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秘  曲
仲秋 憬 


                   < 弐 >


  あかねの知己で管弦に堪能な者といったら、友雅の他には、やはり八葉で天の玄武で

 ある永泉しかいなかった。今上帝の弟宮で、出家の身である法親王の永泉は、笛の名手

 である。宮中の宴などでは友雅と共に帝の御前で楽を所望されることもあるという。

  彼なら、琵琶について、何か友雅の興味を引きそうなことを知っているかもしれない。


  早速あかねは永泉に文を書き、前触れをしてから、彼の暮らす御室寺へ出かけること

 にした。

  神子として京中を駆け回っていた頃とは、あかねの立場も少しだけ変わってきている。

 左大臣家では神子というより姫君扱いされ、気軽に外出してくれるなと周囲に言われて

 もいるのだが、現代社会で育ったあかねとしては、一歩も外に出ず日々を過ごす窮屈な

 暮らしには、どうしてもなじめない。

  最近のあかねの外出姿は、もっぱら動きやすいように短く仕立てた童女の汗衫(かざ

 み)姿だ。濃赤色生絹(こきいろすずし)の切袴の上に、、衝丈(ついたけ)に仕立て

 た汗衫をはおる。身につけた夏の汗衫は、生絹(すずし)の目染め青群濃(あおむらご)

 で、肩の袖付けの縫い目は閉じずにほころばせてあり、青い丸打の組紐を通して結び下

 げている。履き物も素足に草履で、軽やかに歩くと、涼しげな汗衫の裾や袖がふわふわ

 とひるがえり、気分がいい。

  すでに夫と呼べる人を通わせているようには、まず見えないことなど、あかねはまっ

 たく気にしていなかった。

  しかし、さすがに一人で外出はまずいので、きちんと舎人に付いてきてもらうくらい

 の分別はある。いたずらに心配をかけると、ろくなことがないのは経験済みだ。気軽な

 ご機嫌伺いだからと、手すきの者一人に供を頼み、あかねは元気良く歩いていった。




  御室寺で永泉に目通りを願うと、彼は待っていたかのように、心から歓迎の意を伝え

 る柔和な笑顔であかねを迎えた。

 「神子、久しくお会いしていませんでしたね。よくいらしてくださいました」

 「永泉さん、突然、訪ねてきてごめんなさい」

 「あなたのご訪問くらい嬉しいものはございませんよ。私に相談したい事とは一体何で

 しょうか。神子のお役に立てるなら、この上ない喜びですけれども」

  永泉の言葉に、すっかり安心したあかねは、素直に話を持ち出した。

 「あのね、永泉さんは管弦に詳しいですよね。笛もとっても上手だし。帝の前で友雅さ

 んとも、一緒に演奏したこともあるって聞いたけど……」

 「そうですね……私など、まだまだ至らぬとは思いますが、笛を吹き楽を奏でることは

 私の大きななぐさめであり、喜びです」

 「実は琵琶について、色々知りたいと思ってるんですけど、教えてもらえますか?」

  あかねは、友雅への贈り物として、琵琶のことで何か示唆をもらえないかと、永泉に

 聞いてみた。永泉は、神妙な顔つきであかねの話を聞くと、何かを思い出すかのように

 少し首をかしげて考えてから、答えた。

 「当代の琵琶の名手と名高いのは、友雅殿もそうですが、何と言っても北嵯峨の入道様

 ということになりますか」

 「入道様って……お坊さん?」

 「ええ。お若い頃は将来を嘱望された方で、若くして参議にもなろうかという源の総領

 の血筋でいらしたのですが、一度病に伏せられたおり、悟りを得たとかで、官位を捨て

 て、落飾されたのだと聞いています。その後は一切御所に足を踏み入れることなく、北

 嵯峨に庵を結んで、お暮らしだとか」

 「へえ……」

 「北嵯峨の入道様の琵琶と言えば、はるか昔、唐に渡った人より伝えられたという琵琶

 の秘曲『流泉』と『啄木』、これはやはり名手中の名手と名高かった蝉丸法師様から源

 博雅三位(みなもとのひろまささんみ)に伝わったという話がございますが、その『流

 泉』を伝授されているただおひとりの方だということです。これぞ稀代の名手の証。私

 も、ご縁があれば一度拝聴してみたかったと思います」

 「え? えっと、ようするに難しい秘密の名曲みたいなものを弾ける方なの?」

  話が難しくなってきたので、面食らったあかねに、永泉は笑って、かんで含めるよう

 にやさしく答えた。

 「そう……『流泉』は、なまなかな手の者では奏でることもかなわぬ、難曲でもあるの

 でしょうね。その『流泉』が北嵯峨の入道様一代で伝わることなく絶えてしまうとした

 ら悲しいことです。そもそも、かの秘曲を聴いた者とて、ほとんどいないという有様で

 は……」


  秘曲『流泉』の話に、あかねはことのほか興味を覚えた。あかねですら聴いてみたい

 と思うのだ。琵琶の名手である友雅なら、尚更ではないだろうか。

 「友雅さんくらい上手な人なら、『流泉』だって演奏できたりしないかな……」

 「そう、今となっては『流泉』の伝授がかなう腕の持ち主といえば友雅殿くらいしかお

 られないかもしれませんね」

  永泉の言葉にあかねは俄然張り切った。

 「伝授してもらえなくたって、一度は聴いてみたいって思う曲ですよね。今の永泉さん

 のお話で私も聴いてみたいって思ったくらいです。永泉さんもそうでしょう? だった

 ら友雅さんも、無関心ってことはありませんよね」

 「それは、おそらく……友雅殿のお考えは私などには図りかねますが。もっとも今のあ

 の方は琵琶より何より神子、あなたの……」

 「ありがとう、永泉さん! とっても参考になりました! 私、これから北嵯峨へ行っ

 て、その入道様を訪ねてみます!!」

 「ええっ?! 神子、そんないきなりでは」

 「こうしちゃいられません。ありがとうざいました! 落ち着いたら、またお礼に来ま

 すね」

 「神子、お待ちください。神子!」

  あかねの気持ちは、すでに北嵯峨に飛んでいる。慌ただしく礼を言うと、くるりとき

 びすを返して、その場を辞したあかねに、永泉の呼び止める声は、まったく届きもしな

 かった。






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