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 蓋のない箱 

仲秋 憬




                     <9>




 明るい日差しが入るダイニングで、依織はむぎの給仕で普段より遅めの朝食をとった。

「瀬伊と麻生は、もう済ませたの?」

「ううん。まだなの。瀬伊くんはお昼まで寝て、午後から出かけるって言ってたし。あんまり

聴けない曲の演奏会があるんだって。えーと、バッハのクリスマスなんとか……」

「ああ、クリスマス・オラトリオかな」

「そう、確かそれだった! 麻生くんは……何も言ってなかったけど、まだ寝てるみたい。お

休みの日だし起こしちゃいけないかなと思って」

「そう。珍しいね。昨夜は出かけなかったようなのに」

 休日前夜は自慢のバイクでビリヤードをしに出かけてプールバーで夜明かしすることも多い

麻生だが、むぎが来てからは、その頻度は減っていたし、遅く帰宅した翌日も朝は顔を出して

朝食をしっかり食べていたようだったから、単純な朝寝坊は珍しい。しかし麻生にもゆっくり

寝ていたい日もあるだろう。人の休日のプライベートに踏み込む必要もないので、依織はそれ

以上気にかけることもなかった。


 ゆっくりと二杯目のカフェオレをいれてもらったところで、依織の携帯電話が鳴った。

「……皇か。朝から何だい?」

 新春に予定されている舞台に余程自信がないのか、電話の向こうの弟の声には余裕がない。

「え……? 今から? ………………僕は小屋に顔を出すのは遠慮するよ。…………銀座じゃ

ないって……休日の三宅坂なら芝居目当ての人しか歩いてないし、尚更、目立つだろう。……

ああ。……いや、そうじゃない…………わかったよ。そこまで言うなら行こう。でも大して力

にはなれないよ」

 公演の合間に、わざわざ劇場の外に場所を作ってまで会えないかとすがられては無下にも出

来ない。

「むぎちゃん、ちょっと出かけてくるよ。夕食までには帰るから」

「行ってらっしゃい。気をつけてね」

 食卓を片づけながら笑って見送ってくれるむぎに微笑み返すと、依織は家を出た。





 十二月公演に出演している劇場からほど近い、麹町にある老舗の和菓子屋の誰もいない喫茶

室で依織を待っていた皇と会う。彼は依織と話をするためだけに、日曜祭日は休みのはずの喫

茶室を代々松川が贔屓のなじみをつてに無理を願い、一時間だけ間借りしたのだ。

 そこで聞かされた皇の悩みは、結局堂々めぐりのようだった。

「正月の浅草なら若手ばかりだろう。今年の座頭は誰だと言ったっけ?」

「浜田屋の下の兄さん……」

「ああ! あの人は気さくな人だし、相手役だって緊張することはないじゃないか。『吉田屋』

の夕霧太夫なんて、めったにやれる役じゃなし、初役なんだから教わった通り、無心に丁寧に

やったらいい」

「兄さんも上方物は初挑戦だし、俺が足手まといになったら……自信がないんだ」

「自信なんて誰だって始めからあるもんじゃない。そのために稽古してるんだろう。十回やっ

てできなきゃ、百回でも千回でもくり返してやるしかないよ。他に道なんかない」

「……依織はくり返しさえすればできたから、そんな事が言えるんだ。何万回やってもできな

い奴もいる。回数じゃ埋められない何かが欠落してる者もいるんだよ。それは努力じゃ解決し

ないだろ……」

「そんなことでいくら悩んでも、お前が舞台に立って演じることに変わりはないよ。……覚悟

を決めることだね」

「覚悟……」

「泥にまみれ、恥をかいても、これと思い定めてやり遂げる覚悟だよ。それができないなら、

やめてしまいないさい。……俺のようにね」

 皇は明らかにショックを受けた表情を見せた。

「依織……本気で、もう戻らないつもりで……完全に思い切ったのか? ……歌舞伎を……捨

てられるのか?」

「夜の部の出番があるんだろう。もう行かないと間に合わないよ」

 問いかけに返事をせず、一方的に話を切り上げると、物思いに沈みかけている弟を置いて、

依織は店を出た。


 人の少ない通りを地下鉄の駅まで歩きながら、偉そうに皇に忠告できる立場ではないのに、

と自己嫌悪すら感じて暗くなる。

 こんな沈んだ雰囲気をまとって帰宅する気になれず、依織はそのまま年末特有の華やかな人

混みでにぎわう繁華街へ出ることにした。

 特にあてもなく見るとも無しに立ち寄った海外ブランドのショップのショーケースの中に飾

られていたアクセサリーが目にとまった。小さな雪の結晶をかたどった銀のイヤリングは清楚

でかわいらしい。

「むぎちゃんに似合いそうだ」

 自然とつぶやきが漏れた。指輪では意味深過ぎるが、宝石もついていないシンプルな、この

イヤリングくらいなら、クリスマスという口実もあることだし、プレゼントしても素直に受け

取ってくれるのではないだろうか。彼女の形の良い耳にキラキラと輝く結晶を思い浮かべると、

もうどうしても身につけてほしくなって、依織はそのイヤリングを購入してから、御堂家へ帰

宅した。





 言い置いた通り夕食前に帰りつくと、休日の家には、むぎひとりしかいなかった。

「……おや、みんなまだ外出中かい」

「うん。瀬伊くんはコンサートで、麻生くんも出かけちゃって……、一哉くんも……連絡まだ

なの……」

「おやおや。それじゃあ、むぎちゃんの作ってくれるおいしい夕食は僕が独り占めかな」

「……うん……たぶん」

「それは幸運だね」

「え?」

 依織の言葉に、うつむいていたむぎが顔を上げる。

「幸運なの?」

「邪魔者がいないのは幸運だろう」

「……邪魔って何が?」

「お姫さまと二人っきりのディナーの方が嬉しいってことさ」

「いいいい依織くんっっ!」

 真っ赤になってうろたえ出すむぎを安心させるように依織は笑って軽く彼女の背中をキッチ

ンへ向けて押し出した。

「人混みを歩いてきたから、おいしく夕飯がいただけそうだ。期待してるよ」

「う、うん。わかった。……ありがとね、依織くん」

「君がお礼を言うことじゃないさ」

 気を遣っているわけではなく、本当に思いがけなく彼女を独り占めできる幸運を喜んでいる

のに、こういう心の駆け引きに、彼女はおそろしくにぶかった。



 しかも、依織が期待していた二人きりの夕食は、箸を取る直前に邪魔が入った。

「ただいまー! むぎちゃん。僕おなかぺこぺこ!」

 帰宅するなりダイニングに飛び込んできたのは瀬伊だ。

「瀬伊くん! コンサートで遅くなるんじゃなかったの?」

「んーどうしても、むぎちゃんのご飯食べたかったからアンコールはパスして帰ってきちゃっ

た。あれ、松川さんだけ?」

 瀬伊はダイニングテーブルの椅子に座ろうとしたむぎに背中から抱きついたまま、初めて気

がついたように依織をみた。

「ああ、君が帰ってこなければね」

「おあいにく様。あぶない所だったね。むぎちゃん、僕もご飯」

「すぐ用意できるよ。食べるなら手、洗ってね」

「はーい」

 瀬伊は素直にむぎを解放すると、彼の分の食事の支度をするために食卓を離れたむぎと一緒

にキッチンへ入り、そこで手を洗うことにしたらしい。

「あんっ! 火をつかうんだから手を出したらあぶないじゃない!」

「えーだってそれ、僕のでしょ。よく焼いてね。おいしそーう」

「あぶないってば! ほら、キッチンソープでいいから、ちゃんと洗わなきゃダメ!」

「洗ってるよ」

「泡飛ばさないでよ、もう!」

 キッチンで、瀬伊とむぎがじゃれている声がする。

 先に箸をつけずにおあずけ状態で待つ依織は、やれやれとため息をついた。



 御堂家の食卓で、むぎと二人きりなら互いの話もできるだろうが、これが三人となると交わ

される会話が、ここにいない同居人二人のことになるのは、やむを得ないのかもしれない。

「まだ一哉から連絡ないんだ?」

「うん……どうしたのかな……」

「むぎちゃんが、そんなに心配することないって。一哉の仕事の都合でしょ。連絡なしで迷惑

かけてるんだから怒った方がいいよ」

「ん……でも一哉くん、約束したことは守る人だから……何か事故とかじゃなければいいんだ

けど」

「一哉に何かあればニュースが黙ってないよ。仕事なら部下だって周りにいっぱいいるんだし」

 瀬伊は、気にかけるのも馬鹿馬鹿しいといった調子で言い捨てた。

「麻生も帰り、遅いんだって?」

「……たぶん……時間は言ってなかったけど。麻生くん、今日、一度も家でご飯食べてないん

だよね」

「え? あれから起きて食事もしなかったのかい?」

 依織が驚いて尋ねると、むぎはうなずいた。

「なんか……食事はいいからって、すぐ出かけちゃった」

 むぎが家政婦を始めたばかりの頃なら、いざ知らず、どこか麻生らしくない態度だと依織は

疑問を抱いた。

「どうでもいいよ。勝手な奴は放っておけば。ね、むぎちゃん、ご飯食べ終わったら夜は僕と

遊ぼう」

 いつも誰より勝手な行動を取る瀬伊が普段の自分を棚に上げ甘えた調子でむぎに話しかける。

「えー、あたし仕事あるもん」

「家政婦仕事なら昼間たっぷりできたでしょ。ケーキ焼いてたの知ってるよ」

「それは明日のだよ。明日は終業式の後クリスマス行事で朝が早いし……、色々準備があるの」

「明日のことは明日でいいよ。君なら、ぱぱっとできちゃうくせに」

「できないよー。学園のコトと家のコトは別だもん」

「瀬伊、一哉がいないからって、あまり我が儘で彼女を困らせるものじゃないよ」

「……松川さん、自分も本当はそうしたいくせに、できないからって訳知り顔で僕に口出しな

んかしないでくれる?」

「そんなつもりはないよ。むぎちゃんが迷惑そうだから言ってるだけだ」

「へーえ。……そう?」

 わずかに険悪な雰囲気になりそうなところ、むぎがこれ以上なはい絶妙のタイミングで立ち

上がった。

「ごちそうさま! 先に片づけて洗い物してるから、お茶いれるなら呼んでね」

 結局、男二人でいつまでも食後の団らんでもなく、片づけや明日の下ごしらえに忙しそうな

彼女を煩わせるのも気がとがめて、ほうじ茶を一杯飲んだだけで、依織も瀬伊も自室に戻った。








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