憬文堂
遙の書棚 Fullkissの書棚 いろいろ書庫 憬の書棚 刊行物ご案内 お食事日記ブログ web拍手 メールフォーム


秘  曲
仲秋 憬 


                   < 参 >


  嵯峨野は風情のある地だ。伊勢の斎宮が潔斎の日々を送る野宮もほど近く、浅茅が原

 を覆う緑をそよがす風すらも清浄な気をはらんでいるようだ。

  さらに足を進めたどりついた北嵯峨の入道の庵は、見事な竹林に囲まれてひっそりと

 あった。小柴垣に囲まれた簡素な庵の静寂をやぶるのは、少しこわくもあったが、あか

 ねは思い切って、中をうかがい、声をかけてみる。

 「すいませーん! 北嵯峨の入道様は、いらっしゃいますかー? お願い事があってま

 いりましたぁ!」

  あかねの高く澄んだ声は、静けさを切り裂き、よく響いた。

 「いらっしゃいませんかぁ? 北嵯峨の入道さまー! 琵琶がお上手だと聞いてやって

 まいりました! 入道さまー!」

 「やかましいおなごだ。この世捨て人に、いったい何のようだ」

  南を向いた庵の竹縁に、剃髪し、鈍色(にびいろ)の法衣に身を包んだ初老の男が現

 れた。

  あかねは勢い込んで、竹縁まで駆け寄った。

 「北嵯峨の入道様ですか? 私は元宮あかねといいます。わけあって京の左大臣家の片

 隅に住まわせてもらっている者です」

 「京(みやこ)の者か。こんなところまで来て、ご苦労なことだが、私に加持祈祷など

 頼んでも無駄だぞ」

  じろりと眼孔鋭くにらまれたが、あかねはひるまない。入道はすっと切れ長の目に力

 があり、ほどよい肉付きの体躯で堂々としていて、飾り気のない地味な法衣でも決して

 貧相に見えない。世捨て人と言うだけ合あって、こだわりのなさそうな身軽な出で立ち

 だが、貴族であった頃は、さぞ押し出しの良い立派な人物だったろうと思われた。

 「いえ、そんなことでお訪ねしたんじゃないんです。入道様は琵琶の大変な名手だと伺

 いました」

 「琵琶? それも昔の話だ」

 「なんでも伝えられた琵琶の秘曲を奏でることができるのは入道様だけだそうですね。

 お願いです! その秘曲、どうか聴かせてはいただけませんか?」

 「……そなたのような娘が? 琵琶を弾くのか?」

 「あ、いいえ! 違うんです。私は弾けません。私の大事な人が、とても琵琶を上手く

 弾くんです。入道様の秘曲、どうか、その人に教えてはいただけませんか?」

 「ことわる」

  入道はにべもない。

 「突然に来て、失礼なお願いをしているのは充分承知しています。でもお願いします。

 私にできることなら何でもしますから!」

 「そなたが琵琶を弾くのでないなら、どうして、琵琶を弾くという、その者が来ない? 

 それでは意味はなかろう。さあ、帰りなさい。他人に聴かせる楽など奏でる私ではない」

 「待って! 待ってください!!」

  庵の中へ引き返そうとする入道にすがるあかねも必死であった。


  その時、何か目に見えない力が、あかねと入道を包んだ。

  あかねが龍神の神子として力を発現させる時に感じるまばゆい気の奔流。あかねの身

 の内から、あふれ出た神気が、入道を引き止めた。

 「そなた……ただ人ではないな」

  あかねに袖を取られて振り返った入道は目を細めて、まじまじとあかねを見た。射す

 くめられるような強い視線に、あかねは、たじろがない。

 「入道様、誰ひとり聴くこともなく埋もれてしまったら、いくら秘曲だって、意味がな

 いんじゃないですか?」

 「おかしなことを言う」

 「入道様は、これまで何のために琵琶を演奏されてきたんですか? 誰かに聴いてもら

 うためじゃないんですか? 誰も聴かない、誰も知らない曲なんて、最初からないのと

 一緒じゃありませんか」

 「…………そなた、何者だ」

 「元宮あかねです」

 「左大臣家にいると言ったか? 土御門には星の姫がいたな。──龍神の神子。そうか。

 そなたが龍神の神子か。異界より来たりてその身に龍神をやどし、京を救った神子姫か」

 「……そんな大層なことしてません。大事な人達が大事に思うものを、ただ守りたかっ

 ただけです。私ひとりじゃ何もできません」

 「去年の今頃、野宮から、この北嵯峨にかけても穢れに満ちておったわ。そうか……」

 「入道様!」

 「では神子よ。そなたが異界より来た者だというなら、取引をしようではないか」

  あかねに向き直り、ふっと笑みを漏らした入道の表情は、少女に、もう会えない時を

 隔てた懐かしい人を思い出させた。




戻る 戻る    次へ 次へ


遙の書棚 Fullkissの書棚 いろいろ書庫 憬の書棚 刊行物ご案内 お食事日記ブログ web拍手 メールフォーム
憬文堂