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10

「打ったあ、大きい」「んあ」「伸びる伸びる、入ったあ、スリーラン」「ふ、ふぁ」「千島水産気合のサヨナラ勝ち」「ふああ」「ついに島嶼部から初の決勝進出達成です」「ふゅわあああぁ〜ぁぁあう、あむ」
 そんなテレビ中継とミサトの大欠伸をBGMにシンジとマナは遅い昼食をとっていた。そろそろ三時になろうとするころ、ミサトにとってシフトオフの時間帯であるはずはない。
「ミサトってヒマそお」
 ゆっくり額をテーブルの上に組んだ腕に預けて眠りに戻ろうとする作戦部長を眺めつつマナがつぶやいた。
「疲れてるんじゃないかな」
「だったらこんな時間に食堂なんかいないって」
「……ってことは僕等もヒマなわけだ」
 念のために周りを見回したシンジだが、自分と横に座るマナ、テレビの真下の席でテーブルに突っ伏しているミサト以外に人はいない。
「そおだよねえ、ミサトはともかく甲子園の青空に白球を追う高校球児の皆様に比べたらねえ、私達ってすっっごくヒマ」
「平和だってことで」
「でもねえ、私あのテレビの中でインタビューされてる人と同い年なんだよ。なのに、なあにが悲しくて」
「悲しい?」
「マナちゃん、こんなとこでお茶すすって待機なんて悲しいですぅ」
「インタビュー、されたい?」
 もちろんマナにはそんな積もりもないし、シンジとそんなことを話したかったわけでもない。シンジもそれはわかっていた。
「待機で済んでるならそれでいいって」
 彼はそういって話を打ち切り、手で口を押さえて顔を歪めた。彼にとってマナは欠伸をさらすのは気恥ずかしい恋の相手である。
「あは、ミサトがうつった」
 マナが茶化す。シンジにはありがたい。動揺の理由がレイの姿を認めたからであることをマナに気付かれずに済んだ。マナは笑って食堂に入ってきたレイに手招きする。シンジはわずかにそれに遅れてしまった。その時シンジは自分のぎこちない笑みがレイの赤い瞳に見透かされているような気がした。
 シンジの睡眠不足の原因は夢見だった。その日シンジはレイの、正確にはレイ達の夢を見て眠りを破られて、そのまま朝を迎えていた。
「あいかわらずベジタリアンねえ」
 かぼちゃのパイとサラダ、その二つがレイの今日の昼食らしかった。レイのトレイの上にそれしか乗っていないのを見てマナが溜め息まじりに尋ねた。
「今までずっとやってたんでしょ。綾波さん、それで足りるの?」
 小さく頷くレイ。
「マナとは違うんだよ」シンジはマナの手元のきれいに平らげられたカツ丼定食を指しながらいった。
「なにそれー、どういうイミ」
「どうって、ええと、まあ」
(マナがレイのことベジタリアンのクローンって思ってるならそれでいいよ)
「その、つまりマナは食べるわりに太らないなとか、まあそういうイミで」
「ああっ、シンジはこの可憐でいたいけな乙女を大食いのガサツ女呼ばわりするのねっ」
「いやそのそおゆうことでわ」
 よよと泣き崩れて見せるマナ。マナがガサツ女といった時の視線がちらりとミサトに振られたことに苦笑しつつも、マナをなだめるシンジ。我関せずとサラダを咀嚼し続けるレイ。
「そういえばさ」
 シンジがレイに尋ねたのは彼女のゆっくりとした食事が終わりかける頃だった。
「綾波は今日もリツコさんの所に行ってたの?」
「そうよ」フォークを持つレイの手が止まる。
「この頃、多いね?」
「そうね」
「いつも同じシステムのテストなの?」
「多分」
「六号機専用なのかな?」
「知らない」
 シンジの横で、マナはいつのまにか耳をそばだてている。
「いつ頃終わりそうなの?」
「どうしてそんなこと聞くの?」
 かちゃり、フォークの置かれる音。
 レイの感情を読み取れない瞳がシンジを見据えていた。
 シンジは湯呑みに手を伸ばしながらもう一度食堂の中を確認した。
(ミサトさんは居眠りしている。他に人はいない。綾波のささやき声が聞こえているのは僕とマナだけのはず……)
「たとえばさ……初号機にも載せるかもしれないし……」
 レイの表情には何の変化もなかった。
 シンジがレイから否定的な答えを引き出すまで、しばらく彼女の赤く輝く瞳の視線に耐えねばならなかった。
「私にはわからないわ」
 レイが紙ナプキンを口に当てた。唇を左から右へ。折り畳んで、指先を拭って、もう一度折り畳んでトレイの右隅に置いて、立ち上がる時は、右手で椅子を後ろに……。
(……綾波……何をやっているんだ……)
 レイはシンジの知っているいつも通り完璧に同じ所作で食堂を出ていった。
(僕が一度だけ入った、いつものとは微妙に違ったエントリープラグ。綾波がリツコさんの所に呼ばれ出したのはあれからまもなくだ。もしかして……)
 シンジのさ迷う思考は恋人の一言であっさりと途切れる。
「あのさあ、シンジ」
「なに、マナ」
「あたし、太ってる?」
「へっ?」
「ああっ、ひどいっ。そう、そうなのね、そう思ってるのね。この可憐な雛菊のような乙女は想い人に大食い女と蔑まれながら顧みられることなく路傍にその花を散らせる運命なのね」
「なんでそおなる」
 二人のどこか楽しんでいるようでもあるやり取りは更に続いた。ミサトはちょっかい出す気にもなれず当てられっぱなしだった。

 使徒の来ない日がしばらく続き、慣れないことには手を出さない作戦部長は部下を自分の代わりに走らせていた。マナに閑人呼ばわりされたのはそれが原因である。
「……では第二東京よりこれまでに入ったニュースを……」
 野球中継の合間のニュース。夢うつつのミサトに聞こえたのは修正南極条約をアメリカが批准したというものだった。

 第二新東京市、長野県中央部のこの都市に日本の首都機能はある。ここは同時に北東アジアの中心でもある。
 人口や経済活動規模でいえば、中華連邦共同体の上海や広州、あるいは沿海州のウラジオストックが上かもしれないが、兵器エヴァンゲリオンを中心に動かざるをえない二十一世紀初頭の地政学上、この都市の重要性は首都であることを措いても第三新東京市に次ぐものがあった。第三新東京市の後方補給基地としての役割を担うのが、この第二新東京市である。
 太平洋に開かれた第三新東京市であるが、日本列島の太平洋側航路は航行禁止区域に指定されていた。
 使徒の出現位置が第三新東京市とその東方から南方一千キロに集中していたから、これが理由とされた。
 日本の海運情勢は大きく変わった。今では新潟港が入港量第一位である。第三新東京市は、軍港以外の港を持たず、そのライフラインを日本海側から、西日本からの陸路に頼ることとなった。
 つまり第二新東京市は、使徒迎撃のためだけの単機能都市である第三新東京市の生死を握る位置にあるのだった。その意味では、むしろこの都市こそが世界の焦点といえるかもしれない。
 男はそれをよくわかっていた。だから自分に求められているものがネルフにとって重要であるとの誇りを持って活動してきた。十年以上第二新東京市を駆けずり回って政府機構の間隙を突いては使徒迎撃に必要な環境を、最善とはいえぬまでも作り上げてきた。政府だけでなく戦略自衛隊や財界トップとの折衝、更には裏の社会との接触も一度や二度ではなかった。その過程で粘り強く人脈を築き上げてきた。
 それがこの国では重要なのだ、国連を相手にしているだけでいいはずが無い、日本国内での関係を円滑にしなければ。それが男の持論であった。
 自分の活動があればこそネルフも第三新東京市にあって使徒との戦いを進められているのだという自負が、これまで彼を支えてきた。彼にとってそれがすべてだった。休暇らしいものといえば妻の葬式の時くらいのもの。一人息子にはほとんど時間を割いてやらずに来た。
「見損ないましたよ、冬月副司令」
 そしてこれまでの仕事を全て否定するかのような一片の辞令を突きつけられた彼にとって、愚痴の一つもこぼさねば左遷されるために上越国際空港の待合室に座っていることになど耐えられそうに無かった。
「今になって……なぜ……」
 自ら省みればたしかに脇の甘さはあったかもしれない。失脚の理由に挙げられたものは彼の責任で実行された事項であり、文面だけ見れば正当なものであった。
 しかし彼は背後から刺されたという無念を感じずにはいられなかった。
 冬月はこれまでの自分の功績を評価していたはずではなかったか。調査部というネルフの中では勢力が強いとはいえない自分の肩書きに色々と付加価値を付けて仕事をやり易くしてくれたのは冬月ではなかったか。それなのに、なぜ今になって過去のことを、なぜ名ばかりの役職とその職務を今になってあげつらい、怠慢だなどと糾弾するのか。なぜ。
「なぜ……なぜ保安部の口車に……」
 雑踏にむかってうめくようにつぶやかれた彼の言葉に答えるものはいなかった。
 合成音のアナウンスに男は自分と息子の乗る便の出発が近いことを知った。
 十八になろうとする彼の息子は窓に張り付くようにして、滑走路脇に駐機している空自制式VTOL機の望遠撮影に余念が無いようだった。彼も息子に仕事の愚痴をいう趣味ではない。二三度口の中で唱えてから、出来るだけ何気ない声を作っていった。
「おい、そろそろ行くぞ」
「あ、やっと?」
 間を置いてカメラ片手に振り向いたそばかす顔に眼鏡を掛けた彼の息子は、屈託無い笑顔を見せていった。
「ウラジオ着くのが楽しみだな。撮り甲斐のある逸品がたくさんありそうだし」
 子供に気遣われているのかと思うと男の心は揺れた。
「なあ、ケンスケ」
「なんだよ」
「お前が望むなら……」
 カメラのディスクを交換しながらの息子に彼は先を越された。
「家族一緒、そうだろ親父」
「そうか」
 自然に息子は父の足元のトランクを手にした。
 荷物を持ち先を行く息子の背中に向けてつぶやかれた男の言葉は、激務に追われ飛び回っていた十年以上の間というもの気にも留めなかったことだった。
「家族、か……」
 調査部第二課別室にあって国内非公式コネクションを取り仕切っていた相田を沿海州支部に追うことによって失われるものにジオフロントの人々は気付いていなかった。

11

 うらぶれた神社の境内。そこは若い男女が愛しあうには罰当たりな場所ともいえるし、陳腐な場所ともいえる。そもそも恋人同士に周りが見えているかなど疑問だが。
 だが第三者の視線に気付きながらキス以上に踏み込む気はシンジには無かった。
「っん……」
 唇を放す時のマナの薄く開かれた目はシンジには誘っているように見えた。それを男の傲慢な短絡だと冷静に見つめるもう一人の自分にも同時に気付く。
「あつい……」
 二人の唾液に濡れるマナの唇をシンジはそっと指で拭う。マナはされるまま。
「シンジの舌って、あつい」
「指は?」
「あつい」
「んじゃ、タコスの中のチリのせいだ」
 マナの唇を拭った指を舐めながらシンジは笑った。
「もうっ、シンジのばかあ」
「何がばかなの。美味しかったよ、マナの作ってきたタコス」
「そんなことじゃないよぉ」
「じゃあ、なに?」
「教えない」
「教えてよ」
 もう一度キス。今度はマナは目を閉じないでいた。
 何度でも何度でも、ずっとずっとこのままでいれたなら。
(……そうもいかないよ……あついのが舌だけじゃなくてもね……)
 草の上に横になったシンジに覆い被さるように身を寄せるマナ、その肩越しには流れる雲が見える、太陽が見える、セミの声、風はない、だが草のこすれる音。
 見られている。
「マナ」
 唇は離れても鼻先が触れ合うほどの距離で見つめあいながらシンジはいった。
「太陽の歌って知ってる?」
「何それ、オ・ソレ・ミオ?」
「多分違うなあ」
 シンジが少し顔をずらすと目を細めざるをえないぎらついた太陽が視界に飛び込んできた。
「じゃあ、どんな歌?」
 シンジは目を閉じる。セミの声、草の音、頬に痛い陽射し、マナの吐息。
 それだけだった。
 鈴の音も渚カヲルの声も、花屋の時の一度だけだった。
「僕も聞いたことはないんだ」
「誰が歌ってるの、それ?」
「うーん、誰ってわけじゃなくて。ごめん、僕もよく知らない、っていうか全く知らなくて」
「なあにそれ、気になるなあ」
「ごめん、忘れて。知った所でどうなるってわけでもないんだ」
 あの日にシンジが買った鈴蘭は結局一月持たずに枯れていた。花の手入れに疎い人間にとって鈴蘭はデリケートな花である。
 ただ鈴蘭を買ってからレイ達の夢を見る頻度が増えた。これはシンジもなんとなく合点がいった。滴のような形の白い花からレイを連想することが多かったからだ。あくまでレイ達であった。決して一人だけのレイが夢に現れることはなかった。その夢を見る度にシンジは汗まみれで荒い息をつきながら目が覚めてしまうことを繰り返していた。
 マナとのデートのこの日も、レイ達の夢でシンジは起きていた。
「ここはさ」そういってシンジは話を逸らす。「第四使徒とやりあった場所なんだ」
「ふうん」
「結構やばかったよ。あと一秒って」
「え、そうなの?」
「第四使徒。ノシイカみたいなやつなんだけど、そいつが鞭持っていて」
「ムチ?引っ叩かれたりしたの?」きょとんとするマナ。
「放り投げられた。向こうのビルの辺から、あっちの、ほら斜面の木がまばらになってるとこ」
「うわ」
「それにその鞭が切れ味まで鋭くて、ケーブル切られちゃったんだ。その時まだエヴァにはS2機関なんて載ってなかったからね、電源落ちたら六十二秒、持たせて五分」
「きっびしー」
「まあ、勝てたけど」
 半身を起こしたシンジは右拳を左肩にあてがうと、そのまま拳を振り下ろして、次に正面に突き進めた。
「ナイフで?」
 マナはそれが肩部ラックからプログレッシブナイフを手に装着することだとわかる。
「コアを狙った」
 さらに右手に左手に添え、肩をいからせて、力を込める仕草をするシンジ。
「ぐさっ、てね。だけど最近のやつはなかなかナイフの間合いに近づけないし。あまり参考にはならないかな」
「ちょっと待って、相手は鞭振り回してたんでしょ。ムチノシイカって、ちょっとイメージわかないけど」
「映像、見なかった?」
「見てない。そんな変なの」
「そう」
「とにかく鞭相手だったらなおさらナイフって不利だったんじゃない?」
(マナだってわかるよな、そんなことぐらい……)
 第四使徒との戦闘中、ひょんな成り行きでシンジのエントリープラグには鈴原トウジと相田ケンスケが同乗した。その二人を乗せたまま、シンジは使徒に向かって突入したことになる。
「不利だった。実際あっちの鞭に胴体貫かれるのが先だった」
「やばいって、それ。絶対やばい」
(そうだよな、我ながら何考えてたんだか……)
 無謀な攻撃といえた。二人の同乗者は、チルドレンではなく(少なくともその時点では鈴原トウジはチルドレンとみなされていなかった)その二人の影響でか、パイロットであるシンジのシンクロ率に低下が見られた。リーチの差の不利もあったし、シンジはまだ二度目の実戦で経験も少なかった。何より戦術指揮官であるミサトから受けた後退命令に反しての攻撃であった。
「あの時は夢中だった。串刺しにされたまま、構わずこっちもナイフを突き立てた。勝ったのは運がよかったからとしかいえない。僕と来たら内蔵電源が無くなる瞬間まで何の考えもなく目を吊り上げてナイフを刺していただけ。あと一秒早く無くなってたら僕だけじゃなくて、少なくとも二人道連れに死んでいた所だったのに」
 マナが怪訝そうな顔をするがシンジは二人の同乗者については話さなかった。鈴原トウジはいまだにシンジの心の中では刺であった。
「とにかくね、マナ、自棄になっちゃいけない。どんな時でも自分を見失っちゃだめだ。ぶち切れて暴走したって碌なことにならない。泣いたり喚いたりしたってエヴァは応えてくれない。取り込まれるだけだ。取り込まれたら……その後は……」うつむき加減のシンジは自嘲する。「地獄」
「地獄?」
「体が溶ける、心が引き裂かれる、あれは地獄だよ」
 ふと、シンジは思った。
 アスカは夢を見ているのだろうか、それとも地獄にいるのだろうか。
 微笑みを浮かべているかのような亜麻色の髪の眠り姫。
 シンジにはわからなかった。

「赤木博士」
 レイに呼び止められてリツコは振り返った。
「碇君に聞かれました」
「このことを?」
 レイとリツコの視線の先にはテスト用のエントリープラグシステムが二つ並んでいる。
「初号機に載せるのかと聞かれました」
「それで、何と?」
「何もいいませんでした」
「そう……」
 リツコにはレイの表情にいつもと違う点を認めることが出来なかった。だがレイが五人目となってから管理監督をミサトに代わって自らの手で行ってきたリツコには、必要でない会話をすること自体がレイの何らかの変化を示しているとわかった。
 そしてそれが実験の進捗を測る上で見過ごせないシグナルの一つであることもわかっていた。
「レイ、あなたはこれが何か知ってるわね」
「これは渚カヲルと名乗りました」
 レイは淀みなく答えた。
「また話し掛けてくると思う?」
「わかりません」
「このこと、シンジ君に話した?」
「いいえ」
「それでいいわ。レイ、プラグスーツに着替えてらっしゃい」
 更衣室に向かうレイを見送ると、リツコは実験管制室に入った。既にオペレーター達の準備は整っており、二十二回目の渚カヲルサンプルの実験が始まろうとしていた。室内には鬼頭の姿もあった。
「鬼頭君、四番目はどう?」
「全く順調ですよ、部長」
「十番目になる子は?」
「焦っちゃいけません」
 わずかにリツコは眉を寄せて聞き返した。
「適性は問題ないはずでしょう?」
「六号機以降でしたら」
「それで充分よ。どうやら焦っているのはあなたの方ね」
「これは」
 上司の冷ややかな視線に男は首をすくめて了承の意を示すのが精一杯だった。彼は内心は冷や汗ものだったが、リツコが軽く頷いただけで彼を置いてコンソールの前に座ったことで、自分の首がまだ繋がっていることを知った。

「空の旅は堪えるよ、この歳になるとな」
 老人は隣に座る男を避けるかのように窓に映る半透明の白髪の自分の横顔に一人ごちた。まもなく日付変更線を越える。腕時計の表示を進めねばならない。
「美人のスチュワーデスもいませんし」
 隣の小男がうそぶく。
「君は元気だな。だがな、歳を取れば体の疲れが残ってしまうものなのだ。心の方もいうまでもない。熊野君、じきに君にもわかる」
「私は学究の徒ではありません。副司令ほどの繊細さは持ち合わせていませんよ」
 老人と同席する保安部長はそういって、更にショットグラスを傾けた。
「その証拠、機内でも酒が顔に出ませんで」
 ネルフ副司令と同保安部長。前後に三席の間隔を置いて計四名のSP。SSTOの客席にいるのはこの六名だけだった。
「成層圏で酒を飲むためかね、安保理帰りの私の便をヒッチハイクしたのは」
 冬月の口調に刺が混じった。
「ひとこと御礼をと。そして今後とも変わらぬ信頼を。そういう次第です」
「大袈裟なことだ」
「副司令、あなたは御自分の影響力についていささか過小評価をなさっておいでです」
「興味が無いからな」
「それでよいのですか。たとえばナインスチルドレン槙タカオ」今や冬月の顔にははっきりとした嫌悪があったが熊野は無視して続けた。「あれは技術部独走の果てのまったくの人災。責任が技術部にあるのは先の処分で副司令が明らかになされました。ですがチェックが働かなかったのは……」
「調査部は改組される」
「ええ、礼とはそのことです。個人的にも感謝していますよ」
「何のつもりだ」
「三佐からもよろしくとのことでした」そういって熊野はグラスを呷った。
 視線を宙に漂わせた冬月は、既に異動が発令されているはずの相田の顔を思い浮かべた。
「いい男達を……何人か巻き添えにしてしまった……」
 特にその男のケースは気乗りしないものだったので、冬月はわざわざ発令を自分の出張にあわせて、直接顔を会わせるのを避けたのだった。その男からは妻を失ってから息子との二人家族だと聞いていた。
「リストラクションですよ、通例の」グラス片手の熊野。
「その結果国内はこれから君の仕事となるわけだが……」つづく言葉が口からもれる時、冬月の眼差しは好々爺然とした教授ではなく、特務機関ネルフ副司令のそれに変わっていた。「まかせていいのだな、保安部長」
「無論です」
 熊野は自信に満ちた声で応じた。

12

「アスカ、おはよう」
 シンジがその日病室に来たのは午前中。本来、病棟の面会時間ではないのだが、この病室を訪れるサードチルドレンに限っては、その規則違反も黙認されていた。
 窓を開け、カーテンを全開にする。ジオフロントにもある程度の風はある。
「ごめん、今日は替える花持ってきてないんだ。半日で捨てちゃ花にも悪い。空気は取り替えるけどね」
 風に微かに揺れるカトレアがサイドボードにあった。
「アスカ、ゆうべケンスケから久々電話があったんだ」
 目を閉じているアスカの前髪を整えながらシンジはいつものように話し掛けた。
「国際電話だった。どこからだと思う?ウラジオストックからなんだ。ケンスケのお父さん、転勤になったんだって。それでケンスケも引っ越したんだってさ。しばらく電話無かったんだけど、どうやらそのことで忙しかったらしいんだ」
「電話でいってたんだけど、実は二ヶ月くらい前に同窓会やろうって企画があったらしくて。幹事はケンスケ、らしいと思わない?でもケンスケはそんなで忙しかったみたいで」
 シンジは座る足を組み替え、そのついでといったふうを装い、手に顎を乗せた。カメラから唇は隠れる。
「それに元壱中のみんなの中でどういうわけだかその頃インフルエンザとか、食中毒とかで入院してた人が多くて、結局流れちゃったんだって」
「卒業式の時にさ、僕とケンスケと洞木さんとで約束したんだ。少なくとも一年おき位にクラスのみんなで集まろうって。レイはきょとんとしてたっけ。そういう時に「命令ならそうするわ」っていわれてもねえ」
「だけどケンスケが沿海州行っちゃったとなると、他に企画しそうな人間いないよね。僕がやればいいんだろうけど、録音されてる電話使って連絡取るのもなんだし」
「メールだって横から読まれてるだろうし」
「気にしなければいいんだろうけど」
「何か巧いやり方無いかな。マヤさんとかはこういうことの裏技なんて知らないかな。知ってそうな気がするな、アスカはどう思う。でも「監視かいくぐるワザ教えてもらうためにマヤさんに連絡取りたいんです」なんていってもミサトさんもリツコさんも連絡先教えてくれないだろうな」
「日向さんはどうだろ。日向さんに青葉さんのアドレス教えてもらって、青葉さんからマヤさんの教えてもらう。うん、これならいいか。まあ適当に理由見つけて」
 カーテンが膨らんだ。
 言葉の切れ目に呼応するかのような風が病室を舞った。
 アスカの額を彼女の亜麻色の髪が薙いでいく。
「アスカ」
 カーテンがしぼむ。シンジは両手で顔を覆った。
「時々ネルフが牢屋に思えてくる」
 シンジの声が下がった。風にまぎれてしまうほどになった。
「見られているだけ、何も見えない。誰も何もいわない。何が起きてるのかさっぱりわからない。ケンスケが外国行っちゃったのは、ほんと辛い。電話やメールじゃなくて、やっぱり顔あわせないと話せないこともある。それで、ケンスケはそういうこと、ちゃんとわかってるやつだったから」
「電話の最後にいってた。ぼかした言い方だったけど、連絡の取れないクラスの人達がいるんだ」
「林さん、洞木さん、山下君……」
「それから……トウジ……」
 シンジは力無くうなだれる。眠り続けている少女がもし急に目を覚ましてこれを目の当たりにしたら、発破の意味で罵声の一つでもとばすだろう。シンジも心中密かにそういう奇跡を期待していたのかもしれない。
 だがアスカは眠ったままだった。
 シンジが弾かれるように顔を上げたのも、アスカが起きたのではなく病室のドアが開かれたためだった。
「碇シンジ君」何度かシンジと直接言葉を交わしたこともある大柄な黒服の男は静かにいった。「第一種警戒発令だ。直ちに本部内で配置につくように」
「使徒……ですか……」
「私は知り得ないが、それ以外にあるかね、サードチルドレン」
「……ないでしょうね」
 シンジは小さく頷くと立ち上がった。
「行ってくるよ、アスカ」
 病室を出ようとした時、シンジは風に気付いた。振り返ると、窓が開け放れたままになっていた。窓を閉め、カーテンを加減。
 もう一度、病室を出ようとした時、風に気付いた。
 廊下からのようには思えなかった。病室の中から、彼の背後から吹いているように感じられた。花の香りが混じっていると感じられた。
「どうした」
 立ちすくむシンジに保安部員は苛立たしげに声をかけた。
「いえ、ちょっと……」
 鼻風邪を引いたのかもしれないと、シンジは背中を押されながら考えた。カトレアと鈴蘭を間違えるなんて、きっとそうに違いない……。


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ver 1.0
98/03/19
copyright くわたろ 1998