憬文堂
遙の書棚 Fullkissの書棚 いろいろ書庫 憬の書棚 刊行物ご案内 お食事日記ブログ web拍手 メールフォーム


  天つ袖ふる 四  




  明けて辰の日はいよいよ豊明節会であり、舞姫にとって晴れの舞台となる。
  舞が舞われる紫宸殿の南殿は格子もすべて開け放たれて、外からでも見通せるように準
 備がなされていた。正面にある南階十八段、左近の桜、右近の橘を遠巻きにして、紫宸殿
 前に広がる玉砂利の庭に、昇殿を許されない者たちが、遠目でもかまわぬからひと目、五
 節の舞を見ようと集いつつある。

  その人々を横目に見ながら清涼殿から紫宸殿へ上がろうとして参内した友雅は、集う人
 波の中に、普段の内裏では見かけない顔を見つけて、思わす声をかけた。
 「頼久じゃないか。どうして内裏に?」
 「殿に随身つかまつりまして。藤姫様も参内しておられるので、退出されるまでは、ここ
 にと」
 「ああ、なるほど。それはご苦労だね。では庭先から遠目といえども、神子殿の晴れ姿を、
 かいま見できるというわけだ」
 「さようかと存じます」
  言い方は固いが、確かにやわらかく笑みを含んだ喜びがちらりとのぞいて、友雅も苦笑
 する。
  八葉の一人で、天の青龍であった源頼久は、つい先頃まで友雅の恋敵とも言える立場に
 あった。彼は左大臣家に仕える侍であり、八葉の中でもとりわけ臣下としてあかねを守り
 仕えようという態度が勝っていた。あかねは恐縮しながらも、藤姫の直接の指示を受け、
 常に側近くいる彼を、心安く頼りにしていたのは間違いなく、友雅にとって、内心そうそ
 う心許せる相手というわけでもない。
 「そう……では期待しているといいよ。試演での神子殿の舞姿はそれは見事なもののよう
 だったから。たとえ、この地に天女をとどめるのは無理だとしてもね」
  ひどく真面目な相手に対して、どうしても牽制にも似たからかいの響きをのせてしまう
 のは、悪性のなせる技だろうか。

  軽く会釈してやり過ごす相手を置いて先へ行こうとすると、つい目と鼻の先といってい
 い右方に白虎の対である治部少丞がいるのを認めて、友雅は目を見開いた。
 「鷹通まで来たのか……」

  気を取り直して目を凝らせば、左方の人の波から少し離れて、この場に似合わない硬質
 な表情のまま、背筋を伸ばして立ちつくす、地の玄武たる陰陽師が見えて、友雅は頭を抱
 えたくなった。

  紫宸殿には、天の玄武である御室の皇子がきょうも来ているのだろうし、廂の御簾内に
 は尊き人々に付き従う女房たちなども、うち揃い、その中にはおそらく藤姫がいるに違い
 ない。
  なんのことはない、皆が皆、それぞれに、あかねの舞姫姿を見にやって来ているのでは
 ないか。
  普段、出世や官位などどうでもいいと思っている友雅だったが、この時ばかりは、紫宸
 殿の上、少しでも舞姫の側近くに上がれる自分の身分に、ひそかに感謝した。

 
  主上は紫宸殿に出御し、昨夜の新嘗祭と同じ新穀を召し上がり、居並ぶ群臣にも、同様
 の新穀がのった台盤を賜る。さらに白酒黒酒が振る舞われ、酌み交わされて、宴はいよい
 よたけなわとなる。

  大歌所の別当の歌声が紫宸殿に響きわたる。

  ──その、唐玉(からたま)の──

  一斉に視線が舞台に集まり、辺りは静まり返る。舞姫たちの贅をつくした衣装。髪上げ
 した頭にきらめく鬘、後ろに長く引く裳の衣擦れの音が歌声にまじり、溶けていく。
  それはまさに天女の降臨だった。
  笏拍子が打ち鳴らされ、笛、篳篥(ひちりき)、和琴の音色が、楽を奏でる。大歌に合
 わせて、しずしずと進み出た天つ乙女たちは、ゆるゆると青摺の唐衣の袖を上げる。

  ──少女(をとめ)ごが 少女(をとめ)さびすも 唐玉を──

  指し示されてばらりと広げられる檜扇を飾る五色の飾り緒が、ゆれる袖のあとをなぞっ
 てゆく。
  舞姫は袖を五度ひるがえす。ふわりと流れる錦の袖の袂から、むせぶばかりにたきしめ
 られた薫香が、風に乗り、辺りを満たす。

  ──袂(たもと)にまきて 少女さびすも──

  そのまばゆいばかりの四人の天女の中で、ひときわ輝く乙女を見出すのは、あまりにも
 容易かった。
  人々の陰から友雅が天女さながらの面影に目を凝らせば、衆目を一身にあつめていたあ
 かねもまた、他の群衆など一人として存在していないかのように即座に友雅を見出し、情
 熱をやどした凝視を返してみせたのだ。天を舞う乙女が、友雅とともに宿命の雷に撃たれ
 たのは、疑うべくもない。その刹那、二人の視線は恐ろしい勢いで絡みあい、契りをかわ
 したのだ。
  そこにあることを感じるのは、ただ二人きり。
  なぜ、これほどまでに居並ぶ人々の波の中で、互いの鼓動すら感じる取れるほど、その
 存在を重ね合わし、感応することができるのか、わからない。
  もうどこへも行けはしないだろう。離れていることが、ひどく苦痛だ。

  舞い終わったあかねが、静かに退出してゆくのをながめながら、友雅は、夢から覚めず
 に心はただあかねばかりを追っていた。
  いずれかの舞姫が倒れ、背負われて退出するという騒ぎもなく、あかねは紫宸殿を出た
 あと、お付きの少女たちと連れだって、そのまま仁寿殿(じじゅうでん)を抜けていく。
  舞の間、紫宸・仁寿両殿の間の露台に立ち並び『びんだたら』を歌って袖を返していた
 殿上人達に立ち混じり、友雅もその後姿を見送った。清涼殿の前の東の簀子(すのこ)か
 ら、舞姫であったあかねを先にして藤壺の御局に戻る姿も、華やかなこと限りない。
  まばゆいばかりの存在感を残して、天女が去っていく。
  友雅は一層苦しくなる高まりを押さえるのがやっとの状態で、底知れぬ情熱の淵に溺れ
 ていた。


 
  絢爛たる節会の名残を残している紫宸殿に、友雅が引き返すと、主上もまた、居残る重
 臣たちとともに、舞を堪能し満足したことを御簾越しに告げていた。
 「まさに──天つ風 雲の通い路 吹きとぢよ をとめの姿 しばしとどめむ──といっ
 たところであったね。すばらしい舞だった。時に、左の大臣の舞姫には、叙位もあること
 だし、このまま宮仕えをさせるつもりはないの? 丁度、今、尚侍(ないしのかみ)がい
 ないので、どなたかを、と思っているのだがね」
 「さあ、それは、ありがたき御言葉と存じますが、本人の意向も確かめてみないうちには
 ……」
  伺候していた左大臣は言葉をにごした。
 「そう、尊き龍神の神子であられた姫をおろそかにするつもりはないよ。神子の君の、京
 での親代わりなのは、あなただものね。姫のような方が出仕してくだされば、内裏もずい
 ぶんと明るく華やぐのではないかと思うのだよ」
 「まだ世慣れぬ者でございますれば、宮中のお勤めなどに支障をきたすことにでもなって
 は、申し訳ございませんので」
 「京を救ってくれた龍神の神子であられた姫君に、重荷を背負わせるような務めを強いる
 つもりはないよ。八葉であった左近少将は、どう思うかい」
  突然水を向けられて、友雅は一瞬ためらったが、努めて平静を装い返事をした。
 「……龍神の神子としての働きは主上のお察しの通りでございますが、神子の君の育って
 こられた世界と、この京は、あまりに違う世界であるとのよし。勝手の違う日々の暮らし
 には、まだ、とまどわれておられるご様子と拝察いたしますが」
 「あのように見事な舞を見せてくれたのだから、それで、もう充分なように思うのだがね。
 大臣にも考えておいてくれないか」

  恐れていたことが本当になってしまった。
  こんなことになろうかと思ったから、あかねが五節の舞姫になることに気が進まなかっ
 たのだ。かしこまる左大臣を前に友雅は暗然とする。
  左大臣はすでに藤壺の女御を入内させていて、主上の御寵愛も深い。あとは男皇子の誕
 生を待ち、なにとぞ女御を中宮にという望みがあればこそ、わざわざ養女格で尚侍にあか
 ねを出仕させるような真似を進んでしたくはないはずだ。
  しかし、主上があのように神子に関心を持たれて、本気で彼女を望まれたら、それを止
 めることは誰にもかなわない。
  あかねが入内してしまったら、それこそ同じ世に留まりながら、友雅などには手の届か
 ない雲居の月になってしまう。耐えられるはずがなかった。
  心騒ぐ高まりも、情熱も、何も感じなかった倦怠の日々は、すでに友雅から遠く彼方に
 飛び去っている。あかねに逢わぬ身は、朔の月より虚無で、空蝉よりも無意味な幻影に過
 ぎなかった。





戻る 戻る    次へ 次へ


遙の書棚 Fullkissの書棚 いろいろ書庫 憬の書棚 刊行物ご案内 お食事日記ブログ web拍手 メールフォーム
憬文堂