空には月。まだ宴の酔いさめやらぬ御所では、あちこちから、遠い潮騒のように、殿上
人の歌声や楽の音が聞こえてくる。
明るく揺れる庭燎に、まだ後宮も眠りにつくことはない。ちらちらと灯りのもれる内裏
の渡殿を、友雅がそぞろ歩きといった風情で一人そっと藤壺に足を向けると、果たせるか
な、藤壺の西の戸口がひとつだけまだ開いていた。滑り込むように中に入ると、暗い廊下
の向こうから、ささやくような歌声が向かってくる。
「少女(をとめ)さびすも 唐玉を──」
誰か、などと考えるまでもなかった。
差し込む月明かりがなくとも、彼女を間違うことなどあるわけがない。あれほどの人の
波にもまれていてさえ、真っ先に互いを見つけてしまうのに。たとえどれほど隔てられて
も、きっと互いを見出さずにはおかないだろう。
気が遠くなるような遙か彼方の時でさえ、二人の隔てにはならなかった。
「──袂にまきて 少女さびすも──」
友雅は歌の残りを謡いとり、天女の袖をとらえて、月明かりの下へと引き誘った。
「……友雅さん」
清浄で冷たい夜の空気に、まばゆい月明かりに照らされて、天つ乙女は、友雅の腕の中
にいた。
まだ舞姫姿のままのあかねは、まごうことなき天女のようで、友雅といえば、この五節
の間はきちんと近衛の武官の正装に身を包んでいた。
唐獅子をふたつ向かい合わせに円にした蛮絵の袍(ほう)に、亀甲模様の地紋のある白
綾の下襲(したがさね)。長く引く裾の裏地の紫がゆかしい。表袴は白生絹で浮織で表さ
れた瓜の紋と霰の地紋があり、裏地は紅絹。袍の上に石帯を締め、太刀をはいて威儀を正
し、巻纓冠(けんえいのかんむり)をかぶっている。
思えば、お互いにこのような正装姿で向き合うことは今までなかった。
「月に誘われて天女が下りてこられたね」
「月って……友雅さんのことですか?」
「私は天女に魅入られた、はかないただ人だよ。私が月読で、君が月の姫なら、こんなに
嬉しいことはないのにね」
「舞の時にね、友雅さん見ていてくれたでしょう? 私ずっと感じてました。友雅さんが、
あんまり素敵で、それで友雅さんしかわからなかった」
「私も君しか見えなかったよ」
「ずっとああして舞っていてもいいなって思いました。友雅さんが見ていてくれるなら」
これ以上、いったい何を望むだろう。この愛しい月の姫に。
「私のために舞ってくれるのかい?」
「友雅さんが望むなら」
友雅は思い切り彼女を抱きしめた。彼を熱くするただひとつの暖かな体は、確かに今、
ここにある。そうっと腕の中をのぞくと、真摯な瞳が月明かりにきらめいて、友雅を見上
げていた。
互いに熱をおびて見交わす目と目がどんどん近くなり、そうしてついには溶け合うよう
に唇が重なった。
遠く常寧殿のあたりから今日聞いた大歌が、かすかに聞こえてくる。
──その唐玉の──
藤壺の前庭を望む渡殿で、月明かりを背に友雅の天女がふわりと袖をひるがえす。
友雅はその天女に並びたち、袍の右袖を肩脱ぎにして、袖を返した。
この連舞(つれまい)を見ているのは凍るような美しい月だけだ。
──少女ごが 少女さびすも 唐玉を ──
月光にあふれる夜風にあおられて、ちらりと風花が舞い込み、ゆれる袖にたわむれて消
えてゆく。夜の風花は、釣灯籠からもれる明かりにもきらめいて、無心に袖をふる二人を
包み、その場はいつか桃源郷にもなるのだった。
──袂にまきて 少女さびすも──
何者もわかつことはできない。ただ二人だけだった。
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