憬文堂
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 蓋のない箱 

仲秋 憬




                    <1>




 秋も深まる十月。

 田園調布の御堂邸から家政婦がいなくなって十日が過ぎた。誰もまともに家事をしない

ので、せっかくの豪邸も無惨なものだ。彼女が来る前、ほんの四ヶ月ほど前と同じ状態に

戻っただけなのに、この家で暮らす四人の男はどうしてもそれを受け入れられずにいた。

 各人タイプは異なるものの、顔良し、姿良し、家柄良しで、名門祥慶学園でそろってラ・

プリンスと祭り上げられている彼らに血縁関係は無く、友人ですらない。それぞれの成り

行きと事情で同居している赤の他人の四人を、短い期間で疑似家族のようにしてしまった

のは、家主である御堂一哉が唐突に連れてきた鈴原むぎという少女だった。

 彼女はたった十五で突然の両親の死を一人で受け止め、行方不明の姉を探していた。手

がかりが祥慶学園にあると知って校門の前でうろうろしていた彼女を、偶然見かけて拾っ

たのだと一哉は言う。彼は少女を御堂家の住み込みの家政婦として雇い、その上何と生徒

ではなく、産休に入った美術教師の代理になる臨時教師として祥慶学園へ入れた。

 なぜ御堂グループの後継者である一哉が初対面の少女にそこまでしたのか、その理由を

知るものはいない。おそらく一哉本人もわからないのではないかと、同居人の一人、松川

依織は思っている。

 突然、無理難題を突きつけられ、解決の糸口もろくに見えないまま、昼は女教師、夜は

家政婦の生活を送りながら、それでも彼女は負けなかった。辛くないはずはないのに、ど

こまでも前向きで明るく懸命に仕事をこなし、事件の真相を探ろうと日々頑張る少女を見

て、無関心でいるのは難しい。

 むぎは実際、よくやった。その彼女が苦労の末、ようやく再会した姉との生活に戻った

のだ。彼らがそれを止めるわけにはいかなかった。たった一人の家族を捜し出すために必

死だった彼女がようやく取り戻した平穏な幸せを壊す権利は誰にもない。

 しかし、たった十日で、あちこちほこりまみれな上に散らかり放題の御堂邸の惨状は、

むぎがいた頃の居心地の良さを知ってしまった後では、目を覆いたくなる酷さだった。


 彼女がいなくなった日から、すでにこの家の食卓を一同で囲むことなど無くなっていた

彼らだが、通学前の朝食時はダイニングで顔を合わせることもある。 

 調理の必要のないシリアルかパン、ヨーグルトあたりか、何も食べなくてもコーヒーく

らいは口にする。さすがに、そんな時まで無言でいることはなかった。


 その日の朝、たまたま四人そろった同居人達を前にして、御堂一哉が告げた。 

「また家政婦を雇うことにした」

「家政婦を?」

 この家の最年長である松川依織が問い直す。

「ああ」

「俺、反対。……そもそも最初、俺たちの面倒見切れる奴なんかいないって言ってたのは

御堂、お前だろ」

「そうだね……どんな有能な家政婦さんが来ても……むぎちゃんみたいにはねー」

 羽倉麻生の言葉に、いつもはめったに頷かない一宮瀬伊も同意した。

「じゃあ、お前が必要最低限の家事はするとでも言うのか? 羽倉」

「それはっ! 無理だけどよ……でも」

「あてがひとつある。おそらく今日、決まる」

「家主の一哉が決めたなら僕たちに拒む権利はないよ」

 落ち着いた様子で依織は承知する。

「生活に干渉しなければ文句はないだろう。俺が雇った専用家政婦だとでも思って無視し

てくれたらいい」

「……一哉?」

 瀬伊が口をつけていたカフェオレのカップを置いて一哉を見た。

「話はそれだけだ。最後に家を出る奴は忘れず鍵をかけてくれ」

 そう言って一哉は一方的に話を打ち切り、その場から去った。

 彼が玄関を出る物音を聞きつつ、瀬伊がつぶやいた。

「一哉、変じゃなかった?」

「そうか? いつも通り、偉そうだったろ」

 自分の使った食器を流しに運ぼうと立ち上がった麻生が何気なく答えるが、瀬伊は納得

しない。

「態度じゃないよ。……あの言い方、何か引っかかるんだけど」

「家政婦のことかい? トラブルさえ無ければ、掃除だけでも任せれば楽じゃないかな。

僕もそろそろ出かけるよ」

 依織は後輩二人を置いて家を出た。

 新しい家政婦が来ても、むぎの代わりには絶対なれない。朝晩きっちり食事を用意して

もらい全員そろって夕食の箸を取ることもないだろう。

 ならば物事は事務的にあたるに限る。

 

 そう考えた依織が夜も9時をまわろうかという時分に帰宅すると、大きな驚きが待って

いた。玄関を開けて靴を脱いだところでリビングから飛び出してきた出迎え。

「お帰りなさい、依織くん」

「むぎちゃん! 遊びに来ていたのかい? 前もって教えてくれたら、早く帰ったのに」

 むぎに続いて、ひょいと廊下へ出てきた瀬伊が口を挟む。

「男ばかりの家に遊びに来て、普通こんな時間までいるわけないでしょ。松川さんもヤキ

がまわったんじゃないの?」

 茶々を入れる瀬伊に構わず、むぎは笑顔で依織をリビングへ先導した。

「あのね、またこの家で家政婦させてもらうことになったの。よろしくね、依織くん」

「住み込みでかい? お姉さんはいいの」

「あ……お姉ちゃん、実は急にロンドンに行くことになっちゃって……それでね、家じゃ

一人だし、ちょうど一哉くんが雇ってくれるって言うから、お世話になろうかなって。今

度は家政婦だけだし、お仕事、しっかり頑張るよ!」

「ロンドンに……それで一哉が。……なるほどね。いや、君がまた戻ってきてくれて嬉し

いよ。大変だったろう? 掃除」

「あはは。まぁね。でも最初にこの家に来た時ほどじゃないから」

「違いない。ああ、じゃあ瀬伊はむぎちゃんの作った夕飯が食べられたのか」

「そういうコト。ねー、むぎちゃん」

「瀬伊くんてば、くっつき過ぎ!」

 リビングのソファに座った依織を前にして、むぎの背中にぴったり張り付こうとした瀬

伊を、彼女は素早く身をかわして避けた。避けられた瀬伊はそれでも笑っている。

「惜しいことをしたな。外食してきたのをこんなに悔やんだのは久しぶりだよ」

「またまた! どうせ明日から毎日作るよ。取りあえずお茶、淹れる? カレーもあるよ。

麻生くんとさっき作ったの」

「早速カレーだったのか。麻生は?」

「知らなーい」

「瀬伊に聞いてないよ」

「たぶんお風呂じゃないかな」

「面倒かけるね、むぎちゃん」

「ううん、これもお仕事だもん。緑茶? 紅茶? コーヒーの方がいい?」

「そうだな……」

 依織が何を頼むか返事をする前に、リビングに家主の一哉がやってきた。

「松川さん、帰ってきてたのか」

「ただいま。むぎちゃん復帰したんだね」

「ああ。事後承諾になってすまないと思ってる」

「いや。彼女なら大歓迎だし問題はないよ」

 一哉は依織にうなずいてから、むぎを見た。

「おい、勉強。始めるぞ」

「え、でもまだ依織くんにお茶も淹れてないし」

「僕ならかまわないよ。むぎちゃん」

「祥慶の編入試験が終わるまでお前は家事より勉強優先だ」

「えー、それって何か違わない?」

「俺が見てやろうって言うんだ。つべこべ言うな」

「むぎちゃん、祥慶入るの?」

「その方が都合がいいからな。そんなわけでしばらく勉強させる。家事の方はできる範囲

になるが、了承してくれ」

「わかったよ。むぎちゃん頑張って。僕が手伝えることがあれば、いつでも声をかけてね」

「ありがとう、依織くん」

 むぎがはじけるような笑顔で礼を言う。

「ほら、いくぞ! 時間を無駄にするな」

「わかってるって。引っ張らないでよ、もう!」


 子どもの言い合いみたいなやり取りをしつつ、一哉に引きずられるようにして二階へ追

いやられたむぎの軽やかな足音を聞いて、依織は無意識に微笑んでいたらしい。


「嬉しそうだね、松川さん」

「そうだね。でも僕だけじゃないだろう?」

「まあね。羽倉なんか、ずっと、そわそわしちゃってさ。一哉も案外わかりやすいったら」

 肩をすくめてくすりと笑う瀬伊。

「また、にぎやかになるね」

「……それはどうかなぁ」

 依織が何気なくつぶやいた言葉を否定した瀬伊の声に奇妙に真摯な響きがあった。

 瀬伊は一哉とむぎの去った後を見送るように階段のある廊下へ出る扉へ顔を向けていた

ので、依織からはその横顔しか見えない。まっすぐに弾き結ばれている瀬伊の口元が慣れ

ない緊張を伝え、依織の胸にかすかな疑問を落とした。



 その時、ばたばたと大きな物音をたてながらダイニングに羽倉麻生がやってきた。

「ふー、人心地ついたぜ! あれ鈴原は?」

 風呂上がりの濡れた髪をタオルでふきながら麻生はダイニングとつながっているリビン

グまでをぐるりと見回した。

「一哉と編入試験の勉強だって」

「へぇ、来た早々大変だな。あー、何か冷たいものあったっけか」

「“どっこいしょ健康”でも飲めば。むぎちゃん買い出し行ったから冷蔵庫に入ってるん

じゃない?」

「ああ、そっか。だよな」

 むぎがいなければ、まず購入されることのない健康飲料を瀬伊が指摘すると、すぐさま

納得してキッチンへ向かおうとした麻生が、依織に気付いた。

「松川さん、帰ってたんだ」

「おかげさまで、出遅れたよ」

「へっ、日頃の行いってヤツじゃねーの?」

 見るからに上機嫌な麻生はキッチンへと姿を消した。

「ピアノでも弾こうっと」

 瀬伊もリビングを出て行き、一人残された依織は、マガジンラックにあった夕刊を広げ

て拾い読みをする。紙面の記事の内容はろくに頭に入らなかったが満ち足りた気分だった。



 この家を変えた少女が戻ってきた。

 これで、少し前の彼女がいたころと同様に、居心地良く過ごせるだろう。

 彼女がいてくれるなら、この同居生活も決して悪いものではないはず。



 依織はゆったりとソファに深く座り直して、くつろいだ。






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