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 蓋のない箱 

仲秋 憬




                    <15>




 翌朝、依織はまっすぐに葉山へ向かわず、制服を着て祥慶学園に登校した。

 瀬伊の話を、そのまま鵜呑みにするならば、今さら一哉が来ないことを確かめる必要はない

のかもしれない。しかし、依織が知るディアデームで生徒会長の御堂一哉という人物は、理由

なく始業式を無断欠席する男ではない。

 認識が現実と微妙にずれている。その誤差は自分で確認しなければならないと思う。


 大多数の生徒が登校する前の早い時間、当然のように一哉の所属するS−1の教室に彼の姿

はなかった。職員室で担任に尋ねるべきか迷う。

 そこで、ふと思い立ち、生徒会室へ行ってみると生徒会役員の樋山城がいた。

 彼は朝からいくつものファイルを広げてていた。

 ノックに続けて入ってきた依織を見て、すぐさま顔を上げ、立ち上がる。

「おはようございます。松川様」

「おはよう。始業式の朝から調べ物かい?」

「ええ……。御堂会長が完璧な生徒会役員マニュアルを作成されたものですから、一日も早く

確実に引継ぐために我々も努力しなければなりませんので」

「一哉がマニュアルを……それは、いつの話だい?」

「最終版を頂いたのはクリスマス行事の前ですね。秋口から実務については徐々に移行するよ

う指示をいただいていたのですが、僕たちは、なかなか御堂様のようには働けなくて。あの方

は完璧主義ですから、ご自分の卒業引退後を心配されたんだと思います」

「今日、一哉が休むと……聞いているんだね」

「ええ。でも生徒会の引継は実際クリスマス行事で完了しているので、ご心配は無用ですよ。

いつまでも卒業目前の御堂様に頼っていては祥慶学園の伝統も守れません。コンサートだって

会長が早退されても、なんとか乗り切れましたし、これ以上ご迷惑をかけないように頑張らね

ばいけませんから。もうすぐ他の役員も来るでしょう。何かご用でしたか?」

 すべては予定通りなのだ。何の問題もない。

 どこか誇らしげに話す樋山に、依織は「頑張って」と声をかけて生徒会室を出た。

 

 一哉は来ない。

 彼がなすべき義務を放り出すはずはなく、用意周到に準備をしていた。

 御堂一哉に抜かりはない。

 おそらく計画通りの行動だ。例え本人が倒れても、つつがなく済むように。


 では、むぎは?

 むぎを葉山へ隔離したのも予定された行動なのか。

 イギリスへ行かせたと嘘をついてまで依織たちから不自然に彼女を遠ざけたのも、一哉の計

画した企みなのか。

 依織はともかく、麻生や瀬伊の行動まで、一哉は見切ることができていたのか。



「松川さん!」

 生徒会室から離れ、本校舎を出たところで、むぎの親友である丘崎夏実に声をかけられた。

「おは……じゃなくて、新年おめでとうございます」

「おめでとう。夏実ちゃんは……」

「すいません、松川さん。すず、どうしてますか? 今日は、まだ登校してないですよね」

 夏実の方から焦りを隠さず詰め寄られて、依織は一瞬、返事に窮したが、直接的に話す方が

状況がわかると思い直して問いかけた。

「夏実ちゃん、冬休みの間、むぎちゃんとは?」

「私、今年の年末年始は家族でスイスのスキー場で年越しして、一昨日帰ってきたんです。

クリスマスはあの子、御堂さんについて早退したから、その後、メールで年明けに会おうねっ

てやり取りしたのが最後で……」

「そう……」

「日本に帰ってきてから、何度電話しても携帯はつながらないし、メールの返信も来ないので、

どうしたのかと思って……。御堂さんのところで何かあったんですか?」

「むぎちゃんは、今、こっちの家を離れているんだ。一哉についている……はずだけれど……」

「御堂さんに? それじゃまさか、あれから御堂さんが、ご病気で入院されたとか? だった

ら、すずが連絡できないのも無理ない……か」

「むぎちゃんが学園を休んで親友の君に連絡もせず、一哉についてることが無理もない話だと、

夏実ちゃんは思うのかい?」

「え? だって、すずはいつだって御堂さんの役に立ちたがってましたから……。苗ちゃんの

事件は御堂さんと知り合わなければ解決できなかったって聞いてます。あの子にとって、御堂

さんは大恩人じゃないですか。再開した家政婦の仕事だって全力で頑張っていたのは、松川さ

んの方が、私よりご存知だと思いますけど……」

「ああ……そうだね……」



 夏実の言う通りだ。

 一哉がむぎに助力し与えたものは並一通りではなく、むぎが一哉に恩を感じているのは無理

のない話だ。

 しかし、だからと言って、すべて一哉の言いなりになる必要はない。

 一哉を始めとする同居人達は、むぎから多くの大事なものを与えてもらっている。

 それは恩だとか、義務だとか、金銭だとか、そういうざわざわした直接的な欲得とは別次元

の、人生を通して宝物になるような、柔らかく暖かいもの、言葉に出来ない類のものだ。

 一哉だって、それは理解しているはずなのに。


 ──わかっているはず──

 それは依織の幻想だったのだろうか。


「一哉は最初から、むぎちゃんを所有してるつもりだったんだ」


 瀬伊の言葉が本当なら、依織はそれを許せない。

 一哉にむぎの自由を奪う権利はない。

 彼だけでなく、他の誰にも、そんな権利はないのだ。

 御堂一哉という人間を少なからず誤解していたとは思いたくない。

 依織より年下でも、男として社会人として、すでに堂々たる一人前、いやそれ以上に世間に

認められている存在だ。

 あの若さで御堂の後継者として少なくない仕事をこなし、学園の生徒会長でラ・プリンスの

ディアデームとしても完璧に振る舞える一哉を、依織は確かに大したものだと認めていたが、

人間的に一哉を理解し、信じていたというのとは少し違うだろう。

 最近は友情に近いようなやり取りも確かにないではなかったが、なら一哉が友人かと言えば、

それも素直に肯定できない。

 そもそも依織には、男であれ女であれ、真実、友と呼べる人物がいただろうか。

 どうせ他愛ない会話をするなら男より女相手の方が、気分も華やぐし、心地いい。

 知人、学友、仕事仲間……、人間関係は、ごく軽い縁でとどめておくのが、わずらわしくな

くて丁度良かった。

 家主と同居人の関係を抜きにしても、少なくとも麻生や瀬伊よりは、一哉のことを個人的に

認めていたと思う。

 すでに社会的に男として独り立ちしている一哉は、実年齢とは関係なく、依織よりもずっと

大人であると感じていた。

 客観的に見て、世間一般に照らせば、一哉は勝者で、依織は敗者だ。

「人生に勝敗があるならば……だが……」

 誰に言うともなくつぶやき、首を振る。

 こんなことを考える時点で何かが間違っているような気がする。

 一哉には依織にわからない一哉の茨の道もあるはずだ。



 むぎに会いたい。豊かな表情を見て話がしたい。どうしているか確かめたい。

 彼女に会わなければ、と強く思う。

 何らかの理由で……それが一哉の謀かどうかは別として、どうしてもむぎが戻ってこられな

いなら、こちらから行くしかない。

 麻生も瀬伊も、おそらく彼女を迎えに行くつもりで葉山へ出かけ、しかし一人で帰ってきた。

 そこに何があるのか、怖れていないと言えば嘘になるが、このまま諾々と一哉の思惑に振り

回されるのは御免だ。

 自分が、それほどまでに臆病であることには依織も耐えられなかった。

 何もしなければ、何も起こらない。

 ただ、緩慢にただようばかりの日常は、すでにゆっくりと死んでいるのと同じだ。



 依織は、夏実と別れた後、始業式が始まる前に学園を後にして、一人愛車のハンドルを握る

と、アクセルを踏み込んだ。








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