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隠 家 物 語
宮中絵師試験を受ける





 

 それは昨年の秋のこと。大内裏の内膳司あたりから出火したらしい火事で、宮中は大変

な騒ぎになった。

 幸いなことに、帝や宮さまや、主だった偉い上つ方々は三種の神器も守って無事に逃げ

られたそうだけれど、すっかり焼け出されてしまっては、どうしたものか、さぞお困りに

なられたことだろう。

 主上のおられる清涼殿や後宮の殿舎もほぼ全焼してしまい、新しく建てるには、それな

りに時間がかかる。

 そこで仮の御所として、祥慶殿という大内裏にもほど近い二条大路に面したところにあ

り、今の一の上が、一族の学寮として使っていた屋敷が、当面の内裏として使われること

になったのだそうだ。新しい内裏の殿舎ができるまでは、この祥慶殿が今内裏で、数多の

殿上人たちも、この祥慶殿に日々殿上している。

 さすがに本当の内裏よりは少し手狭なようだけれど、もともと人を集めた学寮であった

だけに、普通の貴族の屋敷よりも格段に殿舎の数が多くて、主上とそれに仕える雲客一同、

後宮の美しき花である中宮様や女御様、それに仕える人々が暮らすのに問題ないくらいの

広さもあり、ほどよく具合がよかったらしい。


 あたしが、どうしてもこの祥慶殿に入り込みたかったのは、ひとえに姉さまの行方をつ

かみたかったから。

 苗姉さまは、内裏の火事の前の春から宮中に女房として上がっていた。おつとめ先の上

つ方々に可愛がられ、そのうちに正式に官位をいただき、女官になるかもしれないって聞

いてたのに、夏の終わり頃から頻繁にあった便りがなくなり、月に一度は戻ってきていた

里下がりに帰ってこなくなり、内裏で火事がおきた後は、ふっつりと行方知れずになって

しまった。

 紫野の斎院宮で斎院様にお仕えして暮らしている父さまも母さまもあたしも、みんな心

配して、女房に上がった時のつてを追い、手を尽くして探してみたけれど、姉さまの行方

はわからない。火事で命を落としたという証もない。父さまは斎院様にお許しをいただい

て、何度も大内裏に出かけて行方をさがしたんだけど、噂もろくに得られないし、女房ひ

とりいなくなったところで、検非違使も手助けはしてくれない。

 わかったのは、ただひとつ、以前、蔵人の兵衛佐(ひょうえのすけ)であった安藤征志と

いう公達と共に姿が見えなくなったらしいということだけだった。

 蔵人の兵衛佐といえば、若い公達なら出世間違いなしの出自だと思うんだけど、どうい

うわけか、その家族は、彼のことを探したりしていないらしい。この若い公達と姉さまが

恋仲になって、ふたりで都を離れてしまったのではないかとも言われたけど、だったらあ

の家族思いのやさしい姉さまが、文のひとつも寄こさないわけはないのよ。

 そんなのゼッタイあり得ない! きっと何かよくないことに巻き込まれて困っているの

に違いない。父さまも母さまもそう信じて、あきらめずにずっと探してた。


 けれど他には手だてもなく日々は過ぎていき、忘れもしない明けて今年の卯月の十五日、

あたしが斎院様の用事で薬草摘みに出かけている間に、父さまと母さまがそろって鴨川に

身を投げてはかなくなったという知らせが来たの。

 斎院まで知らせに来た検非違使の人は、世をはかなんだ心中だろうって言った。

 でもあたしは信じない。ゼッタイそんなの信じない。

 だってあたしの文箱にはあたし宛の文が残されていて、そこには「──早苗にもかすか

に聞こゆほととぎす とぶ先追いていそぎかけゆく── 少し出かけてきます。今宵は戻

らないかもしれないけれど、心配しないでね。父、母」って書いてあったのよ。

 入水心中をしようとする人が、こんな文を書いて残すはずがない。

 あたしは検非違使にそう言った。

 でも信じてもらえなかったし、そもそもお役人は、帝や都にじかに災いがふりかかった

りしなければ、誰がいなくなったところで、詳しく調べたり探したりはしてくれないのだ。


 ……こうして、あたしはひとりぼっちになった。


 斎院さまや一緒に仕えている人たちも、あたしを心からなぐさめてくれて、これからも

ずっと斎院で働けばいいって言ってくださった。

 だけど、あたしは、じっとしてなんかいられないの。

 あたしにできることは、苗姉さまを探し出して、助けること!

 姉さまは、きっとどこかにいる。文も寄こせないくらい難儀な立場に追い詰められてい

るなら、あたしが探して助け出すわ!

 それにはまず、今内裏の祥慶殿に入り込んで手がかりをつかまなきゃ!

 そのためなら女絵師だって女房だって何でもやってみせるわよ!




 御堂の中将の私邸である白梅院のすみっこの局に居を得たあたしに、いよいよ祥慶殿へ

乗り込む時がやってきた。一哉くんは明け方にひとりで参内したと思ったら、日がずっと

高くなってから文と一緒に網代車を迎えに寄こしたの。

 すぐに身なりを整えて祥慶殿へ来いと言うのだ。

 わけが分からないなりに、用意してもらった女房装束のいっちょうらに身を包み、連れ

てこられたところは祥慶殿の中でも、門を入ってすぐの小庭の脇にある廂の間で、とても

にこやかな好々爺と言ってもいいくらいの男の人が待っていた。


「はじめまして。僕は中宮大夫(ちゅうぐうだいぶ)の北条竹治」

「どうも、はじめまして」

「御堂の中将直々の推薦だから雇うことは決まってるんだけど、簡単な試験だけするから。

いいね」

「へっ?」

 ちょっと、いきなり何の話?

 面食らったあたしに、中宮大夫は少しすまなそうな顔をした。

「あ、君を信頼してないわけじゃないよ。でも、一応ね。他にないお役目だし、宮さまに

粗相があったらいけないから、やらないと。許してほしいの。ごめんね」

「はぁ……わかりました」

 試験があるなんて聞いてないよ。一哉くんめ……わざと黙ってたな。

「まず、君の絵の腕を確かめたいんだけど、今日は何も持って来てないよね」

「急だったので……すみません」

「いや、無理もないから、気にしないで。じゃあ、ここに紙と筆があるから、ちょっと何

か書いてみてくれる?」

「えっ! 今ここで、ですか?」

「そう。何でも構わないよ。色絵の具の用意がないから彩色なしで簡単にね」

 差し出された豪華な蒔絵の硯箱にたじろいでる場合じゃない。困ったなー。こんな立派

な紙にいきなり書くなんて斎院でもやったコトないんだけど……ええい、ままよ!

「あの、葦手でもいいですか?」

「もちろんだよ。水辺を書くにはいい季節だね」

 斎院さまは歌がお好きで、お文のやりとりも多かったから、葦手の絵文字を書ける人も

お側にいたのよね。

 あたしもよく見せてもらって練習したコトあるし、本格的な絵よりはパっと見、いける

と思う。

 線がふるえないように勢いよく書かなきゃ。自信持って! あたしは女絵師っ!

 用意されていた文机に向かって、思い切って素早く葦手を色々と書いてみた。流水とか

葦の葉を書くには、力を入れずにすっすと線をひいた方がうまくいくんだ。



 開き直ったあたしが書いた葦手の書きものは、我ながらけっこういい出来だと思う。

 問題はこれで絵師として認めてもらえるかどうか……だ。

 だって宮中には、字がうまくて代筆ばんばん引き受けてる女房がいくらでもいるはずだ

し、本格的な絵までいかない葦手なら得意な女人もいるだろう。

 あたしの心配をよそに、書き上がった葦手を見て、中宮大夫はにっこり笑ってくれた。

「わぁ、すごいね、さすがだね。御堂中将は、いい人を紹介してくれたなあ」

「よろしかったでしょうか?」

「うんうん、これくらい書けるならまかせられそうだね。きっと宮さまもお喜びになるよ。

ところで君は、どこで絵を習ったの? 絵所の者に縁者がいるのかな。絵師というと巨勢

家とか……」

「いっ、いえっ! あの……賀茂の斎院で……少し」

「ああ、当代の大斎院様のところにいたのね。あちらでは歌合わせをよくなさると聞くけ

れど、絵合わせもされるの」

「えっ、ええ、ええ、そうなんです! それで目にするコトも多くて、習う機会がありま

してっ!」

「なるほど。それで中将のお目に止まったんだね。うん、それなら安心だ」

 ちょっと言ってみただけなのに、えらく感心してくれちゃって、こっちもびっくりした

けど、ボロが出ないうちに早く終わりにしてくださーい!

「それじゃ、今日から君は身分上は中宮職預かりの女房として参内してね。藤壺の姫宮さ

ま付きの女官になるには、まだ色々と準備が足りないし、宮さまのご意志もわからないか

ら、仮の先生ってことでしばらく様子を見させてほしいの」

「え……、じゃあ祥慶殿の正式な女官になるわけじゃないんですか?」

「残念だけど、急な話だったから……ちょっとお試し期間ってことでお願いね。夏の間の

働きぶりを見て、正式に取り立てるかどうか、決めさせてもらうから。けど、よほどのこ

とがなければ大丈夫だと思うの。がんばってね」

「は、はい……わかりました」

 仕方ない。早く正式に官位をいただいて女官になれるように、がんばらなきゃ。

 考えてみれば、あの姉さまだって、まだ官位は、いただいてなかったんだもんね。

 中宮大夫は、あたしの返事に大きくうなずいた。

「藤壺の中宮さまも姫宮さまも、お付きの女房たちもみんな素直で心映えのいい方々だか

ら、君も女絵師先生としてお仕えするのに特に問題はないと思うよ。じゃあ明日から折を

見てってことでよろしくね」

「はい、こちらこそ、よろしくお願いします!」

「そうそう、祥慶殿に上がるにあたって、何か聞きたいことはあるかな?」

 そう言われても、本当はものすごく聞きたいことだらけだけど、まずは当たり障りのな

いことしか話せないよねえ。

 あたしはちょっと迷ってから、とりあえず一哉くんのコトを尋ねてみた。

「あの、御堂の中将ってどんな立場の方なんですか?」

「御堂の中将は、先代の帝で今は譲位された御堂院様を祖父に、その院の一粒種の御堂の

大殿、当代関白左大臣様と降嫁された宮姫様をご両親にもたれるたったおひとりの皇子様

なんだよ。今上帝は御堂院の兄上である先帝のご子息で、その今上には御堂の大殿のご養

女である沙智子姫が入内されて中宮になられたし、そうでなくても御堂院様の直系の宮で

あられる尊いお血筋でね」

「え? ってことは、えっと、前の帝であった今の院がお爺さまで、お父上が関白左大臣

で、お母上も宮姫で、今上陛下とも血縁がおありの上に、中宮さまがお義姉さまなんです

か……」

 なんだかこんがらがってきたけど、とにかくばりばりの宮家の血筋ってことは、わかっ

た。それであんなにえらそうだったのか。

「お血筋だけでなく、その上さらに、賢く美しくて、学問も武芸も芸事すべてに秀でられ

た、すばらしい公達だよ。祥慶殿の後宮でも、とっても人気があって『青龍の君』なんて

呼ばれているくらいなの」

「人気……あるんですか……。青龍の君って何ですか?」

「ああ、四方を守る四神がいるでしょう? 東の青龍、西の白虎、南の朱雀に、北の玄武

の四神。そのうちの青龍になぞらえて呼んでいるの。祥慶殿の四神の君ってね。かっこい

いでしょ」

「じゃあもしかして、他にも三人が……」

 いやな予感を押さえつつあたしが聞くと、中宮大夫は、ますます笑みを深くした。

「白虎の君が権中将・松川依織くん、朱雀の君が四位の侍従・一宮瀬伊くん、玄武の君が

蔵人の少将・羽倉麻生くんだよ。みんなとってもすばらしい公達だよ。彼らは主上の信頼

も厚いし、参内すると後宮の藤壺の中宮様のところにもよく顔を出されるから、君も祥慶

殿に上がればすぐに会えるよ」

「はあ……そうですね」

 まさか、とっくに会ってますとも言えず、あたしは適当にごまかして相槌をうった。

「それじゃあ宮さまへのお目通りは明日にするから、そのつもりでね。できれば宮さまが

お気に召しそうな絵を用意してきてくれると嬉しいな。これからよろしく。しっかりやっ

てね」

「こちらこそよろしくお願いします。では、失礼します」



 ふう。これでどうにか祥慶殿に昇殿成功、と。

 試験もうまくいったし、幸先いいな。明日から、がんばろう!




 緊張し通しだったひとときを乗り越えて、あたしが白梅院に帰ってくると、一哉くんは

もう寝殿にいた。

「ただいま帰りました」

 一応、かしこまって挨拶すると、彼は文机に広げていた書物や巻物から顔を上げてあた

しを見ると、ふんと鼻をならして言った。

「うまくいっただろうな、試験」

「うん、バッチリ。中宮大夫さまにも期待されたみたい」

「らしいな。今しがた中宮大夫から文が届いた」

 知ってるんなら、聞くなっての! 試験を受けた本人の帰宅の挨拶より結果を知らせる

文が早いって、どんだけあちこちで人をこき使ってるのよ。

 いちいち引っかかるんだから、もう。

「ところで、昇殿前に、俺からひとつ助言してやろう。祥慶殿の中では、あまりしゃべら

ない方がいい」

「……どうして?」

「お前が馬鹿な女童(めのわらわ)同然ってことが露見するだろ。わかっているとは思うが、

くれぐれも推薦した俺の顔に泥をぬるような真似はするなよ。ただでさえ一人前の女房に

は見えないんだからな。今から黙る練習でもしておけ」

「……………」

 言い返す気力も萎えたあたしは、そのまま自分の局へ下がろうと廊へ出ると、ちょうど

西の対の方から琵琶を抱えて歩いてくる依織くんと目があった。

「ああ、おかえり、むぎちゃん。一哉から聞いたよ。祥慶殿で女絵師になるんだって? 

偉いね。頑張りやさんだ。中将にいじめられたら、いつでも僕のところにおいで。なぐさ

めてあげるから」

「はぁ……どうも……」

 社交辞令か知らないけど、家の女房にまで甘ったるいコト言うのって、どうなの?

 雅な人たちのノリって本当にわけわかんない。


 そろそろ夕暮れ時だし、あたしは無駄口をきかないように依織くんには頭だけ下げて、

局に戻ると、重たい装束を動きやすい身なりに着替えてから、夕餉の準備を調えさせるた

めに台盤所へ急いだ。

 ほんと、たった一人の女房として屋敷をきりもりするなら、長い裳を引きずって楚々と

してなんかいられない。切り袴に短いあこめでもはおった女童の格好でいた方がゼッタイ

働きやすいって。



 大急ぎで仕度を済ませたおかげで、夕餉の準備はなんとか整ったんだけど……。

 どうしようかな。一応、声かけてみようか。

 せっかく用意したんだから、その方がいいよね! うん! それがいい!

 あたしが夕餉の膳をかかげて、寝殿の廂の前でとまどっていたら、いきなり目の前の御

簾が上がって、いばりんぼの主が顔を出した。

「なにを一人で騒いでいるんだ、お前は」

「わっ、一哉くん! びっくりした。どうしたの?」

「メシ」

「食べてくれるの? よかったー、今、用意できたから声かけようとしてたんだ。待って

て、ほかのみんなにも──」

「いないぜ、三人とも」

「えっ? だって依織くんは昼間……」

「松川さんは、さっき出てった。羽倉と一宮はいつ出かけたか知らないが」

「そう……」

 せっかく用意したのになあ。

 でもまあ、とにかく一人分は無駄にならなかったから、よしとするか。


 結局、今日の夕餉は寝殿の廂の間で、一哉くんの給仕をしながら、あたしもお相伴する

という形になった。

 そういうことをする役目があたししかいないんだから、仕方ない。

 すごく不思議なんだけど、いったいなんで四人は同じ屋敷で同居してるんだろ。

 みんな若くて独身の公達ってだけで、普段の暮らしぶりも食事もばらばらで、屋敷にい

ること自体少ないみたいだし、四人がそろって仲良く話してるところも見たことがない。

 彼らは、あんまり……というより全然仲が良くないのだ。


「ところで一哉くん、依織くんのこと松川「さん」って呼んでるんだ。なんで? 身分で

言えば一哉くんの方が上でしょ? 血筋でも官位でも、さ」

「あの人は、俺より二歳年上で、本来なら権官でとどまっている人じゃないからな。内裏

で務めの上ならともかく、日常なら年長者には礼を尽くすさ」

「そうなんだ……どうりで大人っぽいと思った。なるほどね」

「それより、俺のハシ」

「あ、うんっ。はい、どーぞ。……どう? おいしい?」

 一哉くんが鮑の熱汁に口をつけたところで聞いてみた。

「……味、濃すぎ」

「えー。これくらいで、ちょうどいいと思うけど」

「俺には、濃いんだ。聞かれたから、正直に答えただけだろ」

 はぁ、さようでございますか。本当にいちいち偉そうなのって、喧嘩売られてる気分に

なるんだけど。

 斎院さまのところに時々いらしていたお客さまでも、こんな感じ悪い人いなかったわよ。

「それは悪うございました。ハイ、これでどう?」

 あたしはそばに置いていたひさげをつかむと、一哉くんの汁碗に水をそそいでやった。

「あ、馬鹿! 干飯でもあるまいし、食い物に水をかける奴が、どこにいる!」

「だって、薄味が好きなんでしょ? ちょうどいいかと思って」

「まったく……」

 一哉くんはため息をついて、でも、その水で薄めた汁を残さず食べてくれたのは驚いた。

 けっこういいトコあるじゃない。

 気を取り直したあたしは、向かい合わせに置いた自分の膳の食事に手をつけながら、こ

こへ来てずっと感じていたことを聞いてみた。

「……でも、ホントにみんな、バラバラなんだね。同居してるぐらいだから、もっと仲が

いいのかと思ってたよ」

「他人のことなんて、関係ないだろ。干渉されるのは、俺もごめんだ。わずらわしい」

「そんなものかな……」

「そんなもんだ」

 物心ついたころから斎院宮で育ったあたしには、普通の貴族の暮らしぶりが、今ひとつ

わかってないのかもしれないけど、でも、こんなぎすぎすしてるものなのかなあ。

 だとしても、なんで縁もゆかりもないらしい四人が同居してるのかが、どうしてもわか

らない。

 結局、疑問はそこに戻ってしまうんだけど、あたしが更につっこんだ話を聞き出す前に、

一哉くんは箸を置いて、立ち上がった。

「さて……と、ごちそうさん。俺も、そろそろ出かけるぜ」

「出るって、今から? もう遅いよ? もしかして夜歩き?」

「違う。仕事だからな。しかたない」

「今からお仕事?!」

「頭の中将ともなると、宿直や宴の準備で夜明かしすることも多いんだ。主上の守護が第

一で、その周囲との人付き合いも仕事の内だからな。俺が子細を決めて指示を出さないと

下の者が動けないこともある」

「えーっ、近衛府なんて見た目がカッコいいだけのお飾りかと思ってたよ! じゃあもう

大勢部下がいて命令したりしてるってこと? すごーい! 宮家の若様なんて、身分があ

るんだから、もっとのんびりしててもよさそうなのに!」

「いちいち騒々しい奴だな。いずれ公卿として今上を支え奉り国の礎となるんだし、どん

な務めも早く慣れておいたほうがいいだろ。少しは、暇つぶしになるしな」

 内裏の務めが暇つぶしってのも、すごい言い様だと思うけど、一哉くんのうっとおしそ

うな顔を見て、それ以上つっこむのはやめておく。

「それじゃ、行ってくる。帰りは明け方になるが、戻ってきたら湯浴みをするから風呂は

入れるようにしておけよ。明日はちょうど日がいいからな」

 細々と言い置いた後、香をたきしめた夏の涼しげな直衣をあらためて着直してから、

御堂の中将は屋敷を後にした。


 ふーん……タダ者じゃないとは思ってたけど、雅な中将ってのも毎日、お気楽に遊んで

るだけじゃないんだ。

 でも……干渉されるのが、わずらわしいなんて、寂しい話だな。一緒に暮らしてるなら、

家族みたいなものじゃない。仲良くしたほうが楽しいのに……。

 斎院にいた頃、家族みんなでそろった時、斎院さまやみんなと一緒にたくさんの話をし

て、おいしいものを食べて、楽しく笑い合って暮らしてた日々は、あたしにとって、かけ

がえのないものだった。

 姉さまが無事に帰ってきて、また仲良く幸せに暮らすのがあたしの望みだ。


 決めた。あたしは、あたしにできるコトをしよう。

 ここのみんなが仲良くできるように。居心地のいい屋敷になるように。

 よーし、がんばるぞー!


 あたしはここ何日かで、数え切れないほどくりかえした言葉を、にぎりこぶしに力をこ

めつつ、もういっぺん叫んで自分を励ましてから、その夜も床についたのだった。








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