憬文堂
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秘  曲
仲秋 憬 


                   < 四 >


 「神子様、きょうも、おでかけになるのですか?」

 「ああ、藤姫。ちょうど雨だしさ。行ってくるね」

 「このような雨の中、外出されるなんて……。お身体にさわっては大変です」

 「だって約束だもの。それにね、きょうはどうやら脈があるみたいなの。できるだけ正

 装してこいって言われたもの。そんなこと言われたの初めてよ。ね? だからこうして、

 ちゃーんと袿(うちぎ)も重ねて裳だって着けたし! さすがにこの格好で歩くのは無

 理だし、牛車を出してもらわないとならないから、雨の中、申し訳ないんだけど」

 「そのような事は、かまいませんわ。けれど神子様が、そこまでなさらなくても……」

 「いいの、いいの。もう時間的にぎりぎり! 明日は本番にしてもらわないと、お祝い

 の意味がなくなっちゃう」

 「長雨が続いてきたとはいえ、そろそろ限界のような気がいたしますわ。神子様、いく

 ら雨障み(あまつつみ)と言っても、雨が降るから絶対に外出してはならないというわ

 けではありませんのよ。友雅殿のことです。神子様にお会いになるためなら、白装束に

 大傘でもさして歩いて通ってこられるかもしれませんわ。そうしたら、いくらわたくし

 でも、隠しきれるかどうか……」

 「今まで、うまくいったんだもの。あと一日、きっとうまくいくって!」

 「神子様……」


  土御門殿の西の対で、あかねと藤姫は、雨の外出についてやりとりをしていた。

  あかねが北嵯峨の入道を訪ねてから、ほぼひと月が過ぎた。五月の長雨にまぎれて、

 あかねは、せっせと北嵯峨に通った。雨の夜なら友雅が土御門殿に通ってくることはな

 い。雨の日の逢瀬は禁忌なのだ。

  長雨で会えない恋人たちは、普通「つれづれのながめ」など憂えて、恋歌のやりとり

 に情緒を見出したりするものだ。現に友雅からも嫋々とした歌をしたためた文が、毎日

 のようにあかねのもとに届けられる。

  しかし、あかねの方は、それどころではなかった。友雅が来られないのを見すまして

 の北嵯峨通い。ついに明日は六月十一日で、友雅の誕生日だ。この日に間に合わなかっ

 たらどうしようと、あかねも長いこと気をもんできた。

  しかし、ようやく今日こそは、結果が出そうなのだ。以前、友雅に聞いた百夜通いの

 恋の話に比べれば、なんてことはないのだが、それでも、時間をかけたあかねの苦労が

 報われる時が、ようやく訪れたと言っていいだろう。


 「もし、友雅さんから、お文が来たりしたら、うまく言っておいてね!」

 「神子様、どうぞお気をつけて行ってらっしゃいまし」

  不安そうに声をかける藤姫に笑って手を振り、あかねは、いつものような汗衫姿では

 なく、きちんと花橘の襲目を見せた装束を身にまとって、雨の中を注意深く牛車に乗り

 込んだ。

  我慢しきれず、車宿に側近い中門まで出てきた藤姫や女房たちは、あかねの乗った網

 代車が、門を出て見えなくなるまで見送った。




  雨でぬかるむ道を、それでも牛車はゆるゆると進んだ。このひと月の間、何度も通っ

 た北嵯峨への道は慣れたものである。

  青々とした自然の洞のような、竹林の中をぬって続く道までやってくると、北嵯峨の

 入道の庵は、もう目と鼻の先だ。天も隠れるほどに伸びた竹のおかげで、雨足も弱まる。

 「ありがとう、本当にご苦労様! もう、そこだよね。入道様のところで、着替えをさ

 せてもらおうね」

  牛飼童(うしかいわらわ)にねぎらいの声をかけ、あかねは泥でもついて汚さぬよう

 に注意深く、両手で裳や袿、袴のそばをたくし上げるようして、網代車から降り立った。

  牛飼童はあかねの後ろから、わずかな雨にも濡れないように大傘をさしかける。正装

 の装束の裾をかかげた足下ばかりに気を取られ、あかねは周囲をよく見ていなかった。


  そろそろと庵の南側、竹縁までたどりつくと、簾の向こうにいるのだろう入道に声を

 かける。

 「入道様、あかねです。お話の通り、おめかししてまいりました。入道様!」

 「そうか。では、きょうもひとつ聴かせてもらおうか」

  ばらりと簾が上がり、墨染の法衣姿の入道が顔を出した。

 「何を歌えばいいですか? お望みなら何度でも歌います。でも、どうか明日は私の願

 いをかなえて下さい。きちんとお願いするつもりで、こうして身を改めて来たんです」

 「もとより、約束を違えるつもりはないがな。きょう、ここで、は如何かな」

 「それでは意味がないんです。あんなにお話したじゃないですか。秘曲をお聴かせいた

 だきたいのは私ひとりじゃありません。伝授がかなう琵琶の奏者は私じゃないんです」

 「……しかし、そなたの後ろにいるのが、その者だろう」

 「え?」

  あかねは何を言われたのかわからずに後ろを振り返った。


  軒下から落ちる雫を避けるため、竹縁に上がっていたあかねに、後ろからずっと傘を

 さしかけてくれていたはずの牛飼童の姿は、ない。

  傘を持ってあかねの背を守っていたのは、橘友雅、その人だった。

 「友雅さんっ?! ど、どうして、ここにっ!」

 「長雨に飽いた月の天女は、ふがいない私にすっかり愛想をつかされて、どこへ通って

 おられるのかと思いきや……。まさか、このような聖に心を奪われてしまったとは」

 「な、なななななっなんで、そんなっ!」

  あかねは、なぜ、ここに友雅がいるのか、訳が分からず、混乱した。

 「いくらなんでも、このひと月の、君のつれなさを、私が気に病むとは思わなかったの

 かい? 悲しいな」

 「あの、えっと、だって、そんな……」

 「あまりにも様子がおかしいと思ったから後をつけたよ。私に内緒で、綺麗に身支度し

 て、こんなところで、一体何をするつもりなのか、気が気じゃなかった」


 「こんなところで悪かったな」

  入道は、あきらかに不機嫌そうな態度を隠さない。あかねは、竹縁にへたりこんだま

 ま、友雅と入道を交互に見て、うろたえるばかりだ。

 「そなたが四位の少将、橘友雅か」

  龍神の神子を支え共に京を救う戦いに八葉として身を投じていた友雅は、官職こそは

 少将のままだったが、恩賞として特に位を賜り、四位の少将となっていた。入道は、そ
 
れを知っていたのだ。

 「北嵯峨の入道様には、お初お目にかかります。さよう、今ここでは、この龍神の神子

 の君を恋い慕う、ただ人に過ぎませんが」

  友雅は礼を尽くした態度で頭を下げた。

 「世を遁れて、このような鄙(ひな)に隠れ住む者にも、去年の騒ぎは、いやでも耳に

 入ってきおったわ。まして鬼による穢れは、この地も見逃してはくれなんだ」

  入道は、昔を思い出しているかのように、ふと目を細め、それからおもむろに友雅を

 正面から見据えた。

 「そなたが本当に『流泉』の伝授にふさわしい技量の持ち主かどうか、わしは知らん」

 「入道様!」

  あかねが思わず声を上げた。

 「しかし、神子と約束したからな。ここへ通い、私の知らぬ異界の曲を聴かせてくれる

 なら、時満ちる時に『流泉』を奏でようと」

 「不肖の身である私が秘曲にふさわしい奏者たり得るか、自分ではわかりません。しか

 し、私の元へ舞い降りた輝く月の天女が信じることは、私にとって真実となりますゆえ」

 「ふん、ぬけぬけと言いおるわ」

  どこか面白そうに口元をゆがめて入道は言った。


 「入道様……、かないませんか?」

  あかねがおそるおそる尋ねると、入道は、友雅に対して見せた表情とは打って変わっ

 たもの柔らかい笑顔を見せて言った。

 「神子、誰も聴いたことのない楽に意味があるかと言ったな。楽を奏でたところで、右

 から左に素通りしていくような聴くべき耳を持たぬ者、感じる心のない者に、聴かせる

 ことのできない曲もあるのだ。まして、これは弾き手が下手だと、へそを曲げて、音を

 鳴らしてもくれぬ」

  入道は庵の内の竹吊り棚の下に、錦にくるまれ立てかけてあった琵琶を手に取った。

 神妙な手つきで綴じ紐をほどき、取り出した琵琶は、紫檀で作られ、見たことのない樹

 木や草花の蒔絵で埋め尽くされた、美しい琵琶だった。

 「これは……もしや『青山(せいざん)』……?」

  遠い昔、唐からやってきたという伝説の琵琶の名をつぶやき、友雅が息を呑んだのが、

 あかねにもわかった。

 「この琵琶も、かつて遠い国からこの京へ渡ってきたものだ。神子と同じだな」

 「きれい……」

  あかねは、すっかり心を奪われて、入道の手にしている琵琶に見とれる。

 「ほしいままに異界の歌を聴かせてもらった。その礼は、せねばなるまい」

  入道は撥(ばち)を取り、円座に座って琵琶をかまえると、調弦の音を鳴らす。あか

 ねが今まで聴いたことのないような、深い張りのある絃の音が鳴った。


  それは琵琶の音というより、何か人ならぬ神の歌声のような楽の音だ。朗々と、時に

 ささやくかの如く、むせぶが如く、高い音、低い音が、幾重にも重なり、流れとなって

 聴く者を魅了する。

  今まで、友雅に聴かせてもらった曲は、もちろん素晴らしかった。しかし、この入道

 の奏でる琵琶は、まったく次元の違うものだ。

  あかねは友雅と並んで竹縁に座りこみ、我を忘れて陶然と、その琵琶の音に聞き惚れ

 ていた。天と地を、夢と現を行き来するように、曲は流れていく。それは遙か彼方の異

 界へとつなぐ架け橋のようだ。聴く者の心を、ここではないどこかへ誘う曲。


  入道の撥が止まった。

  しばらく誰も声を発する者はなかった。

  雨はいつのまにかやみ、竹林を渡る風の音もなく。


 「……ありがとうございます。入道様、すばらしかったです。忘れません、私」

  あかねは震える声で礼を言った。

 「心より御礼申し上げます。入道様」

  友雅が頭を下げた。

 「礼は神子に言うのだな。精進するがよい、四位の少将」 

  入道は静かに言うと、手にした琵琶を愛しげになでて、ふたりの帰りを見送った。





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