憬文堂
遙の書棚 Fullkissの書棚 いろいろ書庫 憬の書棚 刊行物ご案内 お食事日記ブログ web拍手 メールフォーム


秘  曲
仲秋 憬 


                   < 伍 >


  あかねの乗ってきた左大臣家の網代車は、友雅のはからいで、すでに帰されていた。

 友雅は入道の庵の少し先に、自分が待たせていた車に、あかねと共に乗り込んだ。牛

 車はゆっくりと洛中をめざして動き出した。

  向き合って座る車の中で、あかねは友雅に事情を説明させられた。


 「今年こそは、友雅さんのお誕生日にあわせて贈り物をしたかったんです。去年は、

 それどころじゃなかったでしょう? 京では、特にお誕生日のお祝いをしないって聞

 いていたけど、私、やっぱりお祝いしたかったの。生まれてきてくれてありがとうっ

 て感謝をするのは悪くないですよね」

 「もちろんだ。うれしいよ」

 「でも、私が友雅さんに自分の力で贈れるものって、なかなか思いつかなくて。友雅

 さんが本当にもらって嬉しいもの、興味のあるもの、役に立てるものって、私には難

 しかったです。私が友雅さんの役に立てることってないか、いつも考えてるのに」

 「それで『流泉』に行き当たったのかい?」

 「友雅さんの琵琶が好き。あんな風に演奏できたら、どんなにいいだろうって思うし、

 友雅さんも楽しんで演奏してるでしょう? だったら琵琶の贈り物なら喜んでもらえ

 るかなって……。昔、琵琶の上手な人と付き合ったとか、お話も聞いたし」

  友雅は、おや、という具合に片眉をあげて、あかねを見た。


 「神子殿、もちろん『流泉』は素晴らしい贈り物だったよ。君は知らないだろうが、

 北嵯峨の入道の琵琶を聴けるなどとは、考えてみたこともなかった。あの方は出家さ

 れてから、すっかり世を捨てて、人と交わることなく暮らされていてね。琵琶の名手

 と知られていても、帝のお召しにすら、はかばかしい返事をされないほどだから」

 「ええっ?! 本当ですか?」

 「そうだよ」

  友雅の話は、あかねを驚かせた。入道がそこまで人を拒絶しているようには感じな

 かった。現にあかねは、このひと月、何度も庵に通って、近しく接していたのだから。

 「あの気むずかしい世捨て人の入道殿と、まともに渡り合えるなんて、月の姫君であ

 る君ならでは、だよ。……恐ろしくはなかったの?」

 「全然。……ううん、最初は少しこわかったけど、でも入道様が笑うとね、似てるん

 です」

 「似てる? 誰に?」

 「…………お父さんに。ちょっとだけ」

  あかねは、父親の面影を思い出して、自然に微笑んだ。やさしい思い出は、ささや

 かな沈黙を連れてきた。友雅は、あかねの追憶を邪魔するのを怖れたのか、しばらく

 の間、口を開かなかった。


  あかねが、ふと気がついて、視線を上げると、今度は言葉を選ぶようにゆっくりと

 話をはじめた。

 「……本当に見事な演奏だった。私もまだまだ甘いということだね。でも、神子殿、

 だからと言って、私の心を騒がせた、という意味では、『流泉』などより、もっと心

 ひかれる曲があるのを、ついさっき、知ったのだけれどね……」

 「はい?」

  あかねは友雅が何を言おうとしているのか理解できずに、聞き返した。友雅は、そ

 んなあかねを見て、ため息をつきつつ言った。

 「神子殿は私に内緒で入道様のところへで出かけてかけていって、私の知らない君の

 故郷の歌を歌っていたんだろう? 私も聞いたことがないのに、会ったばかりの入道

 殿の前で、乞われるままに何曲も歌っただなんて」

 「えぇ?」

  あかねは、ようやく友雅が言わんとするところに見当がついて驚いた。彼は年甲斐

 もなく拗ねているのだ。

 「どうも君は、自分が、どれだけ人の心を騒がせるかわかっていないね。やはり、こ

 のままにはしておけないな……」

 「と、友雅さん?」

 「流泉は、すばらしい曲だね。まだ耳に残るようだ」

 「ええ、本当に」

 「私があれを弾こうとしても、なかなか同じように奏でることはできないだろうな」

 「そんなこと! 友雅さんならきっと」

 「いや、それを、確認できるのは、君だけしかいないね。君の尽力のおかげで、入道

 殿が演奏してくださったんだ。今、この京で『流泉』を聴いた者は、私と君だけだろ

 う。だから君は、私の『流泉』のおさらいに、これから夜毎つきあってくれなくては

 ならないな」

 「え、それは、もちろん、私にそんなことができるんだったら……」

 「ああ、そうして、私も君の歌を聴かせてもらわないと」

 「な! わ、私の歌なんかっ!」

 「入道殿には聴かせていたのに、私には聴かせてくれないのかい?」

 「だって、だって……」

  あかねは真っ赤になってしまった。

 「誕生日のお祝いに、欲しいものをねだっていいと君は言ったね」

 「……『流泉』じゃ、だめでしたか?」

 「そうじゃないよ。本当に嬉しかったよ。君が私のために時間をかけて用意してくれた

 この上ない贈り物だった。ありがとう。でも、私は、どうやら、とことん欲深だったら

 しくてね。『流泉』だけでなく、前からずっと欲しかったものも、所望したくなってし

 まった」

 「友雅さん、欲しいもの、あったんですか? 何ですか、それ? 今から私に用意でき

 ますか? 明日のお誕生日までに間に合いますか?」

 「望んでも、いいのかな」

 「そりゃあ、もう! 教えて下さい!」

  あかねの言葉に、友雅はこの上もなく幸せそうに笑った。あかねは、何度見ても、友

 雅の、この笑顔に慣れなくて、つい、ぼうっと見とれてしまった。



  ごとりと車が辻の角を曲がったようだ。

  あかねは開かれた物見の窓から、外の様子をうかがって、不思議に思う。何度も通っ

 た道だ。間違えるはずがない。

 「友雅さん、道が違いませんか? 土御門はこっちじゃないですよね?」

 「そうかい?」

 「そうですよ。ねえ、友雅さんってば!」

 「……私が信じられない?」

 「え? 何で、そんな」

 「私が君をあぶない目にあわせるようなことをすると思うかい?」

 「まさか!」

 「だろう?」

 「……でも、時々、意地悪です」

 「月の姫、あなたが私を困らせるからいけない」

 「もう! すぐそういうこと言って、はぐらかして……」

 「そうでもしないと自分が押さえられないからだよ。この男心を察していただきたいも

 のだな。……いや、そんな君だから、今まで何とか土御門に置いておくこともできたの

 だけれどね」

  友雅はうつむいて、今日は、もう何度目になるのか、ほうっと大きなため息をついて

 みせた。あかねは、この友雅の態度をいぶかしんだ。そうっと下からのぞき込むように

 友雅の顔をうかがう。友雅がとじていたまぶたをぱっとあけて、あかねの目を捉えた。

 「私は望んでもいいんだね。君はさっき、そう言った」

 「え、ええ、それはもちろん。私が用意できるものなら、ですけど」

 「君でなければ用意できないものさ。私が欲しい物はひとつだよ。わかっているくせに、

 意地悪なのは君の方だよ」

 「友雅さん?」

 「ああ、着いたようだ」



  大きく一揺れした後、どうやら牛車は目的地の門をくぐって、降り立つべき場所へ、

 たどりついたようだった。

  友雅は先に車から降りると、あかねを手招く。

 「どこですか? ここ……」

  あかねが不思議そうに言って、友雅のさしのべた手を取り、車から降りようと身をか

 がめたところで、友雅は軽々と車からあかねを抱き上げてしまった。美しく襲目を出し

 たあかねの衣の裾がぱさりと広がり、友雅の袖から下を覆った。

  慌てたのはあかねである。

 「と、友雅さんっ! 下ろして! 下ろしてください!」

 「だめ」

  にっこり笑って、あかねの訴えを遮ると、あとはおかまいなしに、あかねを抱いたま

 ま、目の前の見事な屋敷に上がり、透渡殿をどんどん進む。その足取りは軽く、腕に抱

 き上げたあかねの重みなど、まるで感じていないかのようだった。


  そこは土御門殿よりは、よほどささやかな、こじんまりした屋敷だったが、何も知ら

 ないあかねにしてみれば、充分すぎるほど立派な作りの美しい庭を持つ屋敷だった。

 「ねえ、友雅さん、ここって……」

 「きょうから君がここの女主人だ。私が望むものは、わかるだろう?」

  屋敷の中心である寝殿まで来て、友雅はようやく足を止めた。前庭を望む格子はすべ

 て開け放たれ、御簾も上げられて、長雨がやんだ後の、すがすがしくもまばゆい夏の光

 が射し込んでいた。

  そう、まるで、あかねが暮らしていた土御門殿の片隅、龍神の神子の間のように。


  友雅は満足そうな笑顔で、抱き上げているあかねを見つめる。

 「愛しい君とずっと一緒に過ごしたい。それだけが私の望みだよ。藤の蔓で覆われた土

 御門の屋敷には、もう帰さない。気まぐれな雨や、忌み日に邪魔されるのは、もうたく

 さんだ。日を選んで通うばかりでは我慢ができなくなってしまったよ。誰でもない、私

 が耐えられないんだ。おかしなものだね。この屋敷へ恋人を入れたのは初めてだよ、月

 の姫。そしてあなたが最後だ。私のかわいい北の方」

  友雅は音をたててあかねの耳元に口づけた。

 「友雅さん……あ……」

 「君をさらって、閉じこめようとしている悪い男だね、私は。お願いだ。私のすべてを

 捧げるから……」

  友雅は奥の帳台の中にするりと入ると、あつらえられた褥の上に、ようやくあかねを

 下ろした。あかねはまるで夢見心地で、あらがうことなど考えられずにいた。

 「君のすべてを許してほしい」

  友雅は夜の帳(とばり)が落ちるのを待たずに、あかねを抱き伏して、彼女が否やを

 告げる間もない行為にのめり込む。

  あかねの羞恥もためらいも、この時ばかりは置き去りにされた。

 「聞かせておくれ。君の声を。それこそ、私だけが聞ける秘曲だよ。誰にも聞かせない。

 私だけ……いいね?」



  そうして、秘曲は、この日から、友雅のものとなったのだ。この世に生まれ落ちた日

 を祝う、感謝と喜びにあふれた、その新床で。

  あかねは、もはや土御門に帰ることなく、友雅は、ただひとつの望みをかなえて幸福

 になった。あかねのもたらした秘曲のすべては、永遠に彼だけのものだった。



 

                   【 終 】






戻る 戻る   ライナーノートへ ライナーノートへ


遙の書棚 Fullkissの書棚 いろいろ書庫 憬の書棚 刊行物ご案内 お食事日記ブログ web拍手 メールフォーム
憬文堂