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 蓋のない箱 

仲秋 憬




                     <8>




 チャリティ・バザーに顔を出し、実行委員で忙しくしているむぎを激励した後、むぎの周囲

にまとわりつく子供のような瀬伊と麻生を置いて、依織は、ひとりゆるゆると下校した。

 途中、書店で特集記事目当てのアートカルチャーの月刊誌と新刊の推理小説の文庫本を購入

する寄り道をしたが、家に帰り着いたのは日没前だ。まだ誰もいないだろうと思っていたら、

驚いたことに一哉がリビングでコーヒーを飲んでいた。むぎもいないのだから、自分で淹れた

のだろうか。家事が壊滅的な一哉でも、その気になればコーヒーは自分で淹れるんだなと、ど

うでもいい事を依織は考えた。

 それにしても、この家に、たったひとりでいて自分でコーヒーを淹れて飲んでいる一哉の図

は、ひどく違和感がある。

 何だか、いたたまれない心地がして黙っていられず、依織は声をかけた。

「一哉、帰っていたんだね。ここにいる君を見るのは久しぶりだ」

「ああ、松川さんか……」

「本当に何日ぶりだろう。君は極力、外泊はしない主義かと思っていたよ」

「そうなんだが、やるべき事が集中していて移動時間も無駄にできないこの状況では、やむを

得ない」

「……そう」

 一哉は、いつものように年に似合わず落ち着き払った風情でくつろいでいたのだが、学園の

バザー会場の時より疲労の色が明らかに見て取れた。こんな一哉を前にしたら、絶対にむぎが

黙っていないだろう。

 最近の一哉が詰めているという逗子の葉山と、この家のある田園調布は、実際それほど遠距

離とは言えない。葉山の海岸あたりは鉄道の最寄り駅が遠く、日常生活には少々不便な地域だ

が、首都圏でくくれば、まだ通勤圏内だ。依織も何度かドライブの目的地にしたことがあるし、

もっと遠くから都心まで通勤しているサラリーマンはいくらでもいる。まして運転手付の社用

車で移動する一哉にとって、都心のオフィスよりは遠く乗車時間が長くても、終電やタクシー

代を気にかける立場でもなし、むぎという家政婦のいるこの家に帰宅して、身の回りの世話を

全て任せている方が、よほど楽なように思えたが、無駄を嫌う一哉のことだから、現状では葉

山で寝泊まりする方にメリットがあるのだろう。

 責任ある仕事をこなしている一哉に、ぬるま湯のような学生生活を送っているだけの依織が

口出しできるものでもない。

「仕事も大事だろうけれど、ほどほどにね。むぎちゃんが心配していたよ」

「わかってる」

 結局、意味のない天気の話のようなものだ。

「僕も何か飲むかな……」

 むぎにはバザーの後かたづけがあり、今日の夕食は遅くなるだろうから、それまで一服して

おくのもいいだろう。


 自室で手早く着替えた後、依織はキッチンに戻ってダージリンを淹れた。ティーカップを片

手にリビングへ来ると、一哉は、まだソファに座って新聞を読んでいた。

 とりたてて会話もなく、ぼんやりとお茶を飲む。久々に向き合う一哉に尋ねたいことがある

ような気がするのだが、いざとなると具体的な話として思い浮かばず、依織は一哉が新聞をめ

くる音を聞きながら紅茶を飲み干した。



 窓の外は、日が暮れたかと思うとあっという間に暗くなる。明かりを点けて、カーテンをし

め、夕方のニュースでも見るかと言って、一哉がテレビのリモコンを手にした時、玄関のあた

りで物音がした。

「ただいまーっ! ごめんね、遅くなって。帰りながらお買い物してきたし、すぐご飯にする

から!」

 彼女が現れると途端に、それまでモノクロームだった世界が生き生きと色づき動き出すよう

な印象がある。

「おかえり、むぎちゃん。急がなくていいよ」

 依織が座ったまま振り返って声をかけると、むぎが、すぐさま首を横に振る。

「ううん。あたしも、お腹ぺこぺこだもん。あっ! 一哉くん、今夜は夕飯食べてくれるんだ

よね?」

「ああ」

「おい、鈴原、これ冷蔵庫にしまえばいいのか?」

「ありがと。すぐ使うから、そのままでいいよ」

 麻生が買い物してきた食材を台所に運び入れながら話しかけてくるかと思えば、むぎの背後

からリビングへやってきた瀬伊が、彼女のおさげを引っぱって注意を引く。

「むぎちゃん、僕、ココア飲みたいな」

「ゴメン、瀬伊くん。夕飯作るから、ね。お茶は、また食後にしようよ」

「えー」

「一宮、てめぇ、片づけでも、買い物でも、やたら面倒かけて、帰ってきてまでワガママ言う

な。ガキじゃあるまいし、いちいち、ごねてんじゃねぇよ」

「そんなことしてないよ。むぎちゃんの側にいたいだけだもん」

「なら黙ってろよ。ったく……なんか飲みたきゃ、夕メシ前なんだから自分でやれ!」

「うるさいなぁ。羽倉には頼んでないよ」

 それまでの静けさが嘘のように一気に賑やかになった部屋で、一哉が大きく息をついた。

「このやかましさで、家に帰ってきたという実感がわいたぜ……。部屋で仕事をしているから

出来たら呼べよ」

 そう言って一哉は大きくのびをして立ち上がると、コーヒーカップをテーブルに残したまま、

リビングを出ていった。




 久々に五人の同居人がそろって箸を取った夕食の献立は和食で、白身魚のみぞれ煮や、はま

ぐりの茶碗蒸し、ほうれん草のごま和えといった外食で食べるには場所を選ぶようなものばか

りだった。心なしか一哉好みの総菜が並んだのは偶然ではなく、久々に家で食事をする雇い主

に、むぎが配慮したからだろう。

「バザーも無事に終わって良かったね。ほっとしたんじゃないかい?」

 にぎやかな食卓の会話の中で依織が聞くと、むぎはすぐさまうなずいた。

「うん。でもクリスマス行事としては、ミサとコンサートの方が本番だよね。あたし初めてだ

から、楽しみだな」

「まあ、年に一度のことだし、クリスマスらしい厳かな気分になれるかな。チャペルは本来、

ミサのための祈りの場所だものね」

「そっか……あたし祥慶で、まだ大きなちゃんとしたミサって出たコトなかったなー」

「けっこう退屈だぜ。コンサートもかったるくて眠くなっちまう」

「これだから野蛮人は困るよね」

 うんざりした様子の麻生を、瀬伊がすかさず混ぜ返す。

「クラシックは、だりぃんだよ。せめて、パーっと賑やかなのやってほしいぜ」

「学生の演奏じゃ僕はよけいイライラしちゃって眠れないなー。へた過ぎて頭痛がしちゃう」

「……そう言えば瀬伊くん、どうしてコンサートに出なかったの? ピアノの演奏依頼された

でしょ?」

 むぎが不思議そうに尋ねると、瀬伊は、わざとらしく、うーん、とうなって眉をひそめた。

「学園行事で大勢の前で、さらし者みたいに弾くのは、気が乗らないんだよね」

「さらし者って……そんなんじゃないよ。みんな、すごく聴きたいと思ってるけどな。遊洛院

さんや白崎さん、瀬伊くんにその場で断られちゃったってガックリしてたよ。そう言えば、瀬

伊くんって芸術選択も音楽じゃなくて美術だったっけ……」

「そりゃ普通校の授業で音楽選択したって意味ないし、無駄だもん」

「えーっ、そうなの?」

「そうだよ。美大を受験しようと思ってる生徒が、鈴原先生の美術授業受けても意味なかった

のと一緒」

 にっこり笑って辛辣なことを言う瀬伊に、むぎがむきになる。

「あたしの場合は全然、別でしょ! 臨時のうそっこ教師だったんだから」

「でも僕には、退屈で判りきってる高校音楽の授業なんかより、君のでたらめ美術の方が面白

かったからいいの。もっと言っちゃえば、音楽やるのに音楽学校へ行かなきゃいけない決まり

もないし」

「ふぅん……」

「君が僕専属のステージマネージャー役で、ずっと側にいてくれたなら出てもよかったけどね。

本番も僕の隣に座って譜めくりしてくれたりさ」

「え、ホント?」

 むぎが目を丸くしたところで、それまで黙って食事に専念していた一哉が、おもむろに瀬伊

の話をさえぎった。

「一宮、馬鹿言うな。他人の伴奏なんか引き受けっこないくせに、お前がステージで楽譜見て

演奏するわけないだろ。譜めくりなんか必要あるか」

「むぎちゃんが、かわいーくお願いしてくれたら、人の伴奏だって何だって弾いちゃうよ」

「……瀬伊くん、そういうコトは、もっと早く言ってよね。今頃、言われたって間に合わない

じゃん!」

「そりゃ、やっぱり家で君のためだけに弾く方がいいもん」

 瀬伊の熱心なアプローチの意図が正しく伝わっているようには見えないが、続けざまに浴び

せるむき出しの好意は、さすがに感じるものがあるのだろう。彼女の頬が薔薇色に染まる。

 そんなむぎを眺めながら同居人全員で囲む食卓は、決して居心地の悪いものではなかった。





 夕食後、むぎは家政婦としてせっせと仕事をこなす。男達はそんな彼女に用を頼んでもいい

のだが、実行委員でオーバーワーク気味のむぎを、これ以上わずらわせては、と、依織は個人

的な用事を頼むのを控えていた。

 部屋で読書をして過ごし、深夜になる前のほどよい頃に入浴を済ませる。その風呂上がり、

自室へ向かう時に、かっぽう着姿で2階廊下の床をモップがけしていたむぎに声をかけられた。

「あ、依織くん、お風呂上がったんだね。何か飲みものでもいる?」

「いや、掃除の途中だろう? 構わないから仕事を……」

 言いかけた途中で上着のポケットの中から依織の携帯電話が鳴った。

「あ……電話」

「むぎちゃん、ちょっと、ごめんね」

 一言あやまって電話に出る。かけてきた相手は弟の皇だった。松川の跡取りとして、依織の

いなくなった後、役者として精進を続けている皇は、来年の初春歌舞伎で演じる初役の芝居の

ことで、すでに歌舞伎を辞めた兄に相談してくるくらい悩んでいるらしい。できるだけの助言

はしてやりたいという気持ちと、正直どこかうとましく思う気持ちがないまぜになり、固くこ

わばった口調になるのは否めない。

 むぎが驚いた顔をして掃除の手を止めたまま依織を見ているのに気づき、依織はそのまま自

室に移動することなく「また後で」と強引に電話を終わらせた。

「切っちゃって、いいの? えーと、皇くんだったでしょ」

 何度かこの家にも依織を尋ねてきた皇のことを、むぎは知っていて、世間知らずな弟が彼女

に無礼な言葉を浴びせやしないかと、依織は少々警戒していた。好奇心が強くて人好きな少女

は、誰にでも心やすく近づこうとしがちだ。

「ああ。後で、ゆっくりかけ直すからいいんだ」

「そっか。じゃあ、お茶でもいれてこようか?」

「掃除が終ってからでいいよ」


「鈴原ー! ちょっと下、来てくんねぇか?」

 一階の階段下から麻生が大声で呼んでいる。むぎはモップを手にしたまま手すりから顔を出

して答える。

「なぁに? 急ぎ? もうすぐこっち終わるから、それからじゃダメ?」

 廊下でこんなに声を張り上げていたら、一哉がうるさがって怒りそうだ。

 かすかに瀬伊の弾くピアノの音も聞こえていて、確かな生活感が家中に満ちていた。それは

依織がこの家にむぎがやって来て初めて味わったもので、できることなら壊したくないと願わ

ずにはいられない。微笑ましいのに、なぜか切ない気持ちが入り交じるのは、たぶん常に物事

を後ろ向きに捉えがちな依織の性格のせいだろう。

 依織は、弟との話を済ませたら、読書の続きを楽しむつもりで、部屋へ戻った。






 結局、その夜、依織は自室から出ることなく過ごした。

 買ったばかりの海外ミステリーは、なかなか面白く、ひと晩で読破してしまい、眠りについ

たのは日付を過ぎてだいぶたってからだ。おかげで翌朝は、元々眠りの浅い依織にしては起床

が遅くなり、ベッドから起き上がったのはもうすぐ10時になろうかという時刻だった。

 学園に登校する平日こそ、そろって朝食を取っても、祭日の朝はゆっくりでかまわない。

同居人たちも、休日はそれぞれの気分で起床や食事の時間をずらしたりする。家政婦のむぎは

休日でも朝の早い一哉に合わせて支度をし、あとはその時によってまちまちに、合間に仕事を

したりしながら世話をしてくれていた。

 依織が身支度を調え、洗面所を使おうと部屋を出ると、廊下の突き当たりにある一哉の部屋

のドアが半開きになっているのが目に入った。

「一哉……?」

 気になって、開いてる戸を軽くノックして中に入ると、部屋の主は不在で、ベッドメイクを

済ませたのところなのか、丸めたシーツを胸に抱えたむぎがベッドの前に立っていた。

「おはよう、むぎちゃん。……掃除中でドアを開けていたんだね」

「え? あ……あ、依織くん……おはよう。……うん、そう……掃除……を、ね……」

 急に声をかけられ驚いたのか、むぎがしどろもどろに答える。なんだか様子がおかしい。

「ごめん。驚かせてしまったかな。……どうかしたのかい?」

「……一哉くん……いないの……。黙って……何にも言わないで……明け方に出かけちゃった

みたい……朝ご飯、食べてってね……って……言ったのに……あたし……」

「ああ……せっかくの休日だし、君が実行委員で大変だと知ってたから、一哉も気をつかった

たんじゃないかな。明日は終業式やクリスマス・ミサもあるし、夜には帰ってくるだろう」

「わかんない……こんなコト初めてだし。……会社に行く時は、いっつも、あれしろ、これし

ろって…………」

「むぎちゃん?」

 依織の言葉もろくに聞こえていないらしい上の空の彼女は、ひどく不安定に見える。

 くしゃくしゃに丸めたシーツをぎゅっと抱え込んでうつむく少女は、まるで親に置き去りに

された幼い子供のようだ。

「一哉は日本で一、二を争う忙しい高校生だろうからね。君が作ってくれる明日の夜のご馳走

を食べ損ないたくなくて、今日は無理を通したんだろう。夕食までには、きっと連絡してくる

だろうから、そんなに心配しなくても大丈夫だよ」

 むぎが家政婦としてこの家で働き始めてから、食事がいるかいらないかを前もって連絡する

という決まりは、不文律になっている。やむを得ない事情がない限り、律儀な一哉がその約束

を破るとは考えにくかった。

「うん……。明日のコトは……別にいいんだけど……一哉くん、すごく疲れてる感じで……何

だか体調、悪そうだったから……。大丈夫かな……」

「お姫さまをこんなに心配させて、仕方のない男だね、一哉も」

 依織は苦笑して、むぎの肩をポンポンと軽くたたいた。

「ここの片づけが一段落したら、トーストでも焼いてカフェオレをいれてくれるかい? 久し

ぶりに朝寝をしたせいか、この僕が朝からめずらしく空腹なんだよ」

「あ! ゴメンね。すぐ用意するよ」

 具体的に朝食の支度をお願いすると、はっと我に返ったようにシャンとしたむぎは、依織と

共に一哉の部屋を後にした。








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