憬文堂
遙の書棚 Fullkissの書棚 いろいろ書庫 憬の書棚 刊行物ご案内 お食事日記掲示板 web拍手 メールフォーム


 蓋のない箱 

仲秋 憬




                    <17>




 門から別荘の玄関までの短い石畳を足早に歩く。常緑樹の陰になっていた屋敷が姿を現した。

 それはまるで横浜や神戸の異人館のようだ。御堂の別荘でなければ文化財指定でも受けそう

な作りに見える。おそらく名のある建築家の作品なのだろう。

 古風な洋館の正面玄関にはクラシックな呼び鈴もついていたが、依織はそれを無視して、く

るみ材らしいどっしりとした両開きの扉を押す。手入れされている扉は、重さを感じさせず、

あっさりと開いた。



 靴を脱ぐ必要のない本物の洋館に入ると、玄関ホールの床はモザイクタイルが美しく精密な

模様を描き出しており、アールヌーヴォーの曲線を持つ梁や柱、階段の手すりと相まって、工

芸品の中に入り込んだ心地がする。

 左右にのびている廊下の先には居間やテラスがあるようだ。

 正面に見える階段を駆け上がるかどうか、一瞬、躊躇する。むぎが屋根裏にいるなら、上を

目指すべきだろうが、一哉の思惑がわからない。



「俺に話があるんじゃないのか?」

 東に伸びた廊下の突き当たりの扉から、一哉が姿を現した。

 スーツ姿ではなく、物の良さそうな濃紺のハイネックのセーターに黒のスラックスという、

明らかに、ずっと家にいたらしい、くつろいだ普段着だった。

「ああ。そうだよ」

「ならば、こちらへ」

 依織は、ちらりと階段の上に視線をやってから、物思いを振り切るように向き直り、一哉に

促されるまま奥の間へ進んだ。


「むぎちゃんは?」

 移動しながら尋ねてみても、一哉は答える気は無さそうだった。

「……松川さんは、あいつに話があるのか? それとも俺か?」


 明るいサンルームのようなテラスにつながるリビングに通される。

 窓の向こうには明るい湘南の海が広がっていた。

 リビングのテーブルを中心に別荘のリビングに似つかわしくないノートパソコンやファイル、

カタログや企画書らしき書類などの印刷物の数々が散らばっている。明らかに一哉はここで仕

事をしていたのだろう。

「出かけているのだとばかり思っていたよ。さっきインターホンで、むぎちゃんはそう言って

いた」

「あいつに知らせると仕事にならない」

「むぎちゃんが君の仕事に差し障るのかい?」

「……そのへんに適当に座ってくれ」

 一哉は依織の質問をきれいに無視した。



 革張りのソファの上から新聞をどかして依織が座ると、一哉はその向かい側のいかにも主人

のための一人がけの椅子に腰を下ろした。

「コーヒーでも?」

「結構。……むぎちゃんが淹れてくれるなら飲みたいけれど」

 彼女がいると知って依織が乗り込んできたことをわかっているはずなのに、一哉に動揺の色

は一切見られなかった。それは依織の言動が一哉の予測を越えていないという事であるのだろ

うが、仮に不測の事態が起こっていても、一哉は内心が表情に出るような人間ではない。そう

いう風に育てられた御堂の後継ぎなのだ。

 彼の前で自分を必要以上に繕っても無駄なのはわかっているので依織は単刀直入に尋ねた。

「一哉。むぎちゃんが、なぜここにいて帰ってこないのか教えてほしいな。彼女はイギリスに

行ったんじゃなかったかな。君は確かそう言っていた」

「状況が変わってしまったからな」

「それはどういう意味だろう。そもそも、ここで臨時家政婦をさせているなら、どうして今、

出てこない? 君が閉じこめていると判断するしかないよ」

「俺がむぎを閉じこめる……ね」

「一哉。僕を怒らせたいわけじゃないなら、はぐらかすのは無意味だよ。なぜ彼女は学校が始

まってもここにいる? なぜ、こうして訪ねて来たのに出てこられない? あのむぎちゃんが、

ろくに返事もせず、姿を見せないなんて異常じゃないか。あの子が具合の悪い君について葉山

へ行ってしまった時、家においていったメモを見なかったのなら失敗だったね。あれを読んで

いたら君が無理にそうさせているとしか状況的に考えられない」

「それでも、あんたは今日まで動かなかった。違うか? 松川さん」

 一哉は、まるで依織の方に非があるとでも言いたげな態度だ。

「あの日、葉山に向かう必要があった俺についてきたのは、あいつの意志だ。勝手に車に乗り

込んで来たんだぜ? そして、いまだここを出ないのも」

「君が、そうなるように、し向けているんじゃないのかな。ごまかしは無しだよ。もし、むぎ

ちゃんの意志だと言うなら、なぜ君が彼女をイギリスへやったと僕たちに嘘をつく必要がある

んだ。彼女の口から僕たちにしばらく帰れないと連絡がないのは、どうしてだ。おかしいじゃ

ないか」

「あいつが馬鹿なんだから仕方がない」

「なんだって?」

 依織は一瞬、一哉の正気を疑った。

「むぎちゃんは、この別荘で、どうしているんだ? 彼女は部屋から出られなくて、持ってき

た荷物も、どうやら衣服さえ、まともに身につけてない状態みたいじゃないか! その状況を

作ったのは君だろう。あの子が拒否できないように追い詰めて……。それを俺が見逃すと思う

かい? 一哉、どうして──」

 依織の激昂に一哉は不自然に笑った。

 まるでわざと相手の怒りを煽るような振る舞いに、依織は絶句する。

「どうして俺がむぎを軟禁してるのかって? ……馬鹿馬鹿しいな。閉じこめて思い通りにな

るなら、もっと早くに実行している。それができない相手だから手を焼くんじゃないか」

「……一哉……」

「本当にむぎが、この葉山の別荘から……俺から逃げようと思えば不可能じゃない。あいつに

だけはこの屋敷もノーガードだ。着るものがないというなら、俺のシャツでもシーツでもタオ

ルでも引っかけて、扉が開かなければ、天窓をふさいでいる窓と締まりきっている薄板の雨戸

くらい椅子でもたたきつけるか蹴破るかすれば壊せるさ。そうして屋根と庭木づたいに飛び降

りてでも外へ出て、最初に会った誰かに助けを求めればいい。それくらい、あいつならたやす

いとは思わないか? 後は二度と会わない覚悟をすればいいだけだ。あいつが本気で決心した

ら、俺には追えない。……あいつも、それをわかってる」

「なら、どうして、こんな事になっているんだ!? 一哉なら、もっとかしこい穏やかなやり

方は、いくらでもあるじゃないか。麻生や瀬伊はまだしも、むぎちゃんを精神的に追い詰める

必要が、どこにある? 身ぐるみ剥いで閉じこめておくなんて犯罪だ!」

「犯罪ね……。それが強制されたものなら否定はしないが……」


 一哉は妙に嬉しそうで、それが依織に不安を抱かせる。


「松川さん、あんたはひとつ勘違いをしてる。むぎが俺に閉じこめられている? そうじゃな

い。囚われているのは俺の方だ。むぎじゃない。この御堂一哉だ」

 一哉は迷いも見せずに断言する。

「あいつに出会わなければ、俺はこんな思いをせず、当たり前に御堂を継いで、しかるべき時

期が来たら一番条件がよくて肌の合いそうな女を適当に選んで結婚して、退屈ながらも波風の

ない人生を歩んでいただろうな。不安と焦燥感に苛まれ、嫉妬心に苦しみ続けるとわかってい

るのに、自分のすべてを引き替えにしても欲しいものが、この世に存在するなんて夢にも思わ

ずに。かけがえのないものが手に入らない恐怖で眠れなくなる夜も知らずにすんだ。恋愛は、

俺にとって余暇のゲームか、絵空事のままで、結婚は義務としての通過儀礼とでも感じるのが

関の山だ」

「それは……」

「松川さん、あんたは経験者だろう? 以前、恋愛で傷ついたから、もう二度と深入りしたく

なくて逃げたんだな。その恐怖も今の俺には理解できる。……でも、もう遅い。あいつが俺を

選ぶしかないように、俺が追い詰めてるって? そうじゃない。俺があいつしか選べないよう

になってしまったんだ。元気で自由な小鳥を蓋のない箱に入れたって無意味だ。いつだって飛

び出せる。動かないのは好きこのんで中に留まっているからだ。他に選択肢はない。俺の自覚

が少し先だっただけで、向き合う立場は五分五分だ。それだけのことさ。他人に理解してもら

えなくても一向に構わないぜ」

 不安を口にして尚、一哉のこの自信は、どうだろう。依織は思わず息を呑む。

「俺はここまで何度もむぎに提示した。あいつ一人でよく考えて、自分の意志で選べるように。

でもあいつは馬鹿だから、いつも他に気が向いてしまうんだ。他人のことばかり心配して、人

のために本気で怒ったり喜んだりするのが先で、利己的になれない。自分のことだけ考えろと

言ったのに気が散るばかりで……。放してやる覚悟だって俺はしていた。距離を取ろうとした

こともある。上手くいかなかったが」

 一哉はふいに、どこか口惜しそうな年相応の少年の面差しを見せた。

「仕方ないから嫌でも考えられるような環境を作ってやったら、はまったのは俺だった。あい

つじゃない。──わからないか? あいつに言わせれば、人のことばかり考えてるのは俺の方

なんだそうだ。笑えるだろう? あいつと俺は同じだ。それを確かめるために、ここから動か

なかっただけだ。自分自身のことを考えられないなら、俺のことを考えてもらう。離れられな

いんだから他に選びようもないさ。二度も三度も譲歩するつもりもない」



 むぎが彼を選んでいたのだ。一哉に一方的に選ばれたのが、むぎだったわけではない。

 お互いが、お互いを選んでしまった。


 依織がむぎを追いかけて来たのは、単純に心惹かれていたからだ。

 彼女が依織の目の前で傷つく有様を見たくはなかった。

 むぎの恋が、ゆがんだ間違いではないと信じたい。

 しかし幸福感より痛々しさばかりが胸を突くのは何故なのだろう。


 凄絶な存在感に息苦しさを覚えつつ、依織は目の前の一哉を見つめた。

 もうかける言葉も浮かばない。



 両親を亡くし、行方不明の姉の手がかりもなく、八方ふさがりに近かった彼女に手を差しの

べることができたのは、一哉しかいなかった。

 御堂の頂点に立つべく隔絶されて育った一哉を本当の意味で変えることができたのも、彼女

しかいなかった。

 惹かれ合うのは必然だったと言うべきだろうか。

 それが、どうして自分でないのだろうと呪わしく思うのも恋の始まりだ。



 最初に何かが起こっていることに気付いたのは麻生だった。

 麻生はおそらく本能で感じ取っていて、偶然 ──一哉の故意であったかもしれないが──

それを確かめる場に居合わせたのだ。

 予感だけなら瀬伊の方が早かったし、依織も何も感じていなかったわけではない。

 ただ、一哉に反感を抱いていないという点で見逃していた予兆があったのだろう。

 それを認めれば楽になれる。

 自分の一番揺るぎないものを認めて選ぶ勇気を依織は欲っしていた。





 気がつくと、明るかった窓の外が、ずいぶん暗くなっていた。

 黄昏時の輝きはなく、海の色も空の色も鉛色にぬりこめられて、遠く見える波濤すらも灰色

に沈んでいる。

 部屋は十分に暖かいはずなのに、足元から立ち上る冷気を感じたが、依織は動けなかった。

 先に口を開いたのは一哉だった。


「顔色が悪いぜ。松川さん。あんたも行った方がいい」

「僕が邪魔かい?」

「……別に。むぎを今、田園調布の家に戻しても、どのみち春には日本を離れる」

「海外に?」

「ああ。何をするにもアメリカが一番物事がはかどるんでね。俺も実績を作りたい。直に十八

になるし、そうすれば誰にも何も言わせない。あいつも連れて行くから、あの家は空き家にな

る。家政婦も必要ない。松川さんは歌舞伎の舞台に戻るんでしょう?」


 それは何でもない当然の確認のように聞こえた。

 選ぶべき道は決まっている。

 依織もまた、選んでいたのだ。


「──おそらく……ね」

「あいつも、それを望んでいる」


 決定的な一言を一哉は口にした。


 麻生も、瀬伊も、こうして遠く旅立ったのだ。

 依織に選択の余地はない。ただ見ていただけの依織には。


「しばらく東京を離れるよ。安心していい」


 依織の返事を聞いて浮かべた一哉の満足げな微笑は、依織の胸に鮮やかに焼き付けられた。

 おそらく未来永劫、忘れることはない。

 どうせ胸に刻むなら花のようなむぎの笑顔を何より見たかったけれど、それはもう記憶の中

で思い出すだけになるのだろうか。



 二人きりの世界など幻想だ。しかし彼らは、二人であることを選んだのだ。

 彼女がそれを望むなら、誰も逆らえるものか。恋は時として、ひどく独りよがりだ。

 依織に箱の底を正視する勇気はないが、この恋をなぞる演技は、たやすくできるようになる

に違いない。永遠に彼を捉えたものを遠くで想う、そんな人生もある。

 何を見聞きしていても最後にこうして芝居のことを考えてしまう依織は役者としてしか生き

られない。むぎと一哉はそれを知っているのだ。



 あの家はずいぶんと居心地の良い箱庭だった。

 一哉が用意してむぎが作り上げた、雛がまどろむ巣箱のようなものだったのだ。

 いずれ巣立つ日は来る。閉じられた蓋など、最初からそこにはなかった。



 外では音もなく雪が舞い始めていた。

 ふと思い出す。

 むぎのために用意した、雪の結晶のイヤリングを、依織は自室に置いたままだった。

 あれは、どんなにか彼女によく似合っただろうに──。



「僕は、むぎちゃんに、また会えるかな」

「会いたがると思いますよ。舞台復帰が決まったら桟敷に招待してください」

 微笑む一哉の表情を、やはり美しいと思う依織は、自分の業を知る。

「……忘れないよ」

 そう告げて一哉に背を向けると、依織はゆっくりと閉ざされた部屋を出て行った。









                    【 終 】



 戻る


遙の書棚 Fullkissの書棚 いろいろ書庫 憬の書棚 刊行物ご案内 お食事日記掲示板 web拍手 メールフォーム
憬文堂