憬文堂
遙の書棚 Fullkissの書棚 いろいろ書庫 憬の書棚 刊行物ご案内 お食事日記掲示板 web拍手 メールフォーム


 蓋のない箱 

仲秋 憬




                    <16>




 依織が焦燥に駆られるまま、つかまらない程度に極力スピードを出して飛ばした道は、そう

混んでいることもなく、瀬伊が書いた住所に、まだ日の高い内にたどりついた。

 御用邸にも近い海辺の洋館である御堂の別荘は、公道から分け入り海岸近いと思えないほど

木々に囲まれた私道の先にあった。いかにも特別な限られた者だけを迎える風情に満ちたこの

屋敷の存在に気付く者など、めったにいないだろう。

 青いスレートの洋館の姿は庭木に埋もれて、わずかしか見えない。おまけに屋敷の向こう側

は海なのだ。

 門の正面に、そのまま車を止めて降りると、まず、その雰囲気に気圧される。

 古めかしいアールヌーヴォーの曲線でできている鉄門は、当然のように閉ざされたままで、

寒々しい冬の海辺にやって来る者を拒んでいるようだ。

 石の門柱には古風な造りに埋もれるように最新のインターホンの呼び鈴がついていた。

 依織は、ためらわず押してみたが、小さなスピーカーから返ってくる反応はなかった。

 本当に彼女は、ここにいるのだろうか。何をどう確かめればいいのか依織は迷う。

 むしろ一哉を先に探すべきだったかもしれない。

 それが逃げだと認めたくはなかったが、ここまで来ても依織は自分の感じている漠然とした

恐れと向き合って勝利する自信はなかった。


 ここに、むぎがいて欲しいのか。いて欲しくないのか。


 矛盾した感情に押し流されそうになった時、スピーカーから声が聞こえた。

『もしかして……依織くん……?』

「むぎちゃん! むぎちゃんなんだね!」

 インターホンに向かって声を張り上げる依織の耳に届いたのは、ノイズまじりでも確かにそ

れとわかる彼女の声だった。

『うん……』

「顔を見て話がしたいのだけれど、門を開けて入れてくれないかな」

『ごめんね。依織くん。できないの……』

「一哉の言いつけ?」

『そうじゃなくて……部屋、出られないから……』

「何だって? 大丈夫かい? なぜ、そんな」

『ごめんなさい。すごく心配かけてるよね。あたしも、わかんなくなっちゃって』

「むぎちゃん、無理ならそのままでいい。君は僕が見えているんだね」

『うん。このインターホン、カメラついてるから、わかるよ』

「一哉は?」

『たぶん仕事……だと思う。今ここには、いないよ』

「出られないって……どういう事なのか教えてくれるね。学校が始まったのに帰ってこなけれ

ば、どうしたのかと思うよ」

『もう学校、始まってるの?!』

 むぎの驚きように依織は一哉への不信を募らせる。

「僕はここまで車で来たのだけれど、葉山は帰ろうと思えば数時間で、すぐに帰ることのでき

る距離だよ。出られないと言うなら僕が手助けするから、どういう状況なのか話してくれない

か?」

『……えっ……と……あのね、ホテルかワンルームマンションみたいに洗面所とシャワーのユ

ニットついてるから不便はないんだ。ほら最初に私の部屋だった地下の運転手部屋っぽいかな

……それに電気のミニキッチンまでついてて、もう少し綺麗な感じ。あ、でもここは地下じゃ

なくて屋根裏だ。天井が斜めだし』

「不便はない、じゃないだろう。外から鍵をかけられてるの?」

『ドアは開かないけど……一哉くんいれば開くし』

「一哉がいないと出られないなら閉じ込められているんじゃないか! 連絡手段も取り上げら

れているんだろう? クリスマスに一度、電話をくれたよね。あれからどのくらい経ったか、

わかっているかい?」

『荷物……手元になくて。ごめんね。携帯も……』

「むぎちゃん」

 依織は焦燥感を隠さず、彼女の名を呼んだ。

「一哉が閉じ込めてるんだね」

『えっ、や、そうかもしれないけど、でも……』

「むぎちゃん! しっかりしなさい」

『あたし平気だよ。……ただ、ちょっと外へ出られる格好じゃなくて』

「格好? 格好なんて、気にしている場合じゃないよ」

『いや、さすがにちゃんとした着る物がないと……』


 このかみ合わない会話は何だろう。むぎの話し方は閉じ込められている少女のものではない。

 依織は自分が何をしに来たのか、わからなくなりそうだった。


「ねえ、何が起きたんだい? どこから話を聞けばいいのか、正直とまどっているのだけれど、

こんな状態はおかしいだろう?」 

『あたしは大丈夫』

「……本当に?」

『うん。依織くん、すごく心配してくれてるんだよね。ごめんね。ありがとう。けど無理矢理

ひどいコトされてるわけじゃないから。ただ、あたしが、ここにいないと一哉くんダメみたい

だし、だったら今すぐ帰らない方がいいかと思ったの』

『むぎちゃん、君は強い子だ。本当のことを教えてくれないか? 閉じ込められて我慢してい

るんじゃ……」

『我慢なんてしてないよ。あたし、そんなに相手に都合よくないもん。……ちょっとね、考え

てたの。自分にできるコトとか……』

 できない事については彼女は言及しなかった。


「ねえ、むぎちゃん。クリスマス・イブにここから電話をくれて……、その後、何日かして、

麻生が迎えに来なかったかい?」

『……麻生…くん……?』

「ああ。その時、一哉は、何をしてたの? どうして……」

『クリスマス……一哉くん、仕事のパーティから遅くに帰ってきて倒れちゃって熱は下がらな

いし……あたし看病してて……クリスマスだとか忘れちゃって……真っ暗になったり』

「真っ暗?」

『停電だったみたい。…………麻生くん……会いに来てくれた時は……すぐに帰ったし……』

「なんだって?」

『里帰りの挨拶に来たのかな……。お家に帰って家族と話してから、アメリカ行くって言って

た。アメリカでやりたいコトや勉強したいコトたくさんあるみたいで……』

「麻生がむぎちゃんに、そう言ったの?」

『うん。そのまま、よい年をって言って帰ったから……。一哉くん、まだ具合悪くて寝てたん

だ。それで、冬休みは、あの家に誰もいないだろうから、ここにいても同じだって……』

「その後、体調の戻った一哉が君を閉じこめて出かけるようになったんだね」

『……あたしがまだ寝てる間に出かけちゃってるだけ……なんだけど……』

「じゃあ、瀬伊は? 少し前に瀬伊も来て話をしたね? いつだか、わかっているかい?」

『……うん。瀬伊くんにも会えたよ』

「一哉も一緒に?」

『最初はいなかったけど……瀬伊くんが窓割ったりしたから、すぐ帰って来て……』

「三人で話をしたのかな」

『………………』

「言いたくないなら話さなくていい。ただ瀬伊は」

『瀬伊くん、ピアノ本気なの』

「むぎちゃん」

『それってよかったなって……。瀬伊くんは音楽してないと瀬伊くんじゃないみたいだもんね。

あたしは音楽のコトよくわかんなくて、手伝えるコトじゃないから、ホントは何も言えないん

だけど』

「むぎちゃん、君は……」

『一哉くんも心配してた……才能を無駄にするのは不幸だって……』


 小さなスピーカーを通したむぎの声は、それでも淡々と依織に響いてくる。

 会話のもどかしさに依織は歯噛みした。


「ねえ、むぎちゃん。いつまで、そこでそうしているつもり? 一哉が出ろと言うまで?」

『そうじゃないけど……依織くん、外、寒いでしょ。体を壊したら大変だよ』

「僕は丈夫だし、きちんと防寒しているから安心して。それよりも、むぎちゃん、夏実ちゃん

が君をとても心配していたよ」

『夏実が!? ……そっか……そうだよね……あたし……』

「むぎちゃん、君が本当は、どうしたいのか言ってほしいんだ。僕はそんなに頼りないかな。

よく考えて。君から連絡手段を取り上げたのは一哉だろう?」

『あたしのコトより、依織くん……もう学校始まってるなら、皇くんのお正月の歌舞伎の舞台

は、どうなったの? お稽古、手伝ってたんでしょ』

 急に芝居のことを持ち出されて、ひどく驚く。それはあまりにも唐突だった。

「なぜ、それを……」

『あたしが家政婦復帰してから、皇くん何度も連絡してきてたよ。依織くんがいない時も。そ

れで、ちょっと話したりしてたの』

「皇と君がかい?」

『うん……歌舞伎って大変なんだね。でも、あたしも依織くんの舞台見てみたいなあって』

「そんな話をしたの?」

『勝手に、ごめんね。依織くん、嫌だったら……」

「そうじゃない。君が気にしなくていいんだ」

『……やっぱり依織くんは歌舞伎が好きなんだね。そうだよね……本当に嫌いでやめたなら、

皇くんの舞台に関わったり心配したりしないもん。……あたしも一緒の気持ちかなあ』


 どうして、今ここで、むぎが歌舞伎の心配をするのだ。

 完全に捨てきれない未練を、むぎに指摘されて、依織は混乱する。

 インターホン越しに会話を続けるこれほど異常な状況で、なぜ、こんな話になるのだろう。


「皇のことも、歌舞伎のことも、どうでもいいよ。君が心配してくれなくていい。それより問

題なのは、むぎちゃん。今の君だよ」

『あたしは別に』

「別にじゃない。そんな悠長に人の心配をしている場合かい? 今、こうして、そこに閉じ込

められてるのが異常でなくて何なんだ。むぎちゃん、一哉は僕に、君は冬のボーナスにイギリ

スのお姉さんのところへ行かせたと話していたんだよ。なのに君がどうして、そこに閉じ込め

られているのか説明してくれないか?」

『……一哉くん、そんなコト言ってたの……?』

「むぎちゃん」

『ごめ……ん。ちょっとビックリしちゃって……あたし、ずっと……』

 少し気を抜くと、むぎは、すぐに依織の聞きたいこととは別の方向に意識が向かってしまう

ようだ。


 どうしても確かめなければならないことがあった。

 むぎの意志決定は、どこから来ているのか、という問題だ。

 依織は、かすかなためらいを振り切って、その問いを口にした。

「むぎちゃんは一哉が好きなのかい?」

『え?』

「君が一哉に逆らわず、そこから動かないのは、彼を好きだから?」

『好き…って……好きか嫌いかなら……好きに決まってる……よ』

「僕らや夏実ちゃんとは違う意味でだよ。恋愛感情があるのか聞いているのだけれど」

『……恋愛感情があるなら、いいの? ……よく……わかんない……』

「むぎちゃん……」



 彼女の答えは、依織への問いかけだ。

 むぎにそれを尋ねるのなら、そもそも依織はどうなのだ。

 依織がむぎをここまで追わずにいられなかった、その理由を自問自答したことはない。

 麻生も、瀬伊も、おそらくしなかっただろう。

 人が人を好きになるのに理屈は働かない。


 同居人が知らない間に一哉とむぎが恋人同士になっていたというなら、この事態を異常と思

うだろうか。

 ──そうじゃない。仮に恋人同士だからといって何をしていいわけでもない。

 むぎからあふれる好意は、純粋な彼女の意志であるか、わからないのだ。

 男が女に抱く愛執とは別の、動かし難い力を感じて、依織はぞくりとした。



『一哉くんがいないと……あたしも、たぶん、いないし……』

 要領を得ないむぎの話に、これ以上のインターホン越しの会話では、解決策を見出せそうに

ないと依織は判断した。

 もとより一哉を無視して、むぎをここから連れ出せるとは思っていない。彼女が命を握られ

ている相手を愛してしまうような精神状態にあるなら尚更だ。

「君が一哉に逆らえないなら、俺が話をつけるよ。何も怖がらなくていい」

『依織くん、あたし大丈夫だよ。依織くん! 依織くんってば!』



 むぎの切羽詰った声に背を向けて依織は携帯電話を取り出した。

 この状況でメールのような手のかかる手段はとらず、電話をかける。プライベートの携帯電

話に秘書が出ることはなく、当然のように留守番伝言サービスのアナウンスが流れたが、依織

はそれに構わず一哉に対して直接的に話した。

「松川依織だよ。一哉、君なら今、僕がどこにいるか予測できているんだろう。僕がむぎちゃ

んを連れ出してもいいなら、放置しておくんだね。言うまでもないけれど僕は本気だよ。……

それじゃ、これで」


 電話を切って、ものの一分もせずに、依織の手の中の携帯が震えた。

 着信相手を確かめる必要もない。

『松川さんが今日あたり来るのは、わかっていたさ。祥慶の始業式だからな』

「一哉……」

『門を開ける。入ってもらって構わない』

「え……? 一哉、君はどこから……」

 携帯電話を持つ手が汗ばんでいるのを意識する。

 まさか、そんな馬鹿なと、思考が空回りを始めるのがわかる。

『車も、そのまま駐車しておいていい。どうぞ』

 オートロックで閉ざされていた鉄門の錠が開く重い音が、冷たい空気を切り裂いて響いた。








 戻る      次へ 


遙の書棚 Fullkissの書棚 いろいろ書庫 憬の書棚 刊行物ご案内 お食事日記掲示板 web拍手 メールフォーム
憬文堂