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 蓋のない箱 

仲秋 憬




                    <12>




 むぎのいない家にいたところで食事もまともにできはしない。

 かといって無理に用事を作って出かけようにも、せわしない年末だ。

 結局のところ、依織は十二月公演の千秋楽までの空き時間や合同稽古の後までも、皇の個人

的な自主練習に付き合った。

 付き合うと言っても、とりたてて何か指導するわけではなく、ただ見て客観的に事実を口に

するだけだ。

「懐紙で顔を隠して出てくるのは、顔を見せる瞬間の効果ををねらってるんだから、手つきが

それじゃ意味がない」

「腰、落ちてないよ。伊左衛門にすがるところ」

「そこは間が早い。太夫は、もっとゆったり」

「アクセントが、ずれているよ」

「伊左衛門に叱られている間、相手の顔は見ないけれど、見てないようで見てる気持ちだけは

張ってないと気が抜ける」

 依織の指摘を、冬でも稽古用の浴衣姿の皇は素直に聞いて、丁寧に演技をくり返し直してい

た。初役では自分の工夫など、まだ入る余地はないのだろう。それだけに余分なことを言わな

いよう、依織は極力、口を出さずに弟の芝居をながめていた。



 最後の舞台稽古も前日に終わり、年末のテレビ番組出演などの仕事もなければ役者も家にい

られる大晦日。

 ひいき筋への暮れの挨拶や年越しのあれこれで、松川の実家にいれば決して暇なはずがない

のだが、その日も皇は自宅で依織を前に日が暮れるまで稽古に明け暮れた。

「昨日の舞台稽古で、成嶋屋のおじさんにほめられたんだ」

「そう。よかったじゃないか」

「ああ……依織のおかげだ。練習に付き合ってもらえて助かった。ありがとう」

「……いや……どういたしまして」

 今さら感謝されるのも不自然な兄弟の関係が、依織には重苦しくてならない。

 なのに皇の演技を見れば言うべきことがすらすらと口をついて出てしまう自分自身は、どう

しようもなく不可解だ。

「初日……よかったら見てくれないか。普段は歌舞伎をやらない浅草だから、楽屋口にさえま

わらなきゃ、うるさいのにも会わずに済むだろうし」

 皇はそう言って、帰りに半ば強引に初日のチケットを依織に渡した。いらないと突き返す気

力もなく、依織はそれを受け取った。




 さすがに年越しは挨拶もあるはずで皇も一人暮らしのマンションから松川の実家へ帰ったが、

依織はどれほど請われても松川の家にだけは行くつもりはなかった。

 かと言って、そのまま誰もいない田園調布の御堂邸で漫然と年越しする気にもなれずに、依

織は誘われていたモデルクラブのパーティに顔を出した。母国に帰らず日本で過ごす外国人モ

デルの多い年越しパーティなら、余計な詮索もされず多少は気も紛れるというものだ。

 箱庭の学園生活も、因習降り積む閉ざされた梨園も、にわか家族の同居生活をとどめた御堂

家にも、できれば今は何もとらわれたくない気分だった。

 しかし極上のシャンパンと夜通しの馬鹿騒ぎは結局むなしい時間つぶしにしかならず、元旦

を迎えて依織は、ますます憂鬱になった。自分が、あらゆるやっかいごとから目をそらしてい

る自覚はあったが、どこへも行けはしないのだ。




 年越し後の気の抜けたパーティ会場を出て、昼近くに田園調布へ帰宅すると、家には一哉が

いた。新年の挨拶もしないのはさすがにためらわれるのでリビングにいた彼に声をかける。

「あけましておめでとう。一哉」

「ああ、おめでとう……出かけていたのか」

「君は元旦に一時帰宅かい?」

「こっちに来てる年賀状も多いからな」

 テーブルの上には、けっこうな量の郵便物があり、宛先別により分けられているようだ。

むぎがいないので、そんなことも自分たちでするしかない。

「これは松川さんあてだ」

 すっと差し出された郵便物の束を受け取りながら、依織は尋ねてみる。

「年始も休みなしかい?」

「新年会が多くて完全休養は望むべくもないな。正月休みなんてのは日本特有のものだし海外

市場にはあまり関係がない」

「本当に君はよく働くね。それで日々、迷いもなく自分の行動に疑問を抱いたりすることもな

いなら、うらやましいよ」

「……どうだか。俺はこれでまた出かけるが、ここにいるなら後は頼む。留守中、一宮あたり

に家を破壊されでもしたらかなわないからな」

 そう言ってソファから立ち上がり、そのままリビングを出ようとする一哉に、依織はクリス

マスからずっと一番気になっていたことを聞いた。

「一哉、むぎちゃんの帰りはいつだい?」

 彼は足を止めて依織を振り返った。

「始業式に間に合えばいいと言ってある。不便をかけるが……」

「不便だから聞いてるわけじゃないよ」

「……おおかた引き止められているんだろう」

「お姉さんと久しぶりの再会で、初めての海外じゃ無理もない……か。まぁ、あの子を雇って

いるのは君だから、彼女の休暇に僕らが文句を言う筋合いでないのは、わかっているのだけれ

ど」

「そう理解してもらえると助かる」

 一哉はそれ以上何も話さず身支度をして出かけてしまい、家は再びがらんと静まりかえった。

 その後、瀬伊とは顔を合わせることもなく、ピアノの音もしなかったので、彼がいるのかい

ないのか、はっきりしなかったが、依織はあえて地下に下りて確かめることもせず、新年の一

日を終えたのだった。






 あくる日の一月二日は初春歌舞伎の初日である。

 依織は迷った末に、昼の部の最後に演じられる皇の初役の舞台を見るために浅草へ出かけた。

 他の芝居を見るつもりはなく、最後の幕間に入場し客席から目当ての芝居だけを見て、すぐ

帰るつもりだった。

 正月の初日は晴着姿の女性客も多く、ロビーはいつもに増して華やいでいるようだ。知り合

いに捕まりたくなくて、本当にぎりぎりの時間に来たのだが、初日のこともあり、舞台進行は

10分ほど押していた。仕方なしに早めに席に座り、筋書きをながめて開演を待った。幸い皇が

用意した花道のすぐ脇で最後列から二番目という席は、それほど人目につかずに出入りできる

位置でありがたかった。

 皇の夕霧は悪くなかった。

 華やかで若々しい舞台に客も沸き、初日としては、まず成功と言っていい。

 拍手とかけ声の響き渡る客席が明るくなる前に劇場を後にするべく、依織が腰をかがめたま

ま席から離れようとした時、真後ろの席から、肩に手をかけられた。反射的に振り返ると、羽

織袴姿の男が笑っていた。

「……成嶋屋のおじさん!」

「久しぶりやな。ちょっと付きおうてや。ここいらは、よう知らんから、ええとこ教えてほし

いわ」

 小声で言うと、逆に依織を引っぱる勢いで、ふたりは連れ立って劇場の外へ出た。




 観光地でもある浅草だから三が日から営業している店もそれなりに多い。

 テレビドラマや映画で広く顔を知られている俳優ではないこともあり、成嶋屋と依織が並ん

で歩いていても、それほど騒がれずに、仲見世より外れたところにある古い喫茶店に入ること

ができた。店の一番奥の席を確保して、コーヒーを注文する。

「おじさん、正月は歌舞伎座に出ておいでじゃなかったですか?」

「朝一番で三番叟(さんばそう)を踏んで来た。後の出番は夜の最後にちょこっとだけやから、

監修なんてえらいお役をいただいたし、こっちの初日も見とこ思うて。正月は道が空いてて、

ええなあ。車飛ばせば余裕や」

「お忙しいのに……」

「そんなでもあらへん。いやぁ、役者が春から暇なのは堪忍してほしいとこやけど」

 この突き抜けた明るさは松川にないものだと依織は思う。

「それよりなぁ、依織ちゃん。あんた、皇ちゃんの稽古に付き合うたやろ?」

 いきなり言われて依織は絶句する。

「当たりやな」

 面白そうに笑う大先輩に、依織は観念して肩の力を抜いた。

「おじさんには、かないませんね。……そんなに、わかるものなんですか?」

「皇ちゃんに、よう教えられへんかったとこが、すーっと出来るようになってれば誰でもわか

る。夕霧は皇ちゃんの他は、昔あんたに教えたっきりや。それで初日に、あんたが来てれば、

間違いなしやろ」

「その節は……お世話になりまして……」

「あんたは筋がええから、教え甲斐あったわ。松川屋はえらい後継ぎ持って果報者やと思って

なあ」

 しかし、依織はその後、歌舞伎をやめてしまったのだから、返す言葉もない。

「今日の『吉田屋』は、みんな初役やけど、よう気張ってはった。あとは回数して慣れてきた

ところで自分なりに工夫したらええ。……欲を言えば浜田屋の坊はなぁ、伊左衛門は助六みた

いな江戸の侠客やない。勘当されて紙衣着るようになっても元は大金持ちのぼんぼんや。こそ

こそせんのは、ええんやけど、空いばりはあかん。やんちゃな若旦那の上に、もっと、じゃら

じゃらした色気が欲しいんや。ただの馬鹿に見えてもあかん。夕霧にのろけて馬鹿になってる

ように見えんとな」

「……難しいですね」

「せやな。……けど伊左衛門は東京でも六代目風のやり方もあるのに、わざわざうちのやり方

で出してくれたんはありがたいな。……もう上方の芝居はどんどんできんようになってしまう

やろ。役者も、鳴り物も、唄いも、みいんな東京へ移ったし。これからの若いもんは西には、

ようおられへん」

「おじさん……」

「うちも伊左衛門なんかは、そろそろ一世一代しよか思うこともあるんやけど、それっきり全

部の芸が途絶えてしまうのも、なんや寂しいな」



 現代の歌舞伎は、過渡期にある。この先も博物館に飾ってある骨董品ではなく生きた舞台を

残すには、相当の努力がいるだろう。以前は当事者であったが、今の依織には、それも、もう

遠い世界になるのだ。



「依織ちゃん。あんた、芝居ほんまにやめるんか?」

「え?」

 依織はぎょっとしてコーヒーカップを持とうとする動きを止めた。

「若い時、ちょいと迷って芝居から離れるのも悪かない。もっとよそに天分があると知って道

を変えるんなら、それもええやろ。せやけど、あんたは……、歌舞伎やめて好きにしてても、

ほんまは毎日つまらんのと違うか?」

「そんなことは……」

「いっぺん谷底落ちたもんはな、もうそれより底を見ることはないんやから、開き直れば怖い

もんなしや。死んだと思えば、どんな苦労も苦にならん。…………依織ちゃん、うちに来る気

ないか」

「うち……って……おじさんの……」

「あんたの任だと和事がよう似合うわ。伊左衛門、見てて演りたくならんかったか? 夕霧は

綺麗な衣装で出てくるとこが全部で、あとは伊左衛門にそってるだけの役や。この芝居、ほん

まにしどころあるのは立役の伊左衛門や」

「…………」

「知っての通り、うちには子がない。部屋子をとったりしたこともあるんやけど、とうとう弟

子を芸養子にすることもかなわんと、この年まで来てな。それもええわと思ってたはずなのに、

近頃はお迎えが来る前に、誰ぞに芸を教えときたい思うようになったんや。年とった証拠やね」

「おじさんは、まだお若いですよ。本物の上方歌舞伎のためにも、まだまだ活躍していただか

ないと。でないと歌舞伎は、ずいぶんとつまらなくなってしまいます」

「おおきに。……だからな、役者の業かもしれへんけど、芝居は生き物で一回一回の舞台が勝

負で、その全部が違うやろ。芝居を残そ思ったら、名前と一緒に芸を継いでもらわなならん。

そこにまた継いだ役者のその時の工夫が入って、芸も名前も大きくなる。襲名てのは、そうい

うもんや。まったく同じもんをなぞるんでも、過去を全部無視して好き勝手やるんでもない。

それが何代も積み重なって、役者の魂が引き継がれてゆくんやね。それをうちの代で叩き切っ

てしまったら、ご先祖に申し訳ないな。けど、その天分のない者に背負わすもんでもない。…

……依織ちゃん、あんた次第や。今なら、まだ間に合う。死んだ気になって水を変えるなら、

一から叩きこんだる。松川屋に話も通したる。松川は皇ちゃんもおるし、あんたが、このまま

戻らんでも、何も変わらんやろ」

「おじさん、僕はもう……」

「ああ、返事は今せんでええ。迷うなら、とことん迷っとき。それで自分の好きにしたらええ。

……ただ、な。あんたは、知らんのやろなぁ」

 成嶋屋は、品の良い愛嬌のある顔でにやりと笑った。


「役者と乞食は三日やったら、やめられへんのや」


 依織には、何も言えなかった。




「……そろそろ戻るわ。出番に遅れたら大目玉や」

 最後に飲み干したコーヒーカップを置いて、成嶋屋は立ち上がった。

「東銀座まで、お送りしますよ」

「ああ、気にせんでええよ。もう車は頼んである。あと10分で公会堂に迎えが来るから、お先

するな。おおきに」

「おじさん……ありがとうございました」

「一月は東京におるし、その気になったら、京都に戻ってからでも、いつでも頼ってくれてえ

えよ。皇ちゃんにも、よろしゅうな。あんたからも、ほめたってや」

 こうして上方歌舞伎の大御所は、依織が止める間もなくテーブルの伝票をさっさと精算して

行ってしまった。





 残された依織は、ただ呆然と、カップに半分ほど残った冷めたコーヒーを見ていた。

 歌舞伎役者としてやり直すなどという可能性を、依織はそれまで全く考えたこともなかった。

 十七の時に与えられた襲名公演を棒に振った依織を、代々続く松川に泥を塗ったと激怒した

父は、何一つ言い訳も弁解もせず反省の色も見せずにあっさりと歌舞伎を捨てた息子を決して

許しはしないだろう。依織自身、戻れるとも思えない。

 それは舞台と恋を天秤にかけて恋を選んだ自分への戒めだ。

 たとえその恋がまやかしであったとしても、その時舞台を選ばなかったのは依織自身だった

のだから。



 夕霧を演じられる皇をうらやむつもりはない。

 芝居がしたくて稽古に付き合ったわけじゃない。


 どうして、こんなことになったのだろう。

 こんな正月を迎えるつもりではなかった。


 客の少ない薄暗い喫茶店の隅で、依織は長いこと額を抑えてうつむいていた。








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