憬文堂
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 蓋のない箱 

仲秋 憬




                    <11>




 あての外れたクリスマス・イブの後、それでも、むぎさえ帰ってくれば、年末年始はきっと

去年までと全く違うにぎやかなものになるのではないかと思っていた。

 春に両親を亡くしている彼女は喪中のはずだから、おせち料理や初詣は無理でも、夏休みの

時のようにたったひとり留守番で年越しさせたりなど決してしないだろう。有能な家政婦の彼

女がはりきるであろう家中の大掃除だって、何だかんだ言いながら同居人総出で手伝うことに

なるんじゃないか。


 ──なるべく急いで帰るから──


 そう書き残して一哉に付き添って葉山の別荘に行ってしまったむぎは、翌日のクリスマスに

も、その次の日も、帰ってこなかった。連絡もメールや伝言ひとつない。

 こうなると家にいるのも、むしろ苦痛だ。

 食事もそれぞれ勝手に外食などで適当に済ませているが、朝晩のリビングのカーテンの開け

閉めや暖房器具の操作、洗面所の換気くらいは自分たちでしなければならない。必然的に朝、

最初にリビングに来たものがカーテンを開けているのだが、大抵の場合、むぎが来る以前から

それはほとんど麻生の役目だった。

 しかし今朝は依織が一番だったのか、リビングに入ると遮光カーテンが引かれたままだった。

不慣れな手つきでカーテンを開け朝日を入れてから、目を覚ますためにコーヒーでも落とそう

かと思ったところで、外出するらしい身支度をした麻生が顔を見せた。

「松川さん、俺、実家、帰るから」

「え、今からかい?」

「……ああ」

 勘当同然に家を出た彼の様子を心配してかかってくる電話から逃げ回っていた麻生が、年末

とはいえ自分から実家へ帰ると言い出すとは依織も予測していなかったので、驚きを隠せない。

しかも、むぎが、まだ戻っていないのに。

「そう……意外な気もするけれど、年越しは実家がいいかもしれないね」

 当たり障りのない声をかけてみたが、麻生も特に反応を示さない。直情的で考えていること

が全部顔に出る彼にしては、これもめずらしい。

「……んじゃ、そういうわけだから。……今年はこれで。いい年を……って言っとく」

 全くいい年になどなりそうにない抑揚のない声で、年明け、いつ戻ってくるかも告げずにバ

イクのヘルメットを抱えた麻生は御堂家を出ていった。



 残された依織は、まだ散らかり放題までいかなくても、どことなく雑然とした暖房の効き始

めたリビングで、ひとり寒々しい感覚にとらわれた。

 去年の冬休み、自分がどうしていたかよく思い出せない。

 今よりずっとむなしい同居生活だったはずなのだが。

 いや、同居してるという感覚すらほとんどなかったと言っていい。好き勝手にばらばらに過

ごしているだけの家だった。

 ぼんやり思い返しつつ、コーヒーを一杯淹れたところで、携帯電話が鳴った。
 
 通知を見て驚く。御堂一哉からの電話だ。

「一哉なのかい? むぎちゃんは」

『ああ。面倒をかけた。事後承諾で悪いが、むぎには冬休みのボーナスをやったんだ。イギリ

スに行かせてやることにした』

「何だって?! イギリスって……お姉さんのところかい? これから?」

『そうだ』 

 年末年始の繁忙期に突然の海外旅行の手配など、国際線もある航空会社を持っている御堂の

力があれば容易なのかもしれないが、あまりにも唐突過ぎて、依織は開いた口がふさがらない。

むぎはろくに準備もせず身ひとつでイギリスへ旅立ったのではなかろうか。

『俺も成城の実家に戻る。あんた達も自由にしてくれ。セキュリティには問題ないと思うが、

留守にする場合、戸締まりだけはよろしく頼む』

「一哉……」

『休憩は終わりだ。俺は仕事中なので、これで』

 一方的に電話を切られ、依織はしばらく今起こった物事をうまく受け止められず、困惑して

いた。冷めたコーヒーを飲み干して、何とか自分の中で状況を整理した。


 とにかく、今、家にいるであろう瀬伊には事情を話しておく必要がある。


 地下の瀬伊の部屋へ行くと、彼はベッドに寝そべってグラビアをながめているところだった。

 ノックに続けて依織が顔を出すと、瀬伊は気だるげに顔だけを依織に向けた。

「松川さん、午前中からめずらしいね。何?」

「一哉から電話があったよ」

 依織の言葉で、瀬伊は突然目の色を変え、身を起こすと依織の前まで進んで向き合った。

「一哉なんだって? むぎちゃんはどうしたの? なんで連絡つかないか聞いた?」

「ボーナスでイギリスに行かせたそうだ。自分も実家に戻るから、こっちは適当にしてくれと」

「…………冗談でしょ」

「本当だよ。それと麻生は今朝、電話の前に実家に帰ったからいないよ」

「──ふーん……」

 瀬伊の目は何も納得していないように依織には見える。

「で、松川さんは、どうするの? ふ・ゆ・や・す・み」

「どうするって……適当に過ごすさ」

「適当……ね」

「瀬伊こそ、どうするつもりだい?」

「さあ───羽倉や松川さんと違って、僕には帰る家なんかないし、どこでも同じだよ。むぎ

ちゃんがいないなら、ここにいる必要もないけど」

「好きにするといい。とにかく伝えたよ」

 依織は、言うべきことを言い終えて、瀬伊の部屋を後にした。





 むぎがいたからと言って、何もずっと家にいるつもりではなかったはずだ。

 彼女がいなくても、休日は過ごせる。普段だって彼女と一日中顔を付き合わせていることな

どない。

 家政婦の仕事をしてもらえない不自由さはあっても、自分の日常生活のペースを狂わせるこ

とはない。

 現に、彼女が事件を解決して家政婦をやめ、お姉さんと暮らしていた間は、曲がりなりにも

男四人でそれなりに同居生活を続けられていたはずなのだ。

 頑張ってくれていた家政婦さんが冬期休暇をもらって旅行に出かけたからといって、それほ

ど不満に思う必要はない。むしろ喜んで行っておいでと送り出す気持ちでいるべきだ。

 依織は、そう気持ちに折り合いをつけて、それ以上、深く追求しなかった。



 後で思えば、この時、本当はもっと確かめるべきことがあったのだ。


 らしくない麻生が実際、何を知っていたのか、とか。

 瀬伊が、持てあます休暇を、どう過ごそうとしていたのか、とか。

 一哉の真の思惑──とか。







 昼過ぎに今度は皇から携帯メールがあった。個人的な稽古に付き合って欲しいという依頼だ。

「千秋楽の前だろうに。どこで稽古する気だ。まさか松川の家に来いっていうのか」


 現代演劇と違って、歌舞伎は事前に共演者がそろって長く稽古を重ねるなどということはな

い。公演の始まる数日前に顔寄せがあり、続けて稽古場で書抜や台本を持って平稽古をし、動

きや付けを確かめ総ざらいをし、最後に舞台稽古で初役ならば初日通りに衣装をつけて通して、

おしまいだ。もちろん新作歌舞伎などの場合は顔寄せ前に何回も集まって稽古をするが、通常

の古典演目の場合、芝居は芸として身に付いているものとして扱われ、普段から自分でさらっ

ておくものなのだ。初役ならば事前に時間を取って教わっておくが、それも個人的な練習だ。

たいていの場合、その師は家の芸を伝える親である。ただ、松川は江戸歌舞伎の家だから上方

和事は家の芸にない。


 無理だと断った返信に慌てたのか、公演の空き時間に電話してくる皇に、せっぱ詰まった声

ですがられる。

『初春芝居で初めてかかる『吉田屋』は成嶋屋のおじさんが監修してくださるんで、今月の始

めに一通り教わったんだ。依織も昔、おじさんに習ったんだろ』

 依織が歌舞伎をやめるほんの少し前、若手の勉強会で上方和事に挑戦して……その時、依織

も上方歌舞伎の大御所である成嶋屋に廓の太夫、扇屋夕霧の役を教わり、その芝居を通常の興

行でないのに、かなり誉めてもらった。まだ十代の依織の名跡襲名が早まったのは、その成嶋

屋の口添えもあったのだと後で聞いた。

『おじさんは京都の顔見世に出てるから、もう初日前の舞台稽古いっぺんしか見てもらえない。

自信が……自信が欲しいんだ。依織……後生だから頼む。客観的に見てもらえるだけでいい』

「どこで」

 いいかげん見捨てられない自分に、依織は呆れる。

 十九になったばかりの弟が「後生だから」などと古めかしい言葉を平然と口にする世界、血

がつながらない相手でも、おじさん、兄さんと呼ぶ閉じられた世界と関わり続けても、きっと

ろくなことはない。

 しかし、どうせ優先してしたいことも、しなければならないこともない冬休みだ。

 いっそどこかのパーティにでも出席しておくことにすればよかったと思っても、後の祭り。

 今からだって、それは不可能ではないはずだが──。

『俺のマンションでいいよ。広い場所は、いらないから。所作と科白まわしを見てもらえれば

いいんだ』

「…………わかったよ」



 結局、弟を無下に出来ない自分に依織は深くため息をつく。

 なんだかとても疲れてしまった。

 こういう時は、かわいい家政婦さんの笑顔が何より癒しになったのに。


 サイドテーブルの隅に置いたままになっている赤いリボンの小さな包みが、依織の目に入っ

た。むぎに渡し損なったクリスマス・プレゼントの箱は、物の少ない依織の部屋で、ひどく浮

いている。

「お年玉にすればいいかな」

 いくらなんでも祥慶学園の新学期を迎える松の内には彼女も帰ってくるだろう。

 依織がプレゼントを渡すより先に、むしろイギリスから帰ってくるむぎが、長く留守にした

ことに気を遣って、たくさんお土産を抱えてきそうだ。

 彼女を思うと、それまで憂鬱そうに伏せられていた依織の顔に自然と笑みが浮かんでいた。








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