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 蓋のない箱 

仲秋 憬




                    <14>




「信じられない……そんなことをして何の意味があるんだ」

 瀬伊に教えられたことを受け入れられずに依織は首を振る。

 しかし瀬伊は、依織の反応を気に留める様子もなく平然と話し続けた。

「意味なんて考えるまでもないよ。この家で五人で同居してたんじゃ、むぎちゃんを独り占め

できないからに決まってるじゃない。大体ね、一哉は最初からむぎちゃんを自分が所有してる

つもりだったんだ。けど自分は恋人のつもりでも、最初のとっかかりが雇用関係で始まったも

んだから、そんなつもりが全然ないむぎちゃん本人に意外と手こずって、焦りでもしたのかな。

御堂の御曹司としちゃ、生まれて初めて自分のたてた予定が狂いまくって、計算違いに慌てた

のかも」

「計算……って、人の心は計算して答えが出るものじゃないだろう」

「そりゃあね。だから、一哉って本当は馬鹿じゃないのって話だよ。羽倉なんて、野生の勘だ

けはあるから、最初にとばっちりくらったようなものだしさ」

 瀬伊の話を理解できずにいるのが表情に出ていたのだろう。

 見上げる依織の顔を見て、一度は立ち上がった瀬伊が、小さく笑って、もう一度ソファに座

り直した。

「同じ二階に部屋がある松川さんは気付いてなかったけど羽倉は知ってたよ。知る羽目になっ

ちゃったってのが正しいのかもしれないけど」

「……いったい何の話なんだ」

「羽倉が自分で言ってたじゃない。一哉が夜中にむぎちゃんにさせてたことだよ。むぎちゃん

はマッサージの延長だって、すり込み状態で信じてたみたいだけど、あんなきわどいご奉仕、

セックスの前戯と変わらないよ。服脱いで、アロマオイル使って触りあって、あんあん喘いで

るんだから。ペッティングと、どこが違うのさ」

「な! ……実際に見たんじゃ……」

「羽倉はね。見た……っていうか、一哉がわざと見せつけたんでしょ」

「なぜ……」

「そりゃ僕らの中で、羽倉が一番、本質がむぎちゃんと近いもの。悠長に構えて放っておいた

ら、きっかけひとつでくっつきそうだとでも考えたんじゃないの。そういう警戒は怠らないよ

ねー。一哉って」


 次々に明かされる出来事を認めたくなくても、聞いて初めてどこか納得している自分に気付

き、何かが依織の中でバラバラになっていく。


「……でも、むぎちゃんは、そんなことは何も言っていなかった。一哉とそんな……」

「だから、付き合ってるとかじゃなかったんだって。むぎちゃんと一哉が、まともに告白でも

して恋人同士になってるなら、あの一哉が僕らに黙ったままでいるわけないでしょ。さっさと

恋人宣言でもして、僕らに堂々と釘さしてるよ」

 瀬伊の言葉には、よどみがない。

「実際には、むぎちゃんの自覚のなさに一哉が切れて、手っ取り早く自分以外と接触させない

強硬手段に出たってところかな。誰だって一度くらい好きな子を閉じこめて自分だけのものに

したいとか妄想したりするけどさ、実際にやるとなったら話は別だよね。それを平然と手段の

ひとつとしてやるから怖いよ」

「馬鹿な……」

「信じられないなら、自分の目で確かめたら? 羽倉が実家のお姉さんだかに聞き出して別荘

の場所はわかってるから。松川さんなら車ですぐでしょ」

「場所がわかってて、閉じこめられてるのが本当なら、どうして助けず放っておくんだ!」

 らしくなく声を荒げた依織を、瀬伊は憐憫のまなざしで見た。

「……松川さん。羽倉はクリスマスの後、真っ先にバイク飛ばして迎えに行ったよ。僕らに内

緒でね」

「それじゃあ……」

「結局ひとりで帰ってきたけどね。……で、この家を出て行った」

「……何だって……」

「僕は電話で、むぎちゃんの声を聞いちゃったせいで、ちょっとぬかったよ……。でもイギリ

スに行ったなんて話は全然信じられなかったから、その後は早かったよ。羽倉つかまえて、一

哉の仕事先も押さえておいて、葉山に乗り込めたのは正月になってからだったけどさ」

 瀬伊は自嘲的に笑った。

「別荘っていっても、この家より大きいくらいの古い洋館で、人の少ないところだよ。プライ

ベートビーチに面してるらしくて、庭からのぞくとか、そういうことができる作りじゃなくて

さ。石投げて窓割ったら、すぐに警備が飛んできたし。一哉は恋愛でいかれてても御堂一哉な

んだって、思い知らされたな」

「瀬伊!!」


 瀬伊は依織から視線をそらし、すでにカーテンの閉められたリビングの大きな窓の方を見つ

めて話し続けた。


「…………僕は最後に音楽を選ぶ。音楽がないと生きていけない。自分でも気付いてなかった

けど、何も言わなくても、むぎちゃんには、それがわかってたんだ。……デビューが憎い一哉

のお膳立てでも、彼女が望むなら僕は受け入れるよ」

「瀬伊……何を……」

「ヨーロッパへ行くよ。もう決めた。今更、現代の死にかけたクラシック音楽界で意味のない

コンクールビジネスに乗っかることに興味なんてないけど、きっかけは何でもいい。音楽は一

生ものだし、僕にとっては、むぎちゃんも同じだ。僕の音楽を僕が見捨てることができないん

だもの。あの子にそれを言われたら承知するしかないよ」


 依織も瀬伊の才能を感じてはいた。彼は素人にも音楽の道を進むべきだと思えるほどの才能

の持ち主だ。

 それはこのまま、この家にいては叶えられない道なのだ。

 かと言って何も今この時に、と依織が告げようとした時、瀬伊がぽつんと言った。


「──だからやっぱり僕の救いは、むぎちゃんがくれるんだな……」


 瀬伊は、すでに決意した者の目をしている。

 彼はあらためて依織の視線を正面から受け止めた。

「生きていくことは色んな事を選んでいくことの積み重ねだけど、その中で自分で選べないも

のを『運命』っていうんじゃないの? むぎちゃんと知り合うことは僕が選んだことじゃない

けど、彼女とどう関わるかは自分で選んだ結果だよ。……だから松川さんも、自分で確かめて

来たらって言ってる。でないと終わらないよ」

「終わるって、何が」

「まだ逃げる? いい加減、認めた方が楽だと思うよ。……ホント同病相憐れむなんて、まっ

ぴらなんだけどなぁ。でも逃げてたのは僕も同じだったし……この家が、あんなに居心地良く

なるなんて思ってなかったからね」


 瀬伊は小さくため息をついてから、リビングの電話の側にあるメモ用紙に、持っていた携帯

電話からひとつの住所を書き写して依織に渡した。

「昼は、たぶん一哉は別荘にいないよ。会えるかどうかは、松川さん次第だ」

「明日は……祥慶の始業式で……」

「来ると思うの? 誰が?」


 そう言って瀬伊が見せたかすかな笑顔は、男二人の殺伐としたこの場にそぐわず、人の心を

一瞬にして奪う美しいものだった。


 真に美しいものの前で、人は時に言葉を失う。

 瀬伊の弾くピアノを美しいと思ったことはあったが、瀬伊の表情を美しいと思ったことなど、

依織はこれまで一度もなかった。



 この表情が、まだ少年の名残をとどめた瀬伊と交わした最後の会話の幕だった。










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