憬文堂
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  天つ袖ふる 二  




  十一月の中の丑の日に、五節の舞姫が内裏へ参る。
  今年、藤原の左大臣から献ずる舞姫のお付きは介添えの童女二人を含む十二人。
  贅を凝らした揃いの装いで、やってきた少女たちは、しんと冷たく張りつめた内裏に、
 突然、春風に乗って舞い降りて来た胡蝶の群のようだ。
  その華やかな一団の中心に、神々しいまでの光をはなつ舞姫がいる。五節の舞姫だけが
 やる特別の仕方で髪を上げ、きらきらと輝く釵子(さいし)を飾り、顔の両脇に垂らした
 日陰鬘(ひかげのかずら)がゆらゆらとゆれて桃色の頬をなでる。
  舞姫が、晴れがましい、けれど少しだけはにかんだような笑顔で、常寧殿(じょうねい
 でん)に設けられた五節所へと向かうのを、友雅は、渡殿のこちら側、弘徽殿(こきでん)
 の東面の孫廂(まごひさし)に立って、眩しげに見つめるばかりだ。

 「これは、これは、なんとも可愛らしい」
  友雅を従えていた中納言が、つぶやいた。
 「今年の舞姫は、なかなかに大人びていて、麗しいご様子ではないか。あれが藤原の左大
 臣の舞姫だろう? 選り抜きの佳人を集めた上に、あの見事なこしらえ。実に美しい。そ
 ういえば、あの舞姫は、君とも縁ある姫だと聞いたがね」
 「……龍神の神子であられた姫でございますから」
 「おお、そうだったな。こうして今年の新嘗会を迎えられるのも、神子姫のお力があった
 ればこそとも言える」
  公卿であれば、今回の異例とも言える主上のお声掛かりの舞姫叙位も、すでに聞き及ん
 でいるのだろう。
 「今宵の帳台の試(ちょうだいのこころみ)が待たれるな。さぞや見事な舞を見せてくれ
 ることだろう。あの神々しさはどうだ。光添えたる花といった風情ではないか。こうも際
 だって見えるとは、まったく並みの姫ではないのだね。少将は八葉であったから姫と側近
 くまみえたこともおありだろう? いかがな姫君であらせられるか。まこと人目を引かず
 にはおかない姫のようだが…………おや、あちらも君に気がつかれたか。まったく、うら
 やましい色男ぶりだ」
  友雅が黙ったままでいるので、中納言は振り返っていぶかしげに問う。
 「どうした? 心を奪われて声も出ないか。今業平(いまなりひら)の左近少将とも思え
 ぬ体だな」

  友雅は返事をしなかった。中納言は軽い揶揄のつもりで言ったのだろうが、まさに言わ
 れた通り、友雅は声も出ぬまでに心を奪われてしまっていたのだ。
  向こうの渡殿の少女たちは、確かに弘徽殿の孫廂にいる友雅を認め、ちらちらと揺れる
 扇の陰に見え隠れしながら、陽炎のようにきらめきゆらいでいた。そのいかにも好ましい
 光の輪の中心に、ひたと友雅を見つめて動かない、五節の舞姫である、あかねの一途な瞳
 があった。
  友雅をとらえて離さない引力を持つ唯一の存在だ。友雅自身が忘れていた情熱を呼び覚
 まし、この地に引き止めたときそのままに、純粋で心暖かい月の姫。
  はにかんだ笑顔は、いつの間にか真摯な表情にとってかわり、互いにからむ視線を外せ
 ずに、ただ立ち尽くす。あかねは、めったに見せない天女のごとき装いに美しく上気し、
 今ここで触れたら、その場で燃え上がりそうなまなざしを隠しもしない。友雅は目もくら
 みそうな陶酔の中にいた。
  身動きもせずにひたすらに視線を行き交わしているうちに、少女たちの一行は、友雅か
 ら目を離さないあかねを擁して、なおも戯れさざめきながら、ゆっくりと常寧殿に入って
 いった。

  内裏でこうしてあかねを見る日が来ることを、友雅は想定していなかった。この特別な
 閉ざされた世界で、彼女がどんな風に見えるかということを考えてもみなかったのだ。

  ただ美しい姫なら、他にいくらもいる。利発でかしこい姫も、可憐で愛らしい姫も、後
 宮には色とりどりの花が咲きそろっている。
  そして、表面だけ見れば、龍神の神子として日々を過ごしていた頃のあかねは、この京
 の宮中にある美の基準に必ずしも当てはまらない存在だった。

  女性の美しさといえば、まずは身の丈を超す長い黒髪である。京に召還された頃、肩に
 さえ届かず尼そぎよりも短くて、どちらかといえば栗色がかった明るい色の髪をしたあか
 ねは、その第一の関ですでに落第だ。
  肌こそ非の打ち所のない白玉のごときつややかさで、これは見事なものだったし、紅梅
 をくわえたような愛らしい口元は理想的なものであったけれど、好奇心を隠さない瞳とあ
 いまって、その表情をめまぐるしく変える助けをしていては、見目麗しい姫君の風情とい
 うわけにはいかなくなる。
  あまつさえ、歌も詠めず、琴も弾けず、文字を書くのもたどたどしい彼女を、こうも魅
 力的に思うようになるなどとは、友雅自身も実際に八葉としてあかねと行動を共にするよ
 うになるまでは、考えてもみなかった。

  しかし、ひとたび言葉を交わし、共に戦いに身をさらし、その魂を身近に感じてしまえ
 ば、彼女の美しさは、それまで友雅が愛でてきた花々の通り一遍の美しさなど、まったく
 薄っぺらなものにしか感じられなくなってしまうほど圧倒的な輝きを持って彼を支配した。
  生き生きとして瑞々しく軽やかで、一つ所に留まることのない風のような少女。突然の
 災難に心細くないはずはないのに、前向きで笑顔を惜しみなく振りまき、意識することな
 く人の痛みを癒してしまう心映えこそが、どれほど友雅を含む八葉たちを虜にしただろう。
  決して手の届かない桃源郷の月にも例えた友雅の情熱は、ただ、あかねだけに向けられ
 る。

  そんな彼女の美しさが、すでに友雅や八葉だけでなく、ただそこにあるだけで、すべて
 の者を引きつけずにはいられないものなのだということを、友雅は、今この内裏に美しく
 装った彼女を置いてみて、初めて思い知ったのだった。さえぎるものなく内側から光り輝
 く月を美しく思わないものなど、どこにもいない。
  こんな簡単なことを、こうして形にしてみるまで気付かなかったことに、友雅は衝撃を
 受けていたのだった。


 
  その夜の帳台の試に、友雅は参列できなかった。いや、参列しなかったわけではないの
 だが、舞を見ることができる位置を奪われたまま、舞姫たちは、常寧殿にしつらえられて
 いる御帳台のある間に参入し、友雅はそこから隔たった廊下において、乱舞の先頭に立た
 されていたのだ。
  袍(ほう)の右袖を肩脱ぎにし、袖をひるがえし、即興に舞い謡う、そんな役目はいか
 にも容易で、それまでの友雅なら、何の苦もなくこなして、衆目を集めることで、退屈を
 紛らわせてきた。
  しかし、それもすでに過去の話である。
  蔵人の頭か公卿でもあれば、こんなことも人任せにできたものをと思うと、初めて少し
 は出世もしておくべきものかもしれないとまで思ったほどだ。
  大歌歌笛を奏し小歌これに和し、舞姫が舞い終わって退下する、この時にちょっとした
 騒ぎが起こっていたことを、友雅は後から聞き及ぶはめになった。



─ あかねは五節の局で、うたたねをしていたようだ ─


  酒を振る舞われ、限りなく続きそうな乱舞の末に、酪酊した朋輩に紛れて、なんとか常
 寧殿の五節所に赴いた時、あかねはあてがわれた五節の局でお付きの娘達に囲まれて、几
 帳の陰で燈台に向かってうたたねをしていたようだ。
  はかない灯りに輝く顔を見たいと思ったが、こんな公の場では几帳越しの対面でがまん
 するより他はないのを残念に思う。
  気がつけば几帳の前には友雅だけでなく、法親王であり八葉の一人でもあった永泉まで
 もがやってきていた。永泉が参内していることを知らなかった友雅は、久しぶりに見る年
 若い僧侶の存在に、やはり彼もあかねを見にやって来たのだと思うと、何もないとわかっ
 てはいても、どこか心騒ぐものを感じずにはいられなかった。

  あかねは友雅が会いに来たことを知るとすぐに起きて、取り次ぎもなしで、はじけるよ
 うに内裏での初めての体験を話し始めた。
 「あんな夜遅くにずっと緊張させられ続けで、いきなり舞を舞ったんですもの。無理もな
 いと思います」

  緊張のあまり一人の舞姫が、退出する寸前、舞い終わる最後の最後で失神したというの
 である。ちょうどあかねのすぐ横で扇を取り落としくずおれそうになったところを、あか
 ねはとっさに身を挺してかばい、片腕と肩から体全体を使ってなんとか支えると、扇を持
 つ手をゆるやかに振り、倒れ込んできた舞姫を袖をかざして周囲の目から隠したという。

 「それはもう、心清らかな天女が年若い妹天女をかばわれたようで、皆一斉に見とれてお
 りました。神子のさわりになるようなことは、少しもございません。優しい神子の振るま
 いに主上も感心しておられましたよ。あのような場で他人を思いやる心遣いを見せる龍神
 の神子は、まさに神女の化身なのだね、と申されて」
  一部始終を見ていたのだろう永泉が、それは晴れがましい様子であかねを褒め称えた。
 「お姫様はみんな運動不足ですよね。普段は外を出歩いたりもしないんですものね。でも、
 私はそんな姫じゃないから、とっさにあんなことしちゃったけど、おとがめがないようで、
 ほっとしました。ただ夢中だったから、いけないことじゃなくて、本当によかった」
  褒め言葉に照れながらもいたずらっぽく笑うあかねに、友雅は感嘆するしかなかった。
 「神子殿はまったく目が離せないね。私はそう長くもない命だろうと思うのに、君の側に
 いると命がいくつあっても足りないな」
 「ええっ、ひどーい。友雅さん」
 「君を残しては、私はどこへも行けないよ。本当にね、そう思っている」
  それは、どんなに甘やかな告白だったろう。目を細めて、几帳の向こうにいるあかねに、
 友雅がそう告げた途端、隣りにいた永泉や、周囲に控える女房たちから、一斉にため息が
 もれた。
 「とっとっ友雅さんってば!」
  几帳の帳(とばり)で見えないけれど、あかねが真っ赤になっているのは、間違いない。
  友雅はその表情を目に浮かべて一層笑みを深くするのだ。
  宴はまだ始まったばかりだった。





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