コンセント雑感
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小説コンセントは、三部作「コンセント、アンテナ、モザイク」のうちの一つであり、最初に発表されたものです。コンセントにて個としての能力の発現とその限界、アンテナにて仲間の最初ユニットである家族の捉え方、そしてモザイクにて他者との連携と信頼というものへと、田口ランディ女史の視点は個からより仲間へと移り変わって来ていると感じます。

そして次回作として予定される「アルタイ」「ヒロシマ」にてより、個から民族へと視点はより拡大されてゆくのでしょう。

作品を通じて感じることは、コンセントという個性をもった人々は結局の所、個としての能力に過ぎず、社会を変革する力とはなれないということ。そのような社会にあって無力な能力はむしろ感覚と称したほうがよいでしょう。予知できる範囲内での未来を語り、スプーンを曲げてみせたところで、そのような才能が人には潜んでいるという証とはなりえますが、社会を変革するまでには大変な微力であると言わざるを得ないのです。

誤解無きように願いたいのは、なにもコンセントとしての個の力や才能などを否定しているのでは毛頭ありません。その力の結集が生み出すものの素晴らしさを追求してゆきたいと考えているわけです。

では、一人の力では弱いが同様な力を持つ者が集団化すれば、等比級数的に力は増大するのでしょうか。その可能性はあります。一つの理念のもとでの団結による力は個人では不可能であったことをより力強く、より早く、より効率的に目的を果たし、目標に向かって確実に達成できるのですから。

コンセントのように強い個性と個性がネットワークの如く結びつき、草の根のように増殖してゆくなかでやがて地球的な視野を獲得し、新時代を築きあげる未だかつて無い理念を、価値観を、そして新時代の潮流というものを生み出してゆくのではないかと期待してしまいます。

しかしながら、各々が自在にホストコンピューターに繋ぎ、情報を引き出したところで、それらからもたらされる情報をどのように解釈するかを、個々の感性にまかされている現状では、ただ我が儘を言い合い、互いを認め合うことのない、永遠に気持ちが平行線のままの集団と化してしまうネガティブな可能性が潜んでいるでしょう。

解体されたところで、個の意識が全体へと吸収され、自分を失うということはあり得ません。意識を喪失したと感じさせるのは、単に混乱(カオス)した状態だからです。肉体という明らかな個がそこにあるのですから、人間の脳の構造上、右脳、左脳、間脳がバランスよく機能しない限り、真に他者との意識の同化というものは起こり得ないのです。

そしてまた、世界のホストコンピューターは単なる情報のデーターバンク、無機質なマシーンに過ぎないのでしょうか。いえ、そこには常に進化をもたらし、生きとし生けるもの全てを育む妙なる波動が発せられていると考えます。その波動に真に共鳴するならば、そこには何ら対立というものや、価値観のすれ違いや、新たな創造に繋がらない破壊的な思考というものは全く意味を為しえないはずです。常に前進し、向上し、進化し続けようと一致団結できるはずでしょう。

真にアクセスするなら皆、同じ方向性に向くはずです。もちろん状況は人皆違うのですから、各々の立場に相応しい考え、閃きがもたらされることでしょう。そのことを念頭に置くならば、より広いレンジにて捉えるならば、人には各々使命というもが必ずあり、それを認め合うということが、お互いの力を出し合うことになり、進むべき方向性を見出すことに繋がることでしょう。

まずは、身近にいる人を上辺だけではなく、心から認める作業が必要だと思います。認めると、それは自ずと、目が語り、顔色が表し、言動がそのように変化します。また、それを鋭く察知する感性を磨いてゆきましょう。変化を見逃すなら、その時点で認め合える機会を失ってしまうことになってしまいます。

コンセントの先にあるもの。それは情報を伝達する能力を備えなくてはならない。それがアンテナであり、様々なパーツの寄せ集めではなく、確実に目的を持った存在の集合体がモザイク(マンダラ)であると言えるのではないか。

まとまりのない文章となりましたが、そのようにGTCAは考えます。