憬文堂
遙の書棚 Fullkissの書棚 いろいろ書庫 憬の書棚 刊行物ご案内 お食事日記掲示板 web拍手 メールフォーム


◆   古風なロマンス
 Romance antique de Monaco
 ◆

   仲秋 憬


<木曜日>



 木曜日。フリー走行。

 いよいよ本格的にモナコ・グランプリの開幕だ。

 モンテカルロのあちらこちらで響くエキゾースノート。世界中から集まってくる見

物客。普段は誰でも歩くことのできる公道がサーキットになる豪華絢爛なモーター

レースイベントの始まりだ。

 当然ながら天真は朝早くからピットに出勤してしまい、あかねと詩紋は大人しく見

物客になるため、たっぷり朝食をとってからパドックへ向かった。

「頼久さん……調子どうだろう……」

「頑張ってくれるといいよね」

 この日のパドックの人混みは昨日までとは格段に違う。見る方も、皆、すでに戦闘

モードだ。

「これがモナコ・グランプリかぁ」

 あかねは雰囲気に押されて思わずたじろぐ。

 もちろん日本にいても、繁華街や、祭り、その他様々なイベントで、人混みを経験

しないわけじゃない。しかしモナコグランプリのにぎわいは、とてもそれらと同列に

できないものだ。

 マシンの咆哮と身体も震える振動が、豪奢な街すべてをのみ込み、この場に集まる

すべての人がレースのことしか考えられなくなるだろう。

「午後の走行になったらピットじゃなくてスタンドに行く? 一応チケットもあるん

だけど」

 詩紋が尋ねる。

「うん。スタンドから応援するのもいいよね」



 にわかファンより甘い見通しのふたりが、この戦場ではぐれるのは当然かもしれな

かった。

 なるべく急いで戻ってくるからとトイレに行くのに、その後のことをきちんと決め

ずに詩紋と離れたのがあかねの運の尽き。



「どうしよう……フジワラのモーターホームに行ってみた方がいいかな。確実に場所

わかるのは、そこくらいだし。あとはピットだけど……」

 しかし、どちらもあかね一人で行くのは、ためらいが強い。あかねは自分を頼久の

身内とはとても思えないし、詩紋や天真は関係者だろうが、あかね本人はその関係者

の友人であっても関係者ではない。彼らなしで、そこへ赴くことはできなかった。

 しかし迷子はへたに動くべきでないことも事実だ。

「うーん。中に入らなくても、モーターホームの前あたりで待っていたら詩紋くんも、

その内、探しに来てくれるかな」

 それくらいしか、あかねにできる方法はなさそうだ。



 あかねが、どうにかフジワラのモーターホーム付近へやってくると、何故か詩紋で

はなく、彼に会ってしまった。

 橘友雅だ。

 彼はフジワラ関係のVIPなのだから、会っても不思議はないかもしれないが、人

は多いし、一日は長い。すべての関係者が注目する予選前の大事な時だ。連日の出会

いは、偶然にしては多い。

「おや、姫君はお一人なのかい?」

「詩紋くんと来たんですけれど、はぐれてしまって」

「じきに午後の走行が始まるのに、それはいけないね。いざという時の待ち合わせを

ここにしていたのかな」

「いえ……でも、モーターホームに探しに来る可能性が高いかなと思ったんです」

「ああ、なるほど。でも折角モナコまで来ていて見逃すのは惜しい。もしよければ…

…この後のレース見物を私に付き合わないかい? 君のナイトにはホテルに伝言して、

それでも心配なら、そうだな、鷹通がいる。彼なら昨日、坊やの顔を見ているから大

丈夫。ピットでメカニックのアシスタントをしている君のもう一人の友人にも伝えて

おこう。モーターホームにも、金髪で日本語を話す少年が人を探しに来たら、伝言を

必ず伝えるように手配できる。どう?」

 友雅の誘いは魅力的だが、しかしはぐれておいて、それでは詩紋に悪いだろう。

 あかねは、友雅に礼を言って、断ろうとした。

「遠慮したいようだね」

 あかねの表情を読んだのか友雅は先回りして言った。

「ごめんなさい。やっぱり……」

「そうだねぇ。私のようなおじさんに付き合わせるのも悪いかな」

「そんなことないです! ただ詩紋くんを心配させたくないし……フリー走行は気に

なるけど、でも」

「詩紋に早く確実に伝わればいいわけだ」

「え、それは……」

「実は今回はかなり大きいクルーザーを用意していて、そこからレースを見物すると

いう趣向があるのだよ。土曜と日曜の予選本戦当日に招待した特別な客に用意したも

のなのだけれど、今日は私が好きにしていいことになってる。ホスピタリティの最終

チェックをしなければならなくてね。それが仕事なわけだ」

「友雅さん……」

「場所も、なかなか悪くない所に用意できているらしいのだけれどね。興味ない?」

 モナコでヨットからレースを見る。こんなシチュエーションに憧れない人物は、

めったにいないだろう。

 それが実現すると言われて抗うのはかなり難しい。

 そして何よりあかねは友雅ともっと話してみたいと思っていた。

 一昨日、初めて会ったとは思えない大人の男。

 おそらく、あかねの人生で、モナコでの偶然以外で会うことのない男。

「ああ、ちょうどいいじゃないか! あの金髪は君のかわいいナイトだよ」

「え?」

 背の高い友雅にはきょろきょろとあたりを見回しつつやってくる詩紋の姿が見える

ようだが、あかねには人混みばかりで埋もれて見えない。

 友雅はよく通る声で離れた位置の詩紋に声をかけた。

「流山詩紋くん! 姫君を少しお借りするよ。うちのクルーザーの、もてなし練習の

最終チェックにね。心配しなくてもレースが終わったらホテルへ送るよ!」

「友雅さんっ!?」

 驚くあかねの腕を取り、詩紋の返事も聞かず、友雅は慣れた様子で、またもや、

あかねをその場から連れ出した。




「信じられない……」

 気が付けば、あかねはクルーザーの上で冷たいレモネードのグラスを片手に呆然と

していた。

「坊やなら大丈夫。ちゃんと伝わっているよ。さっきホテルにも連絡しておいたし」

 友雅はご機嫌だ。

「我が社が用意したボートの乗り心地はいかがです?」

「驚きました……」

 あれよあれよという間に埠頭に連れてこられ、コーナーの角に停泊している貸し切

り状態のクルーザーで信じられないほど至近距離を通過していくマシンを眺めながら

美形の若い男女の給仕でシャンパン・グラスを傾ける。モナコにはこんな世界もある

のだ。

「頼久がそろそろ通るんじゃないかな。もうフジワラの走行時間だ」

「わ、見逃したら大変!」

「そうそう、落ち着いて見ておいで」

 友雅は息までひそめて目の前の道路を真剣に見つめるあかねをながめてくすくすと

笑った。

「笑うなんてひどいですよ」

「ごめんよ。あんまり可愛くて。……ほら来るよ」

 轟音と振動と共に、フジワラのブルーの車体が目の前のコーナーを豪快に通り抜け

て行った。まさに一瞬だった。これがコーナーでなければ本当にまばたきの合間に見

逃してしまいそうだ。

「す……ご……」

 あまりの迫力に何か言いたいと思うのに、気の利いた言葉が何一つあかねには浮か

ばなかった。

「いいエンジン音だ。調子は悪くなさそうだね。初めてのモナコに臆さず結果を出せ

るかもしれないな」

「今のあれだけでわかるんですか?」

「何、はったりだよ」

 友雅はそう言うが、彼なら本当にわかるのかもしれない。

「レーサーって怖くないのかな……」

「さあ……どちらにせよ正気の沙汰とも思えないね。私などには決して理解できない

世界だな」

「F1に関係するお仕事をしていても、そう思うんですか?」

「成り行きみたいなものでね」

「……だから退屈してるとか?」

「どうしてそう思うの?」

「でないと私みたいな行きずりで知り合った子に、こんなによくしてくださったりし

ないと思うので」

 あかねは真面目に言ったのだが、友雅は声を上げて笑った。

「また笑う!」

「すまないね。いや、私にとって君は命知らずのレーサー達の方に近い存在なのだけ

れど。まっすぐ前だけ向いて情熱のままに走っていける種類の人間だろう。まぶしい

存在だ。ただ、君が彼らと違うのは……」

 友雅がめずらしく言いよどむ。

「何か無性に手を差しのべたくなるね。放っておけないのだよ。出会いの時からそう

だった」

「友雅さんが優しいからですよ。私、相当あぶなっかしいんですね。天真くんや詩紋

くんにも時々言われるんです」

「君の美しい資質が皆にそう思わせるのじゃないかな。この人の手助けをしたい、と」

「それは褒め過ぎですけど……。私ともっと会って話してみたいとか……友雅さん思

えます?」

「おやおや。こうしてあの手この手で私が君を誘っている事実をどう考えているのだ

ろうね。困った姫君だ。もう少し自分の魅力を知るべきだね」

「迷惑じゃなければいいなって。……私は友雅さんとお話できるのが嬉しいんです」

「……安心していいよ」

 友雅は手にしていたシャンパングラスをあかねの目の高さまで掲げてから、一気に

飲み干した。







戻る 戻る    次へ 次へ


遙の書棚 Fullkissの書棚 いろいろ書庫 憬の書棚 刊行物ご案内 お食事日記掲示板 web拍手 メールフォーム
憬文堂