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 蓋のない箱 

仲秋 憬




                    <10>




 12月24日クリスマス・イブの朝。

 昨夜、一哉の帰った様子がない事をむぎのために少しばかり憤っていた依織だが、実行委員

のむぎは、また早朝に登校したらしく、依織が制服に着替えて一階に降りた時には、もう家に

いなかった。

 ダイニング・テーブルの上には、小ぶりなおにぎりや卵焼、青菜と揚げの煮びたしといった

朝食の準備がしてあり、あとはキッチンでみそ汁を温めればすぐ食べられるようだ。食卓では

麻生がひとりでもくもくとおにぎりをほおばっていた。

「おはよう、麻生。昨日は見かけなかったけれど、帰りは夜遅かったんだね」

「ああ。一日出てたから。……俺、もう食い終わったし、先、行くから」

「そう、早いね。また、むぎちゃんの手伝いでもするのかい?」

「そんなんじゃねぇよ。とにかく、お先!」

 麻生は荒っぽく席を立つと、自分の使った食器をキッチンへ戻して、家を出て行った。

 入れ替わりに瀬伊があくびをしながらダイニングへ来る。

「おはよ、松川さん。羽倉、機嫌わるーい」

「おはよう。……クリスマスだっていうのにね」

「むぎちゃんがいないし、僕だってご機嫌じゃないんだけど」

「それも今日で終わりだろう。学園行事をこなして帰ってくるまでの辛抱さ」

「だといいけどね。ホントむぎちゃんが無事に生徒に戻れて良かったよ。職員だったら冬休み

だって通勤させられたりしそうだもん」

「彼女が休み中も活動するようなクラブに所属しなかったことを感謝しないとね」

「家政婦やるから部活はしないって、むぎちゃんは最初から言ってたよ。一哉の差し金かどう

かは知らないけどさ」

 瀬伊が面白く無さそうに言って卵焼きに箸をのばす。

「……今日のは甘いや」

 甘い卵焼きに少し機嫌を直したのか、瀬伊も朝食をたいらげる。


 結局、一哉の考えひとつで、むぎの立場は如何様にも変わるのは事実である。

 同居人達は、その点をどうしても素直に容認できずに、くすぶっているのだった。




 依織と瀬伊は食事の後、特に申し合わせもせず、それぞれに登校した。

 祥慶学園の終業式は朝一番に全校生徒がチャペルに集まり、クリスマスミサとコンサートを

後に控えているせいで、学園長の話も短く、あっさりと終わる。行事に参列するだけの生徒に

とって、この日は取り立ててやるべき事もなく、楽なものだ。

 しかし、終業式に続けて行われるミサには、やはり格別の雰囲気がある。特に宗教的感銘を

感じない質の依織でさえもクリスマスのミサには心を動かされる。合唱部の聖歌も、神父の説

教も、この時ばかりは誰もが真摯に聞き入る。

 そしてミサの聖書朗読で、ひとつのクライマックスを迎えるのはわかっていた。



 学園施設として、いつもは明るい礼拝堂も、クリスマス・ミサの間は照明を落とし薄暗くし

た中、蝋燭の火と窓から入る日の光だけで進められる。

 昨日から連絡もなく家に帰ってこなかった一哉は、きちんと制服を着て、チャペルの祭壇に

近い最前列にいた。

 全校生徒が見守る中、彼は朗読台に進み出る。朗読台に立つ一哉の姿は、何者も寄せ付けず、

いっそ神々しいと言ってよかった。しわぶきひとつおこらないチャペルに朗々と響く声は心地

よくなめらかでいて威厳があり、そこに集う者を支配した。


「……主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。天使は言っ

た。“恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あ

なたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである”」


 一哉の前には革張りの表紙の聖書が置いてあったが、彼は開かれた聖書をまったく見ていな

い。それは、もはや朗読ではなく暗唱だった。


「すると、突然、この天使に天の大軍が加わり、神を賛美して言った」


 その時、朝から陰っていた太陽が雲の間から顔をのぞかせたらしく、まるで天と地をつなぐ

階段のように伸びた光が、チャペルの高い窓から朗読台の一哉に降り注いだ。


「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ」


 息を呑むような光景だった。感動して泣いている女生徒までいる。

 役者として人の心を動かすために修行していた経験のある依織にとって、一哉の上に立つ者

としての立ち居振る舞い、いやでも周囲を巻き込む天性の資質には驚嘆するしかなかった。

 依織は子役から若手花形歌舞伎役者に花開こうとする、まさに売り出し始めた頃にやめてし

まったけれど、それでも芸能人として育った自分が、群衆の中にいるだけで目立つ存在である

自覚がある。

 だが、この一哉の前で王の演技をしろと言っても無理だろう。本物になるには、それなりの

犠牲を必要とする。歌舞伎を捨てた依織に、もはや、そんな覚悟はない。



 その後、歌われた数々の美しい聖歌も、信者にとってのミサのメイン・イベントと言っても

いい聖体拝領も、一哉の暗唱の後では、気の抜けた義理のアンコールに余韻だけで付き合って

いるような心地さえして、依織はある種の戦慄を覚えた。

 このクリスマス・ミサに初めて参列して、感受性の豊かなむぎは、どう思ったろう。

 礼拝堂では彼女の姿を見かけることができず、依織は少々気がかりだった。




 ミサが終わると礼拝堂から芸学棟のホールに場所を移して、クリスマス・コンサートだ。

 こちらも毎年、演劇部の典礼劇や、音楽部の中でも指折りの生徒の演奏や、年によってはプ

ロの演奏家まで呼んで本格的なプログラムを組むので、毎年盛り上がる。チャペルでの終業式

やミサの間よりは自由に動けるので、コンサート前に舞台裏あたりで手伝いに忙しいむぎでも、

探し出して一言声をかけられれば、本番を邪魔しない限り、様子を確かめることも可能だろう

と依織は考えていた。


 しかし、その見通しは甘かった。


 探して声をかけるどころか、コンサートの前後も最中も休憩時間にも、実行委員のひとりで

あるむぎはおろか、生徒会長の一哉の姿すら見かけることがなかった。

 ステージで披露された演奏そのものは決して悪くなかったが、コンサートの始まりにも終わ

りにも生徒会長の挨拶はなく、プログラムにあった終わりの言葉は、生徒会書記で実行委員長

の任に就いていた樋山城が行ったので、最後に一哉のスピーチを期待していた女生徒たちの間

からは、失望のざわめきが起こった。


 全てがつつがなく済んだとは言えない学園行事に最後まで付き合い、気分的には、これから

の御堂家での夕食が本番だと気を取り直した依織が、寄り道もせず、真っ直ぐに帰宅してみる

と、さらに大きな喪失感を味わう羽目になった。





「鈴原ならいねぇよ」

 ダイニングには、しっかりクリスマス・ディナーのセッティングが整っていて、キッチンに

は用意をすれば、すぐに食べられそうな料理が出番を待っている。オーブンにはターキーが。

鍋にはトマト・スープ、冷蔵庫には数種のオードブルにサラダ、極めつけはチョコレートクリ

ームで飾られたブッシュドノエル。

 だが、このディナーを作り上げ、給仕してくれるはずの家政婦さんはいなかった。

「ほら、手紙だ」

 ダイニング・テーブルの前に立っていた麻生が、ついっと一枚の白い便箋を依織に渡した。

 花模様の入った便箋に並んだ丁寧で小さく丸い字は、確かに彼女の筆跡のようだ。




    依織くん 瀬伊くん 麻生くん へ

   ごめんなさい! 一哉くんが、ものすごく体調悪くてクリスマス・コンサートも
   抜けて来たのに、どうしても欠席できない仕事の集まりで、これから葉山に行か
   なきゃならないと言うので、ついてくことにしました。
   ずっと泊まってる別荘も、何だかぐちゃぐちゃみたいだし、家政婦として放って
   おけません。
   がんばって作ったクリスマスのごちそうは簡単に食べられるようになってるので、
   三人で食べてね。
   麻生くん、オーブンでお肉を温めるのをお願いします。
   帰ってきたら、冬休みの間みんなのリクエスト順番に何でもきくから許してね。
   楽しみにしてたのに本当にごめんね。なるべく急いで帰るから。

    メリークリスマス!
                               鈴原むぎ




「コンサートで見かけないと思ったら、一哉は早退していたのか……」

 瀬伊がキッチンから現れて、依織の疑問に答えた。

「ミサの後、あの一哉が熱でふらついてたんだって。生徒会役員、相当バタバタしてたらしい

よ。むぎちゃんが心配して早退につきあったあげく、葉山までついてっちゃったみたいだね」

 残された三人は、為す術もない。何か言っても虚しいだけだ。

「これを……僕たちで食べるのかな」

 依織の声は、うめき声に近かった。



 いったいどうしてこんな事になったのか。

 まったく予定外のクリスマスになったことは確かだ。

 彼女が作ったおいしいクリスマス・ディナーに住人揃って舌鼓を打つはずが、まるでお通夜

か何かの砂をかむような食事に早変わりだ。

 瀬伊は不機嫌さを全開にして、食事もほとんどそっちのけで怒っていた。

「……こんなのってあり? 僕、許せないんだけど。絶対、復讐してやる」

「一哉にかい?」

「当然でしょ」

「でも、むぎちゃんが無理についていったという可能性もあるのだけれどね……」

「松川さん、あんた知らないんだな」

 それまで食事の間もずっと黙っていた麻生が、彼に似合わず押し殺した声でぼそりと告げた。

「何を?」

「あいつが……鈴原が……」

「むぎちゃんが、どうかしたのかい? はっきり言ってくれないか」

 麻生は、動かすのを止めたナイフとフォークから手を離し、依織の目を見て言った。

「あんた同じ二階で、あいつらのすぐ近くの部屋で寝起きしていて、本当に気付いてないのか」

「だから何を」

「御堂が鈴原にさせてることだよ!!」

「一哉が? 部屋の掃除に洗濯、買い物、夜食や突然のコーヒー以外で個人的にかい? 麻生

が夜中にカレーを作ってもらうのと大差ないじゃないか。……ああ、マッサージさせてるのは

反則気味かな……でも今に始まったことじゃないだろう」

「…………」

 麻生は返事をしない。依織は大きく息をひとつ吐いて言った。

「仮に一哉が何をさせていたって、雇い主は一哉だからね。むぎちゃんが家政婦の仕事から逸

脱した作業を無理強いされて嫌がっているのでもなければ、僕らには何も言えないんじゃない

かな。個人的に面白くはないにしてもね」

「……あいつが納得して、あんなことしてるってのか……あんな……あんなのは……っ」

「麻生……一人合点されても困るのだけれど」

「俺は認めない。あいつが自分からやってるわけねぇだろ! 御堂が……御堂のヤツが強制し

てるに決まってる!」

 麻生は、そのまま席を立ち、バタバタとダイニングを出ていってしまった。



「……いったい何だって麻生は……」

 突然の粗暴さに呆れて依織は絶句する。

 彼らのやり取りに対する瀬伊の反応の前に、リビングの電話が鳴った。依織は食卓を離れて

ダイニングと続き間になっているリビングに移動し、受話器を取った。

「はい。御堂です」

『あ、依織くん?』

「むぎちゃん!」

 依織の声に、瀬伊が立ち上がる。

『ホントごめんね。お家のみんなでイブのパーティできると思ってたのに……』

「今、葉山かい?」

「松川さん、替わって!」

 隣にやって来た瀬伊が、依織から受話器をひったくる。

「むぎちゃん、ヒドイよ! 僕にどうしろって────え? ほっときなよ。別荘のことなん

て家政婦さんの管轄外でしょ。そんなの関係ない………………違うってば! ……それじゃあ

僕が病気になっちゃうよ。…………ううん……ダメだよ。いいから早く帰ってきてよ!」

 ほとんど泣き落としの悲鳴のように瀬伊が受話器に向かって叫んでいる。

「ええっ? 羽倉なんか、どっかに行っちゃったよ。そんなことより、ねえ…………ダーメ! 

電話で言ってたって教えてあげないよ。だから…………あ!」

 瀬伊はだらりと受話器を持つ手を下ろした。

「切れちゃった……」

「瀬伊──」

「仕方ないじゃない! 我慢できないよ。こんなのは!!」

「彼女の携帯からだったのかい? それとも葉山の別荘? 一哉も連絡先を残していないのに。

今の電話は非通知だったよ」

 瀬伊は小さく舌打ちして、自分の携帯電話を取り出し、むぎの携帯にその場で電話をかけた。

「…………電源入ってない」

「仕方ない……ね」

「松川さん、一哉の携帯の番号知ってるでしょ」

「かかると思うかい?」

 試したところで、つながるはずもなかった。



 結局、御堂家のクリスマスイブは、遅くまで瀬伊の荒れた気分そのままの凄まじい超絶技巧

練習曲が地下のピアノ室から流れ続け、麻生は部屋にこもりっきりなのか姿を見せず、依織も、

何をする気にもなれずに、ひとり鬱々と眠れないまま一夜を過ごす、散々なものに終わった。








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