憬文堂
遙の書棚 Fullkissの書棚 いろいろ書庫 憬の書棚 刊行物ご案内 お食事日記掲示板 web拍手 メールフォーム


 蓋のない箱 

仲秋 憬




                    <2>




 むぎがいると、まず、御堂邸の食卓が一変する。

 それが家政婦の仕事だと言ってしまえばそれまでだが、まだ十六の少女としては驚くほ

ど彼女の料理の腕前は確かなもので、それなりに口のおごっている育ちのいい四人の男達

の食生活を豊かにできる能力があった。

 だから依織は、彼女が帰ってきた当日の夕食は食べ損なった分、翌朝の朝食を少なから

ず楽しみにしていた。

 無粋に目覚ましなど鳴らさなくても意図した時間に起きることができる依織だが、今朝

はそれよりも早く目が覚めてしまった。


「まいったな。これじゃ遠足前の子供だ」


 しかし、この時間なら彼女はもうキッチンにいるだろう。朝食にはそれほど時間をかけ

ないとしても、朝から炊きたてのご飯に出汁を取ったみそ汁や焼きたての魚を食卓に並べ

ようとすれば5分や10分では作れない。



 依織は手早く身なりを整えて、階下のキッチンへ顔を出すと、案の定むぎが朝食のした

くをしていた。扉を開ける音で、彼女は振り返り、まぶしい笑顔を見せた。

「あっ、おはよう依織くん、早いね!」

「おはよう。いい匂いだね」

「えー、普通の朝ご飯だよ。もうすぐ、できるから」

「久しぶりのむぎちゃんのご飯、楽しみだな」

「ほんと? うれしいな」

 みそ汁の鍋を軽くかきまぜながら、彼女は、どこまでも素直だ。

「鈴原、小皿と箸、並べたぞ」

 ダイニングから麻生が顔を見せた。

「おや……麻生、朝からむぎちゃんの手伝いかい」

「なっなんだよ。悪いかよっ。ちょっと時間あったから少し手ェ貸してただけだろ!」

「悪いなんて言ってないよ。そう……この家じゃ麻生が一番、むぎちゃんと台所に立つこ

とが多いようだしね」

「た……たまたまだっ!」

「いいことじゃないかな。むぎちゃんは試験勉強もあって大変だもの。夕べは何時に寝た

の? 一哉にしごかれていたんだろう?」

「そうなの! 一哉くんてば二言目にはバカとか言って、テキストでバシバシ頭たたくし

ねー。ヒドイでしょ?」

 おたまを握りしめて、むぎが力説する。

「スパルタ式か。一哉なりに、むぎちゃんのためにしているんじゃないかな」

「それは……わかってるんだけどさ。言い方ってものがあると思うんだ」

「おい、魚、焦げねーか?」

 真横から麻生に指摘され、むぎが飛び上がる。

「え? わわっ。ちょっと待って……っと」

 グリルをのぞくむぎと麻生に、ふいにそれまでこの場になかった別の声がかけられた。


「ふーん……ゴキブリ亭主とその妻が仲良く朝食作りって感じ?」


 麻生は自分がからかわれて途端に反応する。開けっ放しの扉から顔をのぞかせていたの

は瀬伊だ。

「一宮てめぇ……何だよ、ゴキブリ亭主って」

「あれー、知らないんだ。男のくせに女房の仕切る台所でうろちょろして手を出す旦那を

ゴキブリ亭主って言うんだけど」

 瀬伊がけろっと説明すると麻生はますます逆上する。

「だから誰が亭主だよっ! 男が台所にいてどこが悪い。板前だってコックだってプロは

男の方が多いだろ。それをゴキブリぃ!?」

「僕が作った言葉じゃないし。それとも羽倉、料理人目指すの? ハスラーよりは可能性

あるかもね」

「んだとぉ? ゴキブリみたいにウザイのは、てめぇの方だろ」

「もーっ、食べ物の前でゴキブリゴキブリ言わないでよ!」

 切れかけそうなむぎが振り返って叫ぶと、更にダイニングから、この家の主が現れて一

喝した。


「やかましい!! 朝から騒ぐな。この馬鹿!」


「──おはよう、一哉」

 隅に立っていた依織がおだやかに挨拶すると、一哉はあきれ顔になった。

「松川さん……あんたがいて何で……」

「いや、こんな雰囲気は久しぶりだと思ったものだから」

 今まで御堂邸の朝のキッチンに同居人が勢揃いしたことなどあっただろうか。

 それもこれもみんな彼女が戻ってきたからだ。

 一哉は、朝から大きなため息をついて、むぎを見据えた。

「……飯は?」

「はぁーい、もうできました! ご飯よそうから座って座って」

 男達の騒ぎをよそに朝食を作り上げた彼女が、全員をダイニングテーブルへ追い立てた。



「本物の亭主は一哉だったね。残念」

「ハァ?」

 ダイニングに向かいながらの瀬伊のつぶやきに、側にいた麻生は要領を得ない様子だ。

「亭主関白の父って今時、流行らないよねぇ」

「一宮……お前がおかしいのは、いつものことだから、どうでもいいけど、よけいなこと

言って鈴原つつくなよ」

「つついてるつもりないし僕の自由だよ」

「……迷惑なヤツ」

 心底、いやそうな麻生を見て依織は笑ってしまった。

 一哉は彼らの様子に一切構わず席に着くと、むぎに給仕をうながして食事になった。





 結局、誰ひとり寝過ごすことなく同居人勢揃いとなったにぎやか朝食をすませ、男四人

は、皆、祥慶学園へ登校するために家を出る。

 編入試験をクリアするまで、むぎは留守番だ。一哉は玄関先で見送るむぎに指示をする。

「家事は正午までにして、午後はしっかり勉強してろ。帰ってからテストするからな」

「はーい」

「僕、帰ってきたら今日は紅茶シフォンが食べたいな」

「わかったよ、瀬伊くん。作って用意しとくね」

「むぎちゃん、留守中気をつけて」

「じゃーな。しっかりやれよ」

「まかせてよ! 行ってらっしゃい!」

 にこにこと送り出すむぎに、男達の機嫌も上々だ。



 祥慶学園は御堂邸から近く、ブルジョアと言っていい彼らでも徒歩通学を選ぶくらいの

距離にある。バイクで通う麻生は、またたく間に姿が見えなくなり、残りの三人はぎりぎ

り会話が可能なくらいの位置関係を保ったまま、学園へと向かう道を歩いた。普段は家を

出る時間を合わせることもない彼らにとってはかなり珍しいことだ。

「松川さん今日は車じゃないんだ? 一哉も送り迎え呼ばないの?」

「天気がいいしね」

「今日はな」

「へぇ」

 瀬伊は大して興味があるわけでもなさげに、すぐ話を変えた。

「それにしても、むぎちゃんさ、四ヶ月以上も学生生活にブランクがあるのは正直きつい

よね。編入試験に美術は関係ないんでしょ」

「死に物狂いで勉強すれば何とかなるだろ。正真正銘の馬鹿じゃなければな」

「一哉もバックアップするし? ま、バカな子ほどかわいいって言うもんね」

「……一宮。何が言いたい?」

「別に〜。あーあ、いっそまた美術教師にしてくれたら良かったのに。一哉がその気にな

れば、それくらい簡単でしょ」

「お前の退屈しのぎのために、あいつに今更そんな真似させるか」

「えぇ? 最初に退屈しのぎでむぎちゃんを先生にしたの一哉じゃない」

「僕はむぎちゃんは普通に生徒として学校に通った方が彼女のためにいいと思うけれど。

瀬伊もわかっているんじゃないのかな」

「あなたのそういう訳知り顔なところが嫌いだよ、松川さん」

「それは、どうも」

 必要以上に反応しなければ瀬伊は、すぐ興味を移すのだ。依織はそのまま何気なく流し

てみせた。

「ま、いいか。先生になるより後輩の方が一緒に行動できるもんね。話をしたい時に、い

ちいち隠れたり言い訳したりしなくてすむしさ。同級生だったら修学旅行も一緒に行けた

のになー。一哉、いっそ、そうしてくれない? 教師にするよりはラクでしょ」

「あいつに学年をスキップする学力があると思うのか」

「そこは一哉の力で」

「誰がするか。そんな無駄なこと」

「ざーんねん。でもSeniorの一哉と松川さんよりは一年長く一緒にいられるし我慢しよっ

と。むぎちゃん無事に合格するといいな」

「あの子は頑張りやさんだし大丈夫だろう。他ならぬ一哉が勉強を見てあげているしね」

 一哉が無言で軽く肩をすくめる。


 この時、依織はむぎの祥慶編入と共に過ごすことになるだろう学園生活を全く疑ってい

なかった。







 戻る      次へ 


遙の書棚 Fullkissの書棚 いろいろ書庫 憬の書棚 刊行物ご案内 お食事日記掲示板 web拍手 メールフォーム
憬文堂