憬文堂
遙の書棚 Fullkissの書棚 いろいろ書庫 憬の書棚 刊行物ご案内 お食事日記掲示板 web拍手 メールフォーム


◆   古風なロマンス
 Romance antique de Monaco
 ◆

   仲秋 憬


<金曜日>



 昨日の頼久のフリー走行のタイムは、期待以上によかった。どのチームもまだセッ

ティングを探っている状態とは言え、ルーキーのくせに初モナコで三番目に速いラッ

プタイムは番狂わせと言ってよい。土曜日の予選、日曜日の本戦まで、この好調の波

に乗れれば驚くべき結果が待ち受けているかもしれない。

 フジワラの連中は興奮していた。金曜日はモナコ独特の日程で休日になるが、土曜

日の予選に向けてスタッフがしなければならない事は多い。一日の休日のせいでコー

ス・コンディションは大きく変わる場合もあり、土曜日はまた最初からやり直しに近

いのだ。

 いずれにせよ好調を維持するセットアップが必要だ。モナコのコースは予選での位

置がレースの結果を大きく左右する。

 天真はこれ以上ないほど興奮しており、詩紋やあかねにも、それは少なからず伝染

した。

「休んでなんかいられねぇって!」

 モナコへ来てから初めて一緒にとった朝食の席で天真が言った。

「今日は休日だから朝はゆっくりなんだ。コースじゃ何かのサポートレースやるらし

いから、それ見てもいいけど、俺はパドック行くつもりだ。お前らは?」

「今日はボクも先輩と一緒に行っていい? できれば作業も見てみたいし」

「かまわないぜ。なら、あかねも来るだろ?」

「……うん。私も行こうかな」

 少しためらってから、あかねも同意した。



 朝食を食べたホテルのレストランから部屋に戻って出かける支度をする前に、あか

ねはどうしても外の空気を吸いたくなり、一人、海側に開かれたホテルのカフェテラ

スの庭へ出た。朝食の時、窓から見えていた海があまりに綺麗だったせいもある。

モナコは今日もよく晴れていた。

「パドックにずっといるには少しもったいないかな?」

 なんとなくつぶやいた独り言に答えが返るとは夢にも思わない。しかし、この独り

言は違った。

「では、こんな喧噪から抜け出して、気分転換にでもでかけないか?」

「友雅さんっ!?」

 あかねの驚く顔を見て友雅は微笑んでいる。

「どうして、こんなに朝早くここにいるんですか? あ、お仕事の相手が、このホテ

ルに泊まってるとか」

「朝一番に君に会いたくてね」

「……まさかぁ」

「本当なのに信じてもらえないのは悲しいな。F1レースの戦場もいいけれど、それ

は明日からの本番でいいだろう? 息抜きしたくなって当然だよ」

「それで気分転換……ですか」

「そう……君がつきあってくれると嬉しいのだけれど」

 モナコグランプリの金曜日は必ず休日で、サポートレースなどはあってもF1のレ

ースはない。

 しかし、パーティやらイベントは、それこそあちこちで山のようにあるはずだ。特

にスポンサーがらみなら、絶対に。

 それがモナコのステータスであり、他のレースと決定的に違うところだった。こん

な豪奢なレースは他にない。世界中の衆目を集めるモナコGPならでは慣習だった。

フジワラのスポンサーであるアランチャーノの友雅が、金曜日に忙しくないはずはな

いのだ。

 あかねは眉をひそめる。

「でも友雅さん、お仕事あるんじゃないですか?」

「ないよ」

「ホントに?」

「夜のディナーパーティに間に合えばいい。フジワラ関係者なのだから君もおいで。

頼久も顔を出すはずだから」

 今日も別行動したら友人達は心配しないだろうか。するだろう、きっと。

 あかねは頼久の応援に来たはずだ。念願かない遂にF1に挑戦する頼久の応援に。

 観光はおまけでF1レースこそがメインの旅だった。それなのに自分は、モナコで

初めてあった人とレースとは関係ないところを見てまわろうとしている。

 本当は何となくわかっている。心のどこかが警鐘を鳴らしている。これ以上この人

に関わるのは危険だ。

 でも心が止められない。F1より速く気持ちが先へと走っている。

 あかねがゆっくりうなずくと、友雅は嬉しそうに笑った。

 この笑顔に、また息をのむ。

「ではどうぞ、姫君」



 友雅はホテルの駐車場から車をまわして、あかねを助手席に乗せた。

「えーと……かっこいい車ですね」

 座席が2つしかないスポーツタイプのオープンカーなど、そうそうあかねに乗る機

会はない。

「そうかい? ありがとう。レース関係者のくせに自分の関係してる車に乗らないの

かと言われれば、それまでだけれどね」

「すいません、私、車あんまり詳しくないんですけど……これ何ていう車ですか?」

「ジャガーEタイプ・ロードスター。少し古いけれど気に入ってる」

「こういうの初めて……」

「車に乗るのが?」

「そうじゃなくて」

 あかねは笑って首を横に振った。

「男の人と二人っきりで……こんな風に助手席に乗せてもらって出かけたり……とか」

「ドライブに連れて行ってくれる彼はいないの? 君は、そんなにかわいらしいのに」

「いませんよ! そんな」

「では、私は今回ずいぶんと役得しているのだね。姫君の『初めて』にご一緒できて

光栄だよ」

「えーっ? 友雅さんてば、またそんなこと言って」

「おや私の本音なのに……信じてもらえないのだね」

 運転しながら首をすくめておどける友雅。

 フロントガラスにはってあるマークの入ったステッカーは、どうやら車両通行許可

証なのか、レースのため一般車は通行止めのところも通行を許されて、すいすい走る。

 こんな特別扱いに友雅は慣れているのだろうが、あかねはひたすら目を丸くするだ

けだ。

 紺碧の海がまぶしい海岸線を走るオープンカーに乗って髪をなびかせているなんて。

 そして、それが楽しくて仕方がないなんて。

「目的地は少し遠いから眠っていてもかまわないよ」

「まさか! こんなに気持ちいいのに、もったいなくて眠れません! 歌い出したい

くらいなのに!」

「いいね。歌っておくれ。……知っているかい? イタリア人の歌好きを」

「そりゃあもちろん!」

 でなければ、なんでイタリア・オペラがこの世にこれほどあるものか。

「ヘタだからって笑っちゃいやですよ」

「約束するよ」

「じゃあ……」

 あかねは大きく口をあけ、風に負けない声量で歌った。まずは古典的な『カーロ

ミオベン』を。

「ブラボー! 運転中で拍手ができないのが残念だ」

 歌い終わった後、友雅が言った。

「ありがとうございます。走ってる車で声出すの楽しいですね!」

「アンコールをしてもいい?」

「喜んで。日本の歌でもいいですか?」

「聴きたいね」

 あかねは『うみ』を歌ってみせた。

「その歌は子供のころに聞いたことがあったよ。懐かしいな」

 友雅が素朴な感想を言ってくれるのが嬉しくて、あかねは、その後も友雅が「これ

以上は喉を痛めるといけないから」と止めるまでイタリア歌曲と日本の童謡を繰り返

し歌い続けた。


 最初に出会ってから、もう何度も思ったことだけれど、友雅といると、普段のあか

ねだったら絶対に緊張して、会話どころでなくなる場面ばかりだ。

 こんな風に大人の男と二人きりで。並んで歩いて。おしゃべりをして。車に乗って。

歌って。笑って。

 他愛のないことを話しているだけなのに楽しい。相手をもっと知りたくて。自分も

知って欲しくて。

 気持ちが浮き立って、体はまでふわふわ浮いているようで。

 一瞬一瞬がきらきらと輝き、特別なリズムで飛ぶように過ぎていく。

 どうして、こうも時のたつのが速いのだろう。



 たっぷり一時間半以上走った後、ようやく車から降りて、少し歩く。

 古い石の城壁に囲まれ橡色の屋根を頂く石造りの建物が軒を並べるヴァンスの旧市

街。石畳を踏みしめ棕櫚やオリーブ、プラタナスの繁る緑が濃い影を落とし、あちこ

ちの庭や窓辺から野薔薇やマーガレットなどの花が緑に色を添える。

 その旧市街の城壁から外へ出て坂道を十五分ほど歩くと、金色の小さな三日月を、

いくつかつけた十字の尖塔を乗せた青い切妻屋根が姿を見せた。

「ここ……は?」

「修道院のロザリオ礼拝堂だよ」

 それはふたつの大きな洋館にはさまれた、白く小さな建物で、礼拝堂というには

ずいぶんとモダンな造りに見えた。

 礼拝堂の前のフェンスは閉ざされていたが、友雅はおかまいなしに開けて中へ入る。

「友雅さん……いいんですか?」

「大丈夫。今日は一般公開のない日なのだけれど予約をしてある。この方が他人と会

わずに静かに見られるからね」

 フェンスにある看板を見て、あかねも初めてその礼拝堂が何だかわかった。

 そこはマティスの教会だった。


 白い扉を押すと目の前に現れるのは白い階段で、上に見えるステンドグラスには青

い星と白い魚。

 段を上り、青い花びらがついた聖水盤の聖水で十字を切って、身廊の扉を開ける。

 そこで迎えてくれるのは────光だ。

 天井も壁も床も、すべてが白く塗られた白亜の空間。

 白いタイルに黒い線でかかれた壁画は、聖母子も、十字架の道行も、子どもの手に

よる線画のように見える、一切の装飾をそぎおとした無垢なものだ。

 なんの装飾もない祭壇をおくサンクチュアリはわずかに高く、その段差の境界と白

い大理石の床を小さな黒いダイスの木片が、ところどころ幾何学模様となって飾って

いる。

 祭壇の上にある燭台も聖具も磔刑像も、金であっても、やはり一切の装飾性を排除

した記号にも似たシンプルなものだった。

 そしてその白い空間に流れ込む青と黄と緑の光を、何と表現したらいい?

 それは光に包まれた祈りそのものだ。

「生命の木……と言うのだよ」

 夢のように美しいステンドグラスの名を、友雅は教えてくれた。

 八十を超えた晩年のマティスが生涯の最後に成し遂げた大きな仕事は、あかねを圧

倒した。

「彼はこの礼拝堂を完成させて三年後に逝った。……うらやましいことだね」

 あかねは友雅を振り返る。ほんの少しうつむいた彼の顔がいつもより陰影を濃くし

ているようで、気になった。

「ありがとう……友雅さん」

「礼など必要ないよ」

「いいえ。私をここへ連れてきてくださってありがとうございます。……感謝します。

本当にありがとう」

「感謝など……私が君と共にここへ来てみたかった。それだけだよ」

「……どうしてですか?」

「さつき待つ……花橘の香をかげば、昔の人の袖の香ぞする…………」

「和歌……ですね」

「……君は私の知らない故郷を知る人だから……私はそこを知らないはずなのに、懐

かしいと思ったのだよ。おかしいね。こうして日本語を話すことがあっても、母のこ

となど、もう何年も思い出さなかった薄情者なのに」

「友雅さんのお母さん?」

「君と似ていたわけではないけれどね」

「それは絶対にそうだと思います!」

「でも……私の中にある古い記憶を呼び覚ますのには充分だったようだよ。なぜだろ

う。本当に不思議だ……君は……」

 友雅は自嘲的な響きをのせてて小さくさく笑った。

「私は自分の体に流れる日本の血を、少し煩わしく思うこともあったからね。どうに

もならないことだけれど。自分で望んで生まれてきたわけでもないし……」

「友雅さん……」

「何もせず漫然と生きていくのは、たやすいことだ。さしたる苦労もなく、あふれる

情熱もなく……本当に不思議だったよ。どうして誰もが、ああも熱くなれるのだろう

かとね。子供の頃は自分が生粋のイタリア人ではないせいだと思っていた。でも、そ

うじゃない。私という個人の性質だとわかって……、きっと私には生まれつき、そう

いう気持ちが欠落しているのだとあきらめたよ。退屈で窒息しないように……自分を

騙して生きていくのが人生というものなのだ……と」

「そんな悲しいことを今まで考えていたんですか?」

「悲しいかな? 自分でもわからない……。もう慣れてしまったからかもしれないな。

でも、君が──そう君に出会って……」

「私? 私何もしてないです。ううん。むしろ偶然会った友雅さんに、ただ色々よく

してもらっているだけじゃないですか」

 焦るあかねに、友雅はやわらかく微笑んだ。

「私の前に現れてくれたこと。こうしてそこにいてくれること。情熱を胸に秘めてい

ること……。そういったことが、私の心に光となって触れてくる。暖かく優しい……

まるで月光のように」

「あの、私……私はそんな…………」

「本当に君は、驚くべき速さで私の中に入ってきたね。本当にあっと言うまに。ほん

の数日前だなんて信じられない……奇跡のようだよ」

 友雅はあかねの頬に手をさしのべ触れた。

「君は、私という闇を照らす月だ。情熱のない冷え切った私に輝く光を投げかける…

…。私は君の中に、自分の情熱を探さずにはいられないんだ」

「と、友雅さん……」

 気が付くと、やわらかな光の中で、あかねは友雅に抱きしめられていた。

 白い空間に煌めく蒼、碧。友雅の腕は強くて暖かく、あかねは拒否できなかった。

「……少しだけ……こうしていておくれ。あとほんの少しだけ」

 抱き込まれた頭髪に……額の上あたりに、幾度もやさしいぬくもりを押しあてられ

ているのを、あかねは感じていた。



 ヴァンスのマチスの礼拝堂からの帰り道のことを、あかねはよく覚えていない。

「すまない、もう帰ろうか」

 そう友雅が告げてゆっくりと身体を離したとき、あかねの中で何かがはじけた。

 坂道を下り、旧市街の駐車場で、ふたたび友雅のジャガーに乗り込んで。

 どうやって二時間近い帰路を過ごしていたのか思い出せない。何も話さなかった気

もするし、とりとめのないことを話したような気もする。







 夕刻、長い夏の日は、まだ明るい時間に、あかねの泊まっているホテルの前で車を

降りた時、友雅が言った。

「少しおめかしできるドレスを持ってきているかい? もしないなら、すぐに用意さ

せるけれど」

 幸い何かのパーティに出ることになるかもしれないと詩紋に言われて来ていたので、

華美なものではなかったが年相応のドレスを一着だけ持ってきていた。ハイウェスト

の真っ白なドレスだ。透ける薄い紗を重ねたスカートの部分が歩くたびにふわふわと

広がりゆれるドレスを、あかねは気に入っていた。胸元のレースは細かい花の意匠で、

ふわりと首にチョーカーをつけるか、花のコサージュなどをあわせてもいい。少し子

どもっぽい気もしないではないが、そのドレスはあかねに似合っていると誰もが褒め

てくれていた。

「では支度をしておいで。一時間半後にロビーで待っているよ」

 友雅はあかねに有無を言わせず、そう告げた。


 部屋に戻りシャワーを浴びて、ドレスに着替え、自分なりに少しだけお化粧もして、

ロビーに下りると、そこには一分の隙もない紳士の姿をした友雅が待っていた。

 光の加減で濃い緑にも見える黒のタキシード。豪奢な髪をなびかせている彼は、ロ

ビーの中でとりわけ光り輝いていた。

「やあ、来たね。かわいい姫君。では行こうか」



 エスコートされて出かけたのは、おそらく友雅の仕事であるF1スポンサーとチー

ムの関係者たちが集うレースの前夜祭のようなパーティだった。

 こじんまりと居心地のよいイタリアレストランを貸し切って行われているパーティ

で、友雅はあかねを連れてフランス語や英語やイタリア語で多くの人と話をしていた。

 あかねは、ただ邪魔にならないよう、そっと脇に立って、この華やかなパーティの

雰囲気を味わっていた。


「あかねちゃん!」

 突然、名を呼ばれて、あかねは飛び上がった。

「詩紋くん!」

「あかねちゃん、今日、どこに行ってたの? 心配したんだよ」

「ごめん……伝言置いていったけど伝わらなかった?」

「伝言だって……どこへ行くとも、いつ帰るとも書いてなかったじゃない! 友雅さ

んと出かけてくるってだけじゃ、そりゃ心配するよ。パーティのことだってちゃんと

話してなかったし……間に合うかなって思って……」

「ごめんね、突然誘われて……どうしても行ってみたかったから……」

「大丈夫だったなら、いいんだけど。天真先輩や頼久さんも心配してたよ」

「本当にごめんなさい」

「頼久さん、明日の予選前にゆっくり話せるのは、たぶん今日だけだって思ってたか

らさ」

「うん……」

「でもよかった。ちょっとこっちおいでよ。天真先輩も来てるし」

「ほんと? ……あ、怒られるかな」

「そんなことはないと思うけど……」

「友雅さん、ちょっと失礼しますね」

 友雅は何やら仕事の関係者らしい、きびきびとした初老の男性と話し込んでいると

ころだったので、あかねはそっと声をかけ、彼がうなずくのを見てから、詩紋に手を

引かれ噴水のある中庭へ出た。


「お前なぁ。別行動はいいけど、ちゃんと予定を話して行けよな。ここは外国なんだ

しさ」

「うん。ごめんね、心配かけて」

 天真は仕方ないヤツと笑って、最後にはあかねの頭をくしゃっと撫でて、彼女を許

した。

「で、その橘友雅っての何者だよ?」

「え? アランチャーノの広告関係でF1の担当とかしてるみたいな……詩紋くんの

お父さんのことも頼久さんも知ってたよ」

「へぇ。アランチャーノってイタリアのブランドだろ? なんで日本人なんだ? 

フジワラがらみだからかな」

「友雅さんお母さんが日本人だけど、ずっとミラノに住んでるんだって」

「待てよ、なんか、うさんくさいな。母親が日本人なら、父親がイタリア人ってこと

だろ? なんで名前が橘友雅なんだ?」

「何か事情があるんじゃないかな」

 国際結婚には愛だけでは済まない複雑な事情がついてまわる事もある。詩紋もフラ

ンス人の祖父から受け継いだ血で悩みも抱えた経験から、そう言うのだろう。

「友雅さんがフジワラの関係者なのは、ほら、ああやってパーティで偉そうな人と英

語だけじゃなくて色んな言葉で話してるのを見ても確かだし……」

「別に、あの男がどんなに偉いスポンサーだろうとかまわないさ」

 天真は少し強い口調で、両手をあかねの肩に置いて正面から言った。

「ただ、俺達と、そんなに関わり合う立場じゃないだろ? ヘタに深入りするなよ。

どうもお前はあぶなっかしい。騙されやすいからなぁ」

「それは……そうかもね」

 詩紋にまで賛同されて、あかねは少し不満に思う。

それが顔に出たらしく天真が態度を和らげた。

「ま、わかってればいい。明日の景気づけに乾杯しようぜ! 頼久は……お偉いさん

に挨拶してるから、声かけられなさそうだけどな。何か飲み物もらってくるから、こ

こでちょっと待ってろよ」

 そう言うと、天真は詩紋と二人で飲み物のグラスを取りにホールへ戻り、あかねは

ホールの中の様子が見える位置でひとりたたずみ、彼らを待った。


 ぼんやりとホールを眺めていると友雅が美しいカクテルドレスに身を包んだ妖艶な

美女達と笑顔で話しているのがちらりと見えた。それは実に友雅にとって似つかわし

く自然な様子だった。

 あかねのような少女が、どれほど背伸びをしても届かない世界。


「あなた、あの男の何なの?」

 唐突に背後から日本語で声をかけられて、あかねが振り向いた先に立っていたのは、

腰まである流れるような金髪で女性にしては長身の美女だ。身につけたドレスも宝石

も一目見ただけで一流品とわかる。

「あたしはアランチャーノのモデル。シリンと言うの。こう見えても国籍は日本よ、

忌々しいことにね」

「初めまして……あの……あの男って、橘友雅さんの事ですか?」

「あの男、タチバナトモマサって名乗ってるの。……そう」

 シリンは値踏みするような視線を遠慮無くあかねに浴びせると、不機嫌さを隠さず

に話し始めた。

「別にあなたが勝手に傷ついたってかまわないけど、ひとつ忠告してあげる。あれは

悪い男だから、さっさと逃げた方が身のためね。貴族なんて庶民にとっては、たちの

悪い亡霊みたいなものだし」

「友雅さんが貴族?」

 あかねはシリンの会話の意図が理解できず、とまどうが、彼女はおかまいなしに話

し続けた。

「法律上、イタリアに貴族はもういなくても、それは現実じゃない。現に貴族と呼ば

れてきた家の血を継ぐ者は今も貴族として暮らしているし、貴族は貴族としか付き合

わないのが実状よ。一般庶民の人間や、まして東洋人を本気で相手にするものですか」

「……でも……友雅さんは半分日本人で」

「彼の名前はタチバナじゃないわ。……信じられないって顔してるわね。本当の事な

んか、あの男が話すもんですか。……冷たい男よ。女を花としか見ていないの。自分

の摘めない花なんてないと思っているのよ。気まぐれに摘み取って飽きればさっさと

うち捨てるわ。悪いことは言わないから、大人の火遊びに手を出さずに、あなたにお

似合いの坊やたちと観光して、日本にお帰りなさいな。幸せになりたければ、世界の

違う男と関わったりしないことね」

「……どうして私にそんなこと話してくれるんですか」

「ああ、目障りで邪魔なのよ。あたしが今、意中の男にたどりつくには、アランチャ

ーノでトップモデルの立場を確立して、あの男経由で知り合うのが手っ取り早いんだ

けど、彼に、ああも義務を放り出して、行きずりの小娘と怠けてばかりいられると困

るの」

 あかねは何も言えない。

 このシリンというモデルの忠告は正しいのだろうか。 自分は友雅に遊ばれている

のか。友雅が優しくて一緒にいると楽しかったので、つい彼の誘いに甘えてしまって

いたが、これはいけないことだったのか。

 シリンは誤解している。別にあかねと彼は、何もやましい火遊びなどしていない。

 友雅は優しいから、困ってる子供のあかねを放っておけなかっただけ。

 しかし、あかね自身の気持ちは、どうだろう。

 ──彼の名前はタチバナじゃない──

 くらりとめまいを感じてあかねは噴水の縁に手をついた。

 今日一日で色々なことがあり過ぎた。天にも昇るような気持ちから、地中深く果て

しなくめり込む気持ちまで、感情のメーターの針が両端のどちら側にも振り切れて壊

れそうだ。


「あかねちゃん、大丈夫? 気分悪いの?」

「おい、あかね。もうホテルへ帰ろう」

 グラスを手に戻ってきた詩紋と天真が心配そうにあかねを支える。

 ホールで友雅も心配しているかもしれない。連れてきてもらったのに声をかけずに

先に帰るわけにはいかない。

 彼はあかねに嘘をついて笑っていたのだろうか。

 退屈しのぎの相手……それでもあかねは楽しかった。

 ならば礼を言うのはあかねの方だ。

 そして確かめなければいけない。

 自分の気持ちと……友雅の真実を。

 真実を知って、どうなるものでもなかったが、このまま何も確かめずに日本へ帰っ

て忘れることはできないとあかねは思う。

 どうして気づかなかったのだろう。

 たった数日で、あかねは恋に落ちてしまっていた。

「真っ青じゃないか。貧血だな」

「このまま帰るってボクが友雅さんに話してくるよ」

 詩紋がロビーの友雅に駆け寄るのが見える。

 頼久に激励の言葉もかけられなかったと、今更のようにあかねは残念に感じる。

 いったい何をしにモナコに来たのか。恋をしに来たのではないはずだ。

 友雅はあかねを送ろうとしたが、周囲がそれを許さなかった。

 そのことにほっとする自分に気づいて、あかねは胸が苦しくなった。

 詩紋と天真の心配りはありがたかった。




 彼らと一緒にタクシーでホテルに戻ると、自分ひとりの部屋で熱いシャワーを浴び

て、混乱したままベッドに入った。

 睡魔は訪れず、浅い眠りの中で見る夢は幸せと哀しみが交互に襲いかかるもので、

気がつくと枕が濡れていた。







戻る 戻る    次へ 次へ


遙の書棚 Fullkissの書棚 いろいろ書庫 憬の書棚 刊行物ご案内 お食事日記掲示板 web拍手 メールフォーム
憬文堂