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 蓋のない箱 

仲秋 憬




                    <13>




 依織は結局、松の内を漫然と過ごした。

 成嶋屋の申し出については考えるまでもないと思った。もう二度と舞台には上がるまいと決

めて家を出て、一時はアメリカまで行ったのだ。上方歌舞伎の継承云々以前の問題で、依織の

考える将来に歌舞伎役者としてやり直すなどという選択肢はない。

 初日を見に行ったことは、皇には言わなかったし、皇も年が明けてからは連絡してくること

もなかった。公演が始まってしまえば、もう舞台で演じることで精一杯なのだろう。



 こうなるといささか気になるのは家の同居人たちのことだった。

 瀬伊は相変わらずいるのかいないのか、ほとんど姿を見せず、イギリスに行ったむぎも、家

主の一哉も、実家に帰った麻生も、一向に帰ってくる気配も連絡もないまま、遂に明日は祥慶

学園の始業式という日になってしまった。

 むぎが来る前の御堂家ならいざ知らず、いくらなんでも、これはおかしいだろう。


 一哉は相変わらず多忙なのかもしれない。

 麻生も実家で事情が変わったのかもしれない。

 だが、むぎは──。


 むぎの事情を知っていると思われるのは一哉だけなので、依織は休日の間、一哉に何度か連

絡を試みていたが、携帯電話の伝言にも、送信したメールにも、返事は一切なかった。


 さすがに放っておけず、かと言って一哉を呼び出して問いつめる手段もない依織は、深夜に

ようやく瀬伊を捕まえた。彼はほとんど毎日のように外出していて、家には深夜に寝に帰るだ

けの状態だったようだ。どこに行っていたのか疲れた様子で帰宅したところを自室へ戻る前に

コートだけ脱がせてリビングへ誘導し、向かい合わせに座って口を開いた。

「瀬伊、やはり連絡は受けてないかい?」

「連絡って……むぎちゃん? それとも一哉? 松川さんのところにないものを僕には来てる

と思うわけ?」

「念のため確認しておこうかと」

「明日が始業式の今頃にね。はっきり言うけど、遅いよ、松川さん。僕は明日登校して手続き

終えたら、もう帰らないつもりだし」

「帰らないって……ここにかい?」

 依織が驚いたのを、瀬伊は半ば哀れむように笑った。

「松川さんは、ずっと目をそらして、わざと気付かないようにしてるみたいだから、僕も放っ

ておいたけどさ。このままじゃ寝覚めが悪いから言っとくよ。……むぎちゃんが、また家政婦

するようになったきっかけ覚えてるよね」

「ああ、もちろん」

「それ具体的に、いつどうして、そういうことになったか知ってる? むぎちゃんのお姉さん

はイギリスに行くのを、本当に急に決めたんだよ。一人で留学するはずだった安藤征志を成田

へ追いかけてって、その場でだよ。取れたのは、もちろんJMAのロンドン直行便。どうして、

そんなことができたと思う?」

「……一哉、か」

「それね、むぎちゃんがこの家へ帰ってきた三日前だよ。そもそも、それまで安藤から何の連

絡もなかったのに、な・ぜ・か、当日情報が入って、しっかりパスポート持って見送りに追い

かけたってのも変な話だよね。……みんな一哉のお膳立て通りなわけ。むぎちゃんが、また住

み込み家政婦するようにさ」

「でもイギリスへ行くことを選んだのは、お姉さん自身だろう」

「まあね。……実際、むぎちゃんのお姉さんは、楚々とした美人で、いかにも正義感強そうな

しっかり者って見てくれだったけど、本当のところは、かなり浅はかな偽善者だよね。せめて

自分のエゴで行動してる自覚があってそれなりにしてくれたら、家族も割り切れる分、まだマ

シだったんじゃない? 行方不明になってる時だって、両親を巻き込んで、たった十五の妹を

一人ぼっちにしたのは、まぎれもなく、あのお姉さんだよ。むぎちゃんは一人でお姉さんのと

ばっちりで死んだ両親の死体確認して、密葬かもしれないけど葬式出して、一文無しになって

も自宅を守った上に、当のお姉さんを探し出そうと命がけで無茶してたんだよ? 知らなかっ

たで済むことじゃないよ。それで、彼女の頑張りが実を結んで、お姉さんも無事に保護されて、

この家に来たよね。どんな顔してむぎちゃんの前に出てくるかと思ってたら、にこにこ笑って

「よくやったわね」なんて妹ねぎらっちゃってさ。……正直、神経を疑うよ。むぎちゃんが喜

んでたから僕も黙ってたけど」

 表面的には淡々と話す瀬伊の、内に秘めた怒りの凄まじさが、言葉の端々から感じられる。

「それは僕も感じなかったわけではないよ。ただ……人は弱いものだからね」

 瀬伊は依織の言葉など歯牙にもかけない。

「だからまぁ一哉のしたことは悪くないと、あの時は思ったよ。むしろ、よくやったって感じ

かな。ちょっとつつけば死ぬほど苦労かけた妹を置き去りにして恋人追いかけて行く姉なんて、

疎遠になった方が気楽だよ。僕らの方が、よっぽどむぎちゃんを好きで必要としてるんだから」

「気持ちは理解できなくもないけれど……」

「どっちの? まさかお姉さん?」

「恋に落ちて……その相手しか見えなくなると、他の一切は無意味になることもあるだろう」

「へぇー、それ経験談? 松川さんが誰の理解者だって別にいいけど、僕は違うよ」

「瀬伊……」

 彼は、まるでむぎの姉に対する軽蔑を依織に向けるかのような目つきになった。


「じゃあ、もうひとつ。羽倉が急におかしくなって実家に帰ったのは、どうしてだと思う?」

「え……?」

 いきなりの話題転換で、依織は一瞬、混乱した。

「あいつ、実家に帰る前から明らかに変だったじゃない。いつを境におかしくなったか、覚え

てる?」

 問われるままに依織は記憶を辿った。

「…………バザーの頃までは、いつもの麻生だった……な」



 そう。クリスマス・バザーの日は久しぶりに一哉が帰宅して全員で夕食を食べた。

 しかし、もうその翌朝に一哉は誰にも顔を合わせず朝食も取らずに仕事に出かてしまったこ

とを、むぎが心配して沈んでいたのを覚えている。

 祭日だったその日、確か麻生は姿を見せなくて───。



「思い出した?」

「瀬伊、知っていることがあるなら……」

「松川さん、卑怯だよ。自分で確かめなよね。羽倉も、僕も、そうしたんだから」

「麻生も……?」


 ここまで来て、突きつけられる現実から、目をそらすことは許されない。

 十五のむぎが、あの絶望的な状況で、必死で前を向いて進もうとしていたことに比べれば、

どれほどのことだと瀬伊は言う。


「松川さんだって、むぎちゃんのことは、すごく心配なんでしょ。どうして帰ってこないんだ

ろうって、この僕にまで相談しようかと思うくらいにさ。何でだか知ってるの?」

「冬休みに一哉のはからいでイギリスへ行って……お姉さんと水入らずで過ごしていて……、

おおかた引き止められているんだろうと……」

 その答えを聞いた途端、瀬伊は声を上げて笑い出した。

「それ、まだ信じてたの? クリスマスに僕たちとの約束を破る形で、置き手紙ひとつで一哉

についてっちゃったむぎちゃんが、その後、僕らにひとっこともなしのまま、平気でイギリス

に行きっぱなしになってると思う? むぎちゃんが、そんな子だって、松川さんは思うんだ?」



 そうだ。それは明らかに、いつも一生懸命で世話好きで責任感が強く他人を思いやるむぎの

行動としては不自然だった。

 だから、こうして───。



「いいかげんに目を覚ましなよ。むぎちゃんは日本にいるよ。イギリスになんか行ってない」


「何だって!?」

 今度こそ依織の思考は真っ白になった。

「そんなに驚くことかな。少し考えれば、わかることだと思うけど。松川さんて案外、抜けて

るね」



 頭がガンガンする。まるで破鐘が鳴ってでもいるようだ。

 依織の感情が、言われたことを理解するのを拒否しているのだ。

 瀬伊は立ち上がり、容赦なく依織に告げた。



「むぎちゃんは、ずっと葉山にいるよ。一哉が自分の別荘に閉じこめてるんだ」









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