも同じ

なんだ。ルネッサンスの前から続く先祖の名前を引き継いだクラウディオやロメオよ

り、友雅と呼ばれるのが私は好きだった」

 友雅は風になびく髪をかきあげて、かすかに微笑む。

「それでもね、もう随分と長い間、橘友雅の名は封印していたよ。私の家のことも知

らず、日本語を話せる友人にめぐりあう機会がなくてね。だから君に出会った時……

嬉しくて。面倒なしがらみのない自由な橘友雅になって、君を引っ張りまわしたね…

…君は、こんな私に付き合って笑ってくれた。嬉しかったよ」

 あかねは首を横に振る。

「嬉しかったのは私です」

「ならば一緒だ」

「……じゃあ、やっぱり友雅さんはアランチャーノさんで、私とは世界の違う人で、

橘友雅さんは、現実には存在しない人なんですね。私は本当はいない人を好きになっ

たんだ……」

「それは違う」

「何が違うんですか?」

「あかね」

「モナコ・グランプリを見に来ました。頼久さんの応援に。だから行かなくちゃ」

「あかね、話を聞いて」

「ありがとうございました。友雅さん。もう充分です。本当のことを話してくださっ

て、優しくしてくださってありがとうございます。……感謝します」

「あかね!」

 友雅がまだ話を続ける気なのを断ち切り、あかねは彼を置いて後ろも見ずに走った。



 本気で友雅が追いかけてきたら、たぶんあかねは簡単につかまっただろう。

 しかし死に物狂いで人混みめがけて走ったあかねは、気が付けばF1の見物客に一

人もみくちゃにされていた。

 あかねはスタンド席のチケットも詩紋に預けたままで、持っていない。

「……レース……予選どうなっただろ……」

 周囲の見物客達はは口々に予選の話をしているようだが、あかねにはフランス語も

英語も、よく聞き取れなかった。しかしパドックに戻ることもできない。行けば彼に

会ってしまう。

「詩紋くん……心配してるかな」

 でも聡い詩紋は、あかねが失恋したのをきっと察してくれるだろう。

 たぶんホテルに戻っていれば連絡が来ても大丈夫だ。

 もう頼久の一回目の予選は終わってしまったかもしれないが、結果を知るのはホテ

ルのテレビでも、できる。



 あかねは遠回りの上、普段の倍以上の値段がかかると言われるタクシーをなんとか

つかまえると、ひとりでホテルに戻り自室のテレビで二回目の予選の中継を見守った。

 頼久はフリー走行からの好調をキープして、予選二回目でも結果を出し、7位のタ

イムをたたき出していた。フランス語はわからなくても予選のリザルトが表になって

画面に出れば、順位はわかる。フロントロウとはいかなくても、モナコに初挑戦の頼

久にとって、7番グリットは悪くない結果のはずだ。

 おそらく日本ではもっと大騒ぎになっているのだろうなと、あかねはぼんやりと思

った。

「明日は……絶対にスタンドで応援するから……ごめんなさい」


 オーシャンビューの部屋のカーテンをしめきって、あかねはベッドにもぐりこんだ。

 夕食を抜いても胸の痛みは消えなかった。







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