憬文堂
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◆   古風なロマンス
 Romance antique de Monaco
 ◆

   仲秋 憬


<水曜日>



 翌日はホテルで朝食をとってから、あかねは詩紋とともにパドックへ出かけた。

 天真は夕べは夜遅くホテルに戻り、早朝には、彼らを残して出かけた後だった。

見物気分の二人とは、やはり姿勢が違う。

 今日のあかねはジーンズに花柄プリントのシャツブラウスというラフな格好で、

詩紋と一緒に気兼ねなくパドックまで歩いていった。

 VIPパスのおかげで、電子ゲートを悠々と通り、一般の人が見物できるパドック

エリアの白い柵の向こう側へ入れる優越感のようなものは、あかねや詩紋には希薄だ。

 ただ友人の応援に来たとしか思っていないからだが、彼らの年代でパドックの奥へ

入れるのは、たいていはレーサーかメカニック等のチーム・スタッフの家族や恋人と

いった身内くらいのものだ。

「私たちって……浮いてる?」

「そうだね……みんな忙しそうだし」

「あ、あの人、有名なレーサーだよね? 何て言ったっけ?」

 口ひげをたくわえたその男が前を通ると、柵の向こうがざわついていたから、きっ

と人気のある速いレーサーなのだろう。

「ボクたち、本当に頼久さんしか知らないしなぁ」

「天真くん、マシンのとこにいるんだよね? 会いに行って邪魔にならないかな」

「見てるだけなら平気じゃないかな。お昼ご飯くらいはパドックの中で一緒に食べら

れるかもよ。フジワラは休憩時間と仕事の時間が、きっかり分けられてるんだって

言ってたから」

 詩紋は気軽に請け負った。



 二人が目指すフジワラのモーターホームのあたりで黄色い歓声が上がっていた。

 これからピットへ移動するのか、ちょうど頼久がモーターホームから出てきたとこ

ろだったのだ。

 人垣の中でも長身の頼久は頭ひとつ抜け出ていて、すぐわかる。

「頼久さんだ!」

「元気そうだね」

 レーシングスーツでない私服姿の頼久を久々に見て、二人はほっとする。

「頼久さん!」

 詩紋が声をかけると、離れた位置なのに彼は二人に気が付いたようだ。右手をあげ

て、こちらへ来いというような合図を返してくれたので、あかねと詩紋は、人をかき

分けて彼のところまで小走りで駆け寄った。



「モナコまで、よく来ましたね。昨日着いたのですか?」

「ええ、朝早くにパリでトランジットしてお昼前には着いたんですよ。午後は観光し

ちゃいました」

 詩紋が行儀良く答える。

「それはよかった。あかねさんも来られるとは思いませんでしたよ」

「だって頼久さんの晴れ舞台じゃないですか! そりゃ全部のレースは無理だけど、

一度はデビューの年に応援に来るって約束したでしょう?」

「ありがとうございます。頼もしい応援ですね」

 普段、寡黙で、どちらかと言えば近寄りがたい雰囲気の頼久も、この華やかなモナ

コでは、いつもより晴れやかな様子だったので、あかねも知らずに軽い口調になる。

「頼久さんは、これからお仕事があるんですか?」

「明日のフリー走行に向けて打ち合わせと……取材がいくつか。マシンの様子も確か

めたいですし」

「頑張ってくださいね!」

「ええ。でも予選に入るまでは、多少、時間もありますし、いつでもいらしてくださ

い。今回はピットに天真もいますしね」

「はい、お邪魔でなければ」

「あなた方は身内ですから大丈夫ですよ」

 頼久はそう言って、ピットへと歩いて行ってしまった。


「さて、と。これから、どうする? あかねちゃん」

「うーん、この辺で見ていてもいいんだろうけど……」

 彼らがF1のファンならば、次々にサインをねだりたくなるような人物があちこち

にいる夢のようなところなのだが、詩紋とあかねは本当に関心が薄かった。

「邪魔になっても悪いし、ちょっと天真先輩に挨拶したら海洋博物館とかに行ってみ

る?」

 詩紋の提案にうなずきかけた時、背中をぽんとたたかれて、あかねは驚いた。

「おはよう、姫君。また会ったね」

 背後に立っていたのは、昨日出会った長髪の美丈夫の姿である。

「友雅さん! 昨日はありがとうございました!!」

 見知らぬ男とあかねが親しそうに話すのを見て驚いている詩紋を特に意識する素振

りもみせず、彼は二人に笑いかけた。

「こちらが姫君と同行している友人かな?」

「あ、そうなんです。学校の後輩で幼なじみの流山詩紋くん。詩紋くん、こちらは橘

友雅さん。昨日、私が迷いかけてた時、助けていただいたの。モナコにはF1のお仕

事で来ているんですって」

「初めまして……橘さん」

「友雅でかまわないよ。流山くん……ということは、失礼だが、もしかしてフジワラ

本社の社長令息かな?」

「あ……父をご存知なんですか」

「私はフジワラのスポンサー関連企業の者でね。そうか、それで君達はVIPパスを

持って来ていたんだね」

「ええ、まぁ……そんなところです。チームに知り合いもいるので」

 友雅にすっと右手を出されたので、そのまま握手をしながら詩紋は答えた。

「それより、あかねちゃん、昨日迷いかけたって……迷子になったの?」

「あ……ううん、そうじゃなくて、どこへ行こうか、ふらふらしてて……」

「あかねちゃん!!」

 いつもはおだやかな詩紋が、らしくなくとがめる調子で声を上げる。

「どうして、そんな。危なかったんじゃないか。あてがなかったならボクとニースへ

来ればよかったのに」

「ごめんね。本当に見たいところは、ちゃんとあったんだけど、私が入れないところ

だったの。そしたら友雅さんが博物館を案内してくれたんだ。黙ってて本当にごめん

なさい」

「フジワラの関係者ならまんざら縁のない者じゃないから、心配しないでいいよ。

姫君にかわいいナイトがいるとは知らなかったものだから。すまないね」

「いえ……その、ボクこそ騒いじゃって失礼しました」

「そんなことは気にしなくていい。モーターハウスに来たのかな?」

「ああ、今そこで頼久さんに会えたので、もうそっちには用事がないんです」

「頼久と知り合いなのか」

 友雅は少し意外そうな顔をした。

「ええ……日本でフジワラからレースに出てる時も……よく応援に行ってたんで」

「そう、なるほどね」

 納得している友雅に、詩紋が尋ねた。

「友雅さんは父とも頼久さんとも面識あるんですね。失礼ですけど、スポンサーの…

…どちらの方だか伺ってよろしいですか?」

「これは失礼。アランチャーノの広告宣伝の仕事をしている。これがパスだ」

 あかねも昨日見せてもらった顔写真の入ったVIPパスを見せられて、確かに間違

いはないと詩紋も判断したようだ。

「アランチャーノって……あのデザイナーズ・ブランドの?」

 あかねが尋ねる。

 アランチャーノは誰もが聞いたことのあるミラノ・ファッションの世界的ブランド

だ。シックな皮鞄や靴に、バロック趣味のアクセサリー。極上のスーツ。鮮やかな布

地をふんだんに使うドレス。

 そのアランチャーノがスポーツ・ファッション部門の強化にも乗り出して、F1ス

ポンサーに名乗りを上げたのは、つい最近だ。

「……去年からフジワラの筆頭スポンサーだよ。レーシングスーツもマシンのカラー

リングもアランチャーノ・カラーになったんだ」

 詩紋が説明すると、あかねは、ぱんと手をたたいた。

「あ、頼久さんの青いレーシングスーツ!」

「そうそう、あれはスタイリッシュで頼久に似合っているだろう? モデルとして申

し分ないね」

 友雅が笑った。

「ああ、それで友雅さんも、おしゃれなんですね。普通の人じゃないなあって思って

いたんです」

「そうかな? ありがとう」

 少々素直すぎるあかねの評価にも、友雅は悪びれず礼を言った。

 今日の友雅は、グレーの細い縞が入った白いシャツに、麻が入っているらしい生地

のブルーグレーのジャケットとスラックスで、洗練されたセンスでそろえられた服装

に身を包むモデルか俳優に見えた。

「ところで、こちらのかわいらしい姫君とナイトは、これから、どうするところなの

かな?」

「えっと……ちょうど、どうしようかなーって思ってて……」

「天真先輩……あ、チームでメカニックのアシスタントしている友人がいるので、彼

に挨拶したら、海洋博物館にでも行こうかなって」

「それはいいね。アルベール一世の偉大な遺産だよ。ぜひ見てくるといい」

 年長者が子供を褒めているような友雅の口調だったが、嫌味な感じは全くなく、あ

かねも詩紋も安心して彼の言葉にうなずいた。




 友雅と別れた詩紋とあかねがフジワラのピットに行ってみると、下っ端として例外

的にメカニックにもぐりこませてもらっている天真は、やはり彼らの相手をする余裕

はなさそうだった。

 行き交う英語にもひるまず、黙々とアシスタントに徹している彼の様子を遠目にな

がめて、詩紋とあかねは声をかけるのをあきらめた。

「天真くん、頑張ってるんだなぁ」

「先輩、夢があるもんね」

「すごいなぁ。天真くんは小学生の頃から絶対レーサーになるって言ってたもんね」

「あかねちゃんだってなりたいものあるでしょ?」

「私?」

「オペラ歌手めざしたいんじゃない?」

「詩紋くん知ってたの?」

「うん。あかねちゃん声楽のレッスン始めたって聞いたよ」

「……遅いくらいなんだけどね。でも歌はピアノやヴァイオリンとかと違って……声

帯が成長してから始めてプロになった人も多いって」

「あかねちゃん、声きれいだし、いいと思うな」

「……ありがとう。まだ今いち細い声しか出ないんだけどね。頑張ってみようと思っ

てる」

「ボクも頑張れること見つけたいな」

 詩紋はフランス人の祖父ゆずりの青い目を閉じて、天を仰いだ。



 結局天真には声をかけずに、仮設カフェでサンドイッチとオニオンフライをパクつ

いてパドックを離れようとした時、二人はピットに向かう前に挨拶した友雅と、また

すれ違った。

 今度は、友雅の方も二人連れで、眼鏡をかけた日本人の若い男性と一緒である。

「おや、また会えたね。ずいぶん縁があるようだけれど、君たちは、もうここを出る

ところかな」

「はい、博物館に行こうと思います」

 折り目正しく詩紋が答える。

「そう……食事は?」

「お昼ですか? さっき、そこのカフェで」

「ああ……あそこでは、まともなエスプレッソも飲めないけれど、チームを眺められ

るのは面白いかな」

 友雅は笑った。

「ねえ鷹通、すまないが、後は君にまかせて、私はこれからフジワラ本社の社長令息

と会ってこようと思うのだけれど」

 友雅に鷹通と呼ばれた眼鏡の男性は、いぶかしそうな表情を見せた。

「フジワラの社長令息ですって? そんな話は伺っていませんが、モナコに来ている

んですか? 本当に?」

「情報が遅いね。昨日ご友人とモナコ入りしているよ。そういうわけで、これから私

は彼と会食だ。ビジネスチャンスを広げてくるから、パドックの方は頼んだよ。……

さあ、行こうか」

 友雅はそう言って、詩紋とあかねの背を押して、ゲート目指して足を速める。

「待ってください、どこへ行かれるんです?!」

「ホテルのラウンジにいるから、火急の用事があれば携帯電話でね」

 振り返らずに片手を上げてバイバイと合図を送ると、友雅はもう背後から呼ぶ声を

気にせず二人の少年少女を引き連れてパドックを出た。



「あの……友雅……さん?」

 わけがわからずパドックの外まで連れ立ってきた、あかねが、おそるおそる友雅に

声をかけた。

「ちょうど良かったよ。仕事熱心も結構だが、彼は行き過ぎでね」

 つまり詩紋とあかねは、友雅のサボリの口実に使われた、と言うことだろうか。

「ああ、そんな顔をしないで。……そうだね。では、まともなコーヒーが飲めるとこ

ろにでも行こうか。ごちそうするよ」

 友雅はきれいにウィンクをしてみせると、とまどう二人を先導してモンテカルロを

優雅に歩いた。



 友雅が言う『まともなコーヒーの飲めるところ』は、とんでもないところだった。

「……ねぇ、ここ……オテル・ド・パリ……だよね」

 あかねが小声で詩紋をつっつく。

「うん……それに……たぶん、一見さんお断りだよ…………ずっとreserved

の札かけてるみたいだもん……」

 1864年創業、モナコの歴史のほとんどすべての舞台になってきた伝統も格式も

ホスピタリティーも欧州で指折りのハイグレードなホテルのラウンジに二人はいた。

友雅はこの豪奢なスペースにふさわしい雰囲気の持ち主であったが、連れてこられた

二人は借りてきた猫のようだ。目の前に出されたフレッシュ・ジュースに手をつける

のにも緊張して、落ち着かないことこの上ない。 

「どうしたの? 何か他にも頼もうか。紅茶の方がよかったかな」

 この絢爛たる装飾に包まれた空間でリラックスしきっている友雅に、なんとか笑顔

で答えようにも、年若い二人は、ぎこちなくこわばっていた。

 友雅はそんな二人をながめて小さく笑った。

「そんなに固くならなくていいよ。たかがホテルのラウンジだ。こちらは客なのだか

ら堂々としておいで」

「は……い」

「大丈夫。こんなものは慣れだよ。萎縮することはない。それより雰囲気を楽しみな

さい。確かにこのホテルは他のどのホテルにないものがあるからね」

 そう諭されて、ようやく周囲をゆっくり見渡せる余裕も出た二人は、他で経験でき

ない社会勉強をたっぷり味わい、いざ支払いの段で、また目を丸くした。

 友雅がカードを出したところでマネージャーらしき男が飛んできて、友雅にフラン

ス語で何か言っている。

「詩紋くん……あの人、何言ってるかわかる……?」

「……あなたに支払わせる事なんてできない……って」

「………………」

 結局、ホテルのおごりである。

 友雅がどういった人物なのだか、よくわからないが、とにかく本物のVIPらしい

ということはわかった。

「友雅さん……って、実は、すごい人なんですね」

 ホテルを出て、あかねが言うと、友雅は笑って首を振る。

「そんなことはないよ。少しばかり長く生きていると、いろいろ融通がきくようにな

るだけさ」

 何でもないように言う友雅が、どこか寂しそうにも見えて、あかねは言葉を失った。

「本当にね……こうやって若くして恐れず異国へやってきて、すべてを吸収し羽ばた

こうとしている君たちの情熱の方が得難いものだよ」

 友雅はそう言って、二人を海洋博物館へ向かわせ、その日は別れた。







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