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  天つ袖ふる 五  





  空には月。まだ宴の酔いさめやらぬ御所では、あちこちから、遠い潮騒のように、殿上
 人の歌声や楽の音が聞こえてくる。
  明るく揺れる庭燎に、まだ後宮も眠りにつくことはない。ちらちらと灯りのもれる内裏
 の渡殿を、友雅がそぞろ歩きといった風情で一人そっと藤壺に足を向けると、果たせるか
 な、藤壺の西の戸口がひとつだけまだ開いていた。滑り込むように中に入ると、暗い廊下
 の向こうから、ささやくような歌声が向かってくる。

 「少女(をとめ)さびすも 唐玉を──」

  誰か、などと考えるまでもなかった。
  差し込む月明かりがなくとも、彼女を間違うことなどあるわけがない。あれほどの人の
 波にもまれていてさえ、真っ先に互いを見つけてしまうのに。たとえどれほど隔てられて
 も、きっと互いを見出さずにはおかないだろう。
  気が遠くなるような遙か彼方の時でさえ、二人の隔てにはならなかった。

 「──袂にまきて 少女さびすも──」

  友雅は歌の残りを謡いとり、天女の袖をとらえて、月明かりの下へと引き誘った。

 「……友雅さん」

  清浄で冷たい夜の空気に、まばゆい月明かりに照らされて、天つ乙女は、友雅の腕の中
 にいた。
  まだ舞姫姿のままのあかねは、まごうことなき天女のようで、友雅といえば、この五節
 の間はきちんと近衛の武官の正装に身を包んでいた。
  唐獅子をふたつ向かい合わせに円にした蛮絵の袍(ほう)に、亀甲模様の地紋のある白
 綾の下襲(したがさね)。長く引く裾の裏地の紫がゆかしい。表袴は白生絹で浮織で表さ
 れた瓜の紋と霰の地紋があり、裏地は紅絹。袍の上に石帯を締め、太刀をはいて威儀を正
 し、巻纓冠(けんえいのかんむり)をかぶっている。
  思えば、お互いにこのような正装姿で向き合うことは今までなかった。

 「月に誘われて天女が下りてこられたね」
 「月って……友雅さんのことですか?」
 「私は天女に魅入られた、はかないただ人だよ。私が月読で、君が月の姫なら、こんなに
 嬉しいことはないのにね」
 「舞の時にね、友雅さん見ていてくれたでしょう? 私ずっと感じてました。友雅さんが、
 あんまり素敵で、それで友雅さんしかわからなかった」
 「私も君しか見えなかったよ」
 「ずっとああして舞っていてもいいなって思いました。友雅さんが見ていてくれるなら」
  これ以上、いったい何を望むだろう。この愛しい月の姫に。
 「私のために舞ってくれるのかい?」
 「友雅さんが望むなら」

  友雅は思い切り彼女を抱きしめた。彼を熱くするただひとつの暖かな体は、確かに今、
 ここにある。そうっと腕の中をのぞくと、真摯な瞳が月明かりにきらめいて、友雅を見上
 げていた。
  互いに熱をおびて見交わす目と目がどんどん近くなり、そうしてついには溶け合うよう
 に唇が重なった。

  遠く常寧殿のあたりから今日聞いた大歌が、かすかに聞こえてくる。

  ──その唐玉の──


─ 月明かりを背に天女が袖をひるがえす ─


  藤壺の前庭を望む渡殿で、月明かりを背に友雅の天女がふわりと袖をひるがえす。
  友雅はその天女に並びたち、袍の右袖を肩脱ぎにして、袖を返した。
  この連舞(つれまい)を見ているのは凍るような美しい月だけだ。 

   ──少女ごが 少女さびすも 唐玉を ──

  月光にあふれる夜風にあおられて、ちらりと風花が舞い込み、ゆれる袖にたわむれて消
 えてゆく。夜の風花は、釣灯籠からもれる明かりにもきらめいて、無心に袖をふる二人を
 包み、その場はいつか桃源郷にもなるのだった。

   ──袂にまきて 少女さびすも──

  何者もわかつことはできない。ただ二人だけだった。





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