憬文堂
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隠 家 物 語
権中将、侍従の君、蔵人少将と出会うこと





 

 局でのんびりする暇もなく、あたしは日が暮れるまで寝殿から東と西の対も雑然として

いた廂の間を掃除しまくり、長櫃にあった夏衣を干して調えたりという仕事をこなした。

 はっきり言って、生まれてから今まで、ここまでしたことはないというほどの下働きを

やりきって疲れた耳に、廊を歩いてくる人の足音が聞こえてきた。

 誰か帰ってきたのかな? あたしは顔を上げて廂の間から透渡殿へ出ると、見るからに

涼しげでゆったりとした白藤の直衣をまとった男の人が西の対へ向かって来る。

「あの、えーと……おかえりなさいませ」

 反射的に迎えると、その人は優雅に立ち止まって、あたしを見た。

 一哉くんとは違う雰囲気の、でもやっぱりすこぶる綺麗な背の高い男の人だ。

「うん? ああ、ただいま。誰の恋人? 侍従かな?」

「いえ、あの、あたしは……」

「僕は権中将(ごんのちゅうじょう)、松川依織。君は?」

「むぎと言います」

「ここに来るのはいいけれど、方違えなら日が落ちる前に、別の屋敷へ向かった方がいい

と思うよ。なんだったら僕の牛車で送ってあげようか?」

「いえっ、そうじゃなくて。……あたし、今日からこの屋敷の女房になったんです。寝殿

の西北の廂の隅に寝起きする局をいただきました。よろしくお願いします」

 ぺこりとお辞儀をすると、その人は少し驚いた顔をした。

「へぇ……女房ってことは、一哉……御堂の中将が君を雇ったのかな? それは興味深い

話だね。ふぅん………」

「なにか、おかしいですか? そんなにジロジロ見ないでください」

「ああ、ごめんごめん。あんまり可愛い女房さんだから、つい……ね」

 はぁ? なんで新参女房に、おあいそまで言うんだろう。

「からかわないでください。可愛いなんて……。あたし、遊びで女房やってるんじゃない

ですから」

「へぇ、中将も面白い子を連れてきたものだね」

「お、面白いって……!」

「おや、気に食わなかったかな? 面白いというのは、ほめ言葉だよ。少なくとも僕に

とっては」

 その人は、むっとしたあたしに笑顔を向けたまま、なだめる口調になった。

「一哉も、どうして、あれでなかなか……見直したな。ふふっ」

「え?」

「いや、こちらの話。さてと、僕は自分の西の対に戻るよ。いろいろ大変だと思うけれど、

無理はしないようにね。それじゃ」

 ひときわ薫り高い香の匂いを残して、権中将・松川依織と名乗った人は鮮やかに西の対

へ去っていった。

 なんだか、女の子のあつかいに慣れた感じの人だなぁ。

 貴族の公達って、みんなあんなに落ち着いた大人っぽい感じなんだろうか。

 今まであたしが話したことのない感じの人だから、よくわからない。



 広い屋敷を見てまわるのも疲れて、あたしは透渡殿の端に腰を下ろした。

 遣水の流れる音が心地よく響く。その水の流れに美しい琴の音がかすかに混ざり聞こえ

てきた。

 箏(そう)の琴(こと)の音? 一哉くんか依織くんが弾いてるのかな?

 それとも、もしかして三番目の公達……?

 音に導かれるようにして、渡殿から東北の対の廂までやってきて、御簾の奥から聞こえ

る早掻の爪音が、ほれぼれするほど美しい。あたしも女人としてたしなみ程度に琴は習っ

たけど、こんなに上手い演奏を聞くのは初めてだ。鮮やかな琴の音を聞きながら、いつの

間にか御簾をくぐり、一心に弾いている公達の前に立っていた。

 彼が最後にざらんと絃をはじいて演奏を止めたところで、あたしはようやく口を開いた。

「あの……すみません……」

「こんばんは。よかったら、なにか弾く?」

 箏の琴から顔を上げた苗色のあこめをはおっている公達は、いかにも繊細そうな、ぱっ

と見お姫さまかと思うくらい見目麗しい若い男の人で、あたしは少しとまどって何て切り

出せばいいのか迷ってしまった。

「え? いえ、あの……あの……っ、ここに住んでる方……ですよね?」

「そう。でも、君とは会ったことないね。ひょっとして泥棒さん?」

「は? いえ……あたし、今日からこの屋敷の女房になりました、むぎです。よろしくお

願いします!」

「………よろしく。僕は瀬伊。一宮瀬伊。内裏では侍従だよ。僕はもう少し、ここにいる

つもりだけど……君は?」

「えっ?」

 聞かれて、はっとしたあたしは、そろそろ夕餉を運んだり、足りなそうな夏衣を調える

ための仕度もしないといけないのに気がついた。

「あたしは仕事があるので、失礼します」

「そっか、残念。じゃあね」

 彼はふいっとあたしから視線を外すと、目の前の箏を綺麗な指で調弦し始めた。邪魔を

しちゃいけないと思ったあたしはそうっと御簾を上げて、その東北の対から離れた。



 何だかぼーっとした感じで、自分の局に向かって渡殿を歩いていたら、東の対の前あた

りで、ばたばたと外から入ってきたらしい大柄な男とぶつかりそうになった。

「きゃっ! あ……あ、その、おかえりなさい。あたし……」

「おい!! 誰だよ、家の中に女、入れたヤツは!? ふざけんなよ、ったく!!」

「あの、そうじゃなくて、あたしは……」

「あ〜うぜぇ。誰の女か知らねぇけど、俺に話しかけんな」

 なんて失礼な人なの!? 橘かさねの狩衣でどんなに颯爽とした格好してても、乱暴無

礼じゃ台無しよ。

「なによ、それっ! いきなり失礼じゃない。初対面の人間に、あいさつもできないの?」

「なんだと。……おい、お前、もういっぺん言ってみろ」

「何度だって言うわよ。あたしはね、誰の女でもないわ。今日からこの屋敷に住む女房に

なったの」 

 そう言った途端、目の前の若い男は、ものすごく驚いた顔になって、あたしにつかみか

からんばかりの勢いで、くってかかってきた。

「女房!? あんたみたいなガキが!? 御堂の中将は、なに考えてんだ」

「知りません。文句なら彼に言って。で、あなたは? この屋敷の住人なんでしょ?」

「マジかよ……ったく、御堂の野郎、ロクなこと考えねぇんだから……」

 だったら、このまま、きったないごみため屋敷のまま暮らしてた方がよかったとでも言

うのかしら。ものすごくムカつくんですけど。

 この人は雅な公達というよりは、武将というか、若武者みたいな、勢いのある格好よさ

はあるんだけど、いくら見た目ばっかりよくても、こんな乱暴者はごめんだわ。

「ああ、そうだ。俺もここに住んでる。蔵人少将(くろうどのしょうしょう)……羽倉麻生。

御堂の中将が雇ったっつうんなら、しかたねぇけど……。俺、女は全般的に嫌いなんだ。

うざいし、話になんねぇし。あんたが女房するのは勝手だけど、俺には関わらないでくれ。

いいな。……ったく、女と同居なんて冗談じゃねぇよ」

 ぶつぶつ言いながら、少将は東の対へ入っていった。


 察するところ、この東の対が蔵人少将・麻生くんの対で、その奥の並びの、東北の対が

侍従の君の瀬伊くん。寝殿は当然ながら家主の中将、一哉くんで、西の対が権中将・依織

くんってことか。早く覚えなきゃ。


 みんな帰ってきたみたいだけど夕餉の膳は、どうするんだろう。

 やっぱり、それぞれ女房のあたしが運ぶのかな。台盤所で用意してるのかしら? 

 様子見てきて、何もしてないなら仕度させなきゃまずい……よねぇ。

 これも女房の仕事と思い立ち、あたしが台盤所へ行くと、下働きの人たちは特に何する

でもなくいたので、焦ってありあわせのものを出させて煮炊きし、きれいな折敷に並べて

盛らせた。初めて入ったところでの仕度としては立派なものよね。

 さすがに宮家筋のお屋敷! 素材だけは色々あるじゃない!



 あたしは意気揚々と折敷を掲げて、一哉くんのいるであろう寝殿へ向かった。

 寝殿前の廂の御簾の外から、中へ向かって声をかけてみる。

「あの、一哉くん? 夕餉の膳を持ってきたんだけど」

「邪魔するな」

「はっ? ジャマ??」

「今、忙しいんだ。夕餉はいらない。そのかわり、亥の刻になったら夜食を持ってこい」

「…………わかりました」

 そう言われたら、雇われてる身としては引き下がるしかない。

「それから、お前の掃除だが、甲乙丙で言えば、乙ってところだな。精進しろよ」

「は、はぁ……」

 なんだかもう言い返す言葉もないよ。あのひどい有様を短い間で綺麗にしたっていうの

にさ。



 仕方ないので、そのまま西の対の依織くんのところへ運ぶことにした。

 西の対の廂から声をかけてみる。

「あの、依織くん? 夕餉を用意したんだけど……」

「夕餉? 君が仕度したの?」

「うん、台盤所にいろいろあったし」

「そうか……。実は外で済ませてきたんだ。君が来るなんて、思わなかったからね。悪い

けど、今日のところは、ほかの連中に声をかけてみてくれるかな」

「わかりました。それじゃあ」

 ま、仕方ないか。突然だもんね。



 気を取り直して、あたしが東の対へ向かうと、ちょうど麻生くんがまた対の屋から出て

くるところに行き当たった。

「あ、麻生くん、ちょうどよかった」

「なんだよ、話かけんなっつったろ?」

「そんなコト言われても……。ねぇ、夕餉の膳を持ってきたんだけど食べない?」

「……いらねぇ」

 とりつく島もなく、彼は不機嫌丸出しで、東門に向かって行ってしまった。

 ホントどういうつもりなの? わけわかんない。



 それから東北の対へ行ってみたけれど、結局そこも他の三人と変わらなかった。

「あの瀬伊くん? 夕餉を運んできたんだけど……」

 声をかけて御簾を上げると、奥にいた彼は怪訝そうな顔をした。

「……うん? えーと、誰だっけ?」

「女房のむぎです。さっき会って話したでしょ」

「ああ、そうだった。ちょっと、うっかりしてたよ。ごめんね」

「それで、あの、夕餉を用意したんだけど」

「……そうなの? でも、ごめん。今日は食欲がないんだ」

「そう……」

「明日はきっと食べるから。それで許してよ。ね? それじゃあ、おやすみ」

 あっさりと手を振って彼はあたしを廊へ追いやった。

 

 結局、誰も食べないなんて。いらないなら先に言ってよね、もう!


 あたしは自分の分の夕餉を局でさびしくいただいてから、燈台の小さな火をぼんやりと

見つめていた。



 はぁ……今日はいろいろあったな……。

 ようやく落ち着いて一日あったことを思い返していると、筒井筒(幼馴染み)の親友であ

る夏実のことが気になった。

 あたしがいきなり斎院からいなくなったのを知ったら、驚くよね。居所が決まったんだ

から、夏実には消息を伝えておかなきゃ。心配させたら悪いもの。

 あたしは、局にあった文箱の紙と筆を借りて、御堂中将の屋敷の女房になったことと、

祥慶殿に入れそうなことをざっと書き、庭に咲いていた卯の花を一枝もらって結びつけた。

 この文を夏実に届けてもらうことはできるかなあ。身分の高い公達が四人もいるんだか

ら、従者の何人かは絶対にいるはずだけど、身分高い人の従者は、たとえ従者でもそこそ

こ偉そうだったりするから、ただの女房の文使いはしてくれないかもしれない。夏実の家

は、はぶりのいい受領のお屋敷だけど、ここの公達たちと比べたら、あたしと変わらない

殿上人にお仕えする立場だもんね。


 けれど心配するまでもなく、文を持って中門廊の随身がさぶらうあたりに行ってみると

舎人の一人が引き受けてくれたので、ここは遠慮無く文をお願いしておいた。これも御堂

の中将の威光なのかな。

 だったら女房なんて、よりどりみどりで大勢いそうなものなのに。ホント変なお屋敷。


 もうそろそろ灯りを消して横になろうかなと思っていたら、母屋の方からぱんぱんと手

を叩く音がする。こんな夜更けに何だって言うのよー。


 あわてて参上すると、一哉くんが仏頂面で待っていた。

「遅いぞ。俺が呼んだら、すぐに飛んでこい」

「……一哉くん……こんな夜遅くに何のご用?」

「腹が減ったから、なにか持ってこい」

「それって夕餉を抜いたからでしょ……」

「俺は亥の刻に夜食を持ってこいと言ったはずだが」

「!! かしこまりましたっ! しばしお待ちを!」

「待たない。百数えている間に持ってこないとクビだ。いいか、いーち、にーい……」

「待ってってばっ! もうホントに……ムカつくーーーっ!!」




 ──西方浄土にいる父さま、母さま。

 行方知れずの姉さま。

 あたし、がんばります。

 逆境になんて、ゼッタイ負けないから!!








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