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13

 警戒体制発令となると持ち場につく者、退避する者とでネルフ本部内は慌ただしくなる。何度となく繰り返されたことではあるが、やはり訓練のように整然となされるわけにはいかなかった。
「D級職員は定められたシェルターに……」
 彼にとっては聞き慣れたアナウンスを耳にしながら歩く冬月は、通路の奥から自分の方へと歩いてくる白衣の女性を認めた。彼女も彼と同じく警戒体制程度で行動を制限されることはないランクである。
 ただ冬月自らが命じれば、使徒襲来時に彼女が詰めてしかるべき場所に戻すことは出来るはずだった。
 声を掛けるのは女の方が先になった。
「発令所ですか、副司令」
 その声は、どこか力無い。
「赤木博士は違うのかな」
 冬月は問いただす。
「私は現場にとって必要のない人間らしく」
 技術部長の赤木リツコは薄く笑った。
「下におります。上は能代君で充分でしょう」
「下か」
「ええ」
 部下の名を挙げたリツコは一礼して発令所とは逆の方向に歩きだした。
「人工進化研究所か」
 冬月のつぶやきは自らの戦場へと向かうリツコの足音に紛れてしまい、彼女の歩みを止めるにはいたらなかった。

 新横須賀より南南東千二百キロ。単座戦術偵察機RF−2を操る空自隊員の心中は、彼の飛ぶ晴れ上がった空とは対照的に沈みがちであった。彼とて使徒に対しては自衛隊を指揮下に置く国連軍極東管区の総力を持ってしても足留め程度にしかならないことは承知している。その中で特にネルフに請われて目としての役割を果たすことにやぶさかではない。むしろ誇りとする所である。
 しかし彼の機の得たデータ全てが一切のデコードを許されずにそのままネルフに直送され、飛行ログすら残せないとの上官の愚痴を漏れ聞いた後では、使徒ラシキ目標ト触接セヨという任務に対し、わだかまりを抱かざるを得なかった。
 大わらわで取付けられた機首下部の標準とは違う偵察ポッドはネルフとのダイレクトリンクのためだろう。ふと彼は思った。このフライトで自分が死んだら、年金を出すのは空自かネルフか。
「フェアリィよりシルフィード。目標より二十マイル」
 管制機からの事務的な指摘に、ともかくもTARPSを作動。インカムの空電音がわずかにそのうなりを変えるのを合図に彼は自らにいい聞かせた。任務は果たす、死なない程度に。
 緩降下、右後方の僚機が彼の機の動きを忠実になぞる。
 五百ノットで進む二つの目が使徒を捉えようとしていた。

 対使徒戦闘を預かる現場の長、葛城ミサト作戦部長は、発令所にやってきた冬月には軽く会釈をくれただけで、日向マコト一尉と共に作戦指示に余念がなかった。第六拾九使徒から三ヶ月以上の間隔があった。想定される戦場である所の第三新東京市とその南方沿岸部の迎撃システムはこれまでになく強化されており、彼女には充分な勝算があった。第七拾使徒が、たとえ二十以上に分裂したことが報告されようと、彼女はうろたえはしなかった。
 とはいえ、冬月としてはそれほど楽観的にはなれなかった。総司令碇ゲンドウがこの場にいない以上、責任は彼の老躯にかかる。彼はひとり一段高くなっている席についた。
「状況はどうかね」
 その冬月の問いに答えたのは三尉の階級を持つ名取という女だった。冬月の見る所、作戦部長に従う人員の一人。
「はい、目標は四度の分化を経て、現在その数二十二。父島サイト東方四十キロを中心に半径七百メートル、ほぼ円形に散開。四十五ノットで第三新東京市を目指しています」
「葛城三佐」冬月は咳払いを付け加えて呼んだ。「状況はどうかね」
「殲滅してみせましょう」
 ようやく振り返ったミサトは簡潔に応じた。
 横からは、ただ一人ネルフに属さない男が漏らす溜め息が聞こえたが、ミサトにとっては雑音に過ぎない。
「三佐、JA2はあと三時間です」と、溜め息の反対側からマコトが指摘。
「空撮映像入ります」オペレーターが空自所属のRF−2からの光学映像を発令所中央のスクリーンにつないだ。
 盛大に波しぶきをあげて突き進む黒い紡錘型のその姿は浮上航行中の潜水艦を思わせた。ただしセイルにあたる部分はない。
「下が気になるわね」
「はるな、及び、たかしおからの報告によれば」ミサトにそう告げるのは技術部の制服組、能代二尉。「水流の噴出口や水中翼の類は認められずとのことです」
「それはソナーね。映像で確認した?」
「いえ……」
 歯切れの悪い能代の言葉にミサトは幾分気勢を削がれる思いがした。
「まあいいわ。とにかくいつ飛び跳ねるかわかったもんじゃないから、護衛艦を下げるように連絡して。敵情は空自から貰うから」
「了解」
 それは国連軍への勧告という体裁を取り、海自幕僚部、群司令部経由で対象の護衛艦に届く、回りくどい命令である。
「潜水艦も下げさせますか」
「それは彼らに決めさせるわ。それよりJA2は……」
 ミサトは首を回して、肩越しに一人の民間人に視線を送った。ネルフ作戦部長の軍人としての眼光に、周りからは少々浮いたその男は身を硬くする。
「じ、順調です。ですが……」
「期待には応えてもらうわよ」
 釘を刺されてしまった男はほぞを噛んだ。これで徴用され沿岸部に展開しつつある、試験機も含めた十七機の自律多脚歩行砲台JA2の全ては投入されると決まってしまった。
 無人の兵器がどういう使われ方をするか、彼は知っていた。おそらくほぼ全機が大破、下手をすれば蒸発であろう。商品化スケジュールが大幅に後退するのは避けられまい。今更ながらネルフのオールマイティーぶりには憤りを覚えざるを得なかった。
「もちろんです……」
 ミサトはその男がうなだれてうめくように答えるのを見て憐憫を感じたのか少し口調を和らげた。
「日本重化学工業共同体謹製JA2。大事に使わせていただくわ、時田さん」
 有効にということである。

 警戒体制の間は、待機所と呼ばれる場所でチルドレンはエントリープラグに入るまでを過ごす。仮眠も取れる長めの椅子が二つと雑誌が数冊置かれた小さなテーブルに冷蔵庫、簡素な空間である。パイロットの生理、心理状態に余計な刺激を与えないためというのが、スタッフがチルドレンに対して述べた説明である。薄い緑色の壁も同じ理由だという。
「でもね」
 ここで過ごす時間がマナにとっては苦痛だった。
「何が辛いって、断食しなきゃならないのがいっちばん辛い」マナがシンジにぼやいた。二人とも既にプラグスーツに身を包んで、椅子に隣り合わせで腰を下ろしている。
「断食ってのも大げさだと思うけど」
 待機の間、特に水分は控えるように彼らはいわれている。
「だあって、八時間プラスマイナス六時間後なんでしょ。これで使徒の針路を予想したことになるわけえ。下手したら半日御飯食べられないってことじゃなあい」
「まあ、栄養剤は許可されているし」
「まずい、あれ」
 マナは横目で部屋の隅に置かれた冷蔵庫を一瞥して断じた。
 シンジのいう栄養剤とは高蛋白のクラッカー、あるいはタブレットのことだった。長時間にわたる戦闘が発生したことがあり、パイロットが空腹を訴えたことから導入された。タブレットの方は水無しでも食べられるようにデザインされているという。ただしシンジもマナも一度食べただけで、後は遠慮している。
「綾波さんも食べないでしょ、あれは」
 マナがこの場に現れないレイの名を持ち出した。
「綾波って案外お腹空かないかも」
 軽くまぜっかえすシンジ。するとマナの表情からくだけた雰囲気が薄れていった。
「違う、から?」
「え……」
「やっぱり私達とは違うからなの?」
 マナに真剣な眼差しで問われ、シンジの語調は硬くなった。
「違わない。生まれ方が違うってだけで、他は同じだよ、同じなんだ」
 声が強ばってしまったのは自信の無さの裏返しでもある。
 四人目のレイがATフィールドを作ってカヲルと対峙したことは、シンジの記憶に刻み込まれている。レイが人間とは違う存在であるとは認めざるを得なかった。
 せめて使徒であってほしくなかった。
「ごめん。冗談だって。綾波だってお腹ぐらい減るって」
「ふうん」
「だいいち……」
 はっとシンジは首を巡らせた。
 空気圧仕掛けの扉がかすかな音とともに開いて白いプラグスーツを着たレイが姿を見せた。それと同時に動揺を隠しきれない二人の会話も途切れた。
 沈黙が続く中で先に指摘したのはマナの方だった。
「綾波さん、髪が」
「なに?」
「えっと、か、乾いてないね」
 レイは応じる代わりに耳にかかる髪をゆっくりかき分けた。
 濡れたせいでか余計に照明を反射するその頭髪は銀髪にも見えていた。
「ひょっとして綾波さん、さっきまで実験中だった?」
 二人に向き合う椅子に座ったレイは無言のまま肯く。
「大変ね、綾波さんだけ、その、ずっと……」
「そ、そうだね。ひょっとして六号機は改装とかするのかな」
 振られたシンジはレイにたずねた。しかしレイは答えず、代わりにマナが口を挟む。
「ええー、なんで六号機だけえ。やるんなら拾号機先にやってよ」
「んなこと、僕にいわれたって」
「あのね、あたし改造するなら」
「改装」
「どっちだっていいでしょ。改良するなら、そうねえ、ゆったりしたリクライニングシートにしてほしいなあ。シンジはそう思わない?」
「んなこと──認めてくれないって」
 シンジは言葉を一瞬途切らせてしまった。
「でもさ、ニンゲンコーガクを駆使したあの椅子って時々妙に疲れちゃうのよねえ。背もたれの角度変えたいなんて思ったりしない?」
 マナの口調は変わらなかった。
 レイの一瞬見せた表情に気付いた様子はなかった。
(……マナは……そうだな、見ても驚く理由は……無い……)
 困惑と後ろめたさのようなものを感じつつもシンジはマナとの会話を続ける。
 シンジの視界の隅でレイがじっとその赤い瞳を二人に向けていた。言葉少ないレイに無言で見つめられるのは珍しいことではなかったので、それ自体は奇異には感じなかったシンジだが、レイの口元がわずかに緩んだかに見えていた。それがシンジが思わず言葉を詰まらせてしまった理由である。
 そのレイの表情はシンジに既視感をもたらしていた。それがいつのことであったか、マナと取り留めのない話をしながらもシンジの意識の片隅にはひっかかっていた。
 第伍使徒との戦闘の後にレイがシンジに微笑みを投げかけたことがあった。温和なレイの表情としてはシンジが真っ先に思い返すのはこの時の二人目であったレイの微笑である。
 シンジにとって昨日のことのように鮮やかに思い出せる一方で、はるか昔のような気もする三年前の対第伍使徒戦闘、ヤシマ作戦。
(……あの時とは……違う……)
 だが最前のレイの顔にうかんだ笑みは、第伍使徒の荷電粒子照射により大破した零号機のエントリープラグの中で見た、白銀の月光に照らされた少女の、純粋にすぎて神々しささえ感じさせた笑みとは違う印象をシンジに与えていた。
 冷笑の一歩手前、シンジはそんな気がしていた。
 それをどこかで見た気がしていた。
(……いつ見たんだっけか……)
 五人目、四人目と、記憶に残るレイの表情をたどるシンジ。
 レイは黙したまま、残りの二人が他愛のない話を続け、ネルフは第一種戦闘配置に移行しつつあった。

14

 音を伴わない閃光が発令所の巨大なスクリーンを覆う。無音を補うかのように、前に陣取るオペレーター達からは歓声が上がった。声こそ出さなかったもののミサトの握り拳にも力が入った。彼女は確かな手ごたえを感じていた。
 このカブトガニどもは分散することもなく集団で律儀にJA2に構ってくれている、しかも個々は自己修復機能に乏しい、いける、あの子たちの負担を半減させることだって出来るかもしれない、今が勝機。
「B、Cグループ中央に突入。Aグループ残存機は自爆させて。タイミングは任せるわ」
「了解。B、C、突入」
 多脚歩行砲台JA2の迎撃により、体長三十メートル程の偏平な甲殻類のような形状の使徒の群は水際で前進を阻まれていた。
 二十二体いた使徒は六体が完全に停止、残りのうち体液を撒き散らしている八体は明らかに動きを鈍らせていた。最初に使徒と接触したAグループ、六機のJA2だけで使徒を二体屠った時は、ミサトは喜ぶ前に自分の目が信じられなかった。これほど易々と倒せるとは、N2兵器でも足止めにしかならなかった第三使徒との戦闘が嘘に思える。
「ここでN2弾が使えたらね」
 不可能と知りつつ、誰にいうともなくミサトはつぶやく。
 水柱がスクリーンの一角に描かれる。Aグループの最後の一機が自爆した。それでもJA2は十七機のうち、どうやら動けるものも含めればまだ七機が残っている。十機の損失で使徒六体を行動不能としたことは作戦部長にとって望外の成果だった。そして更に追加があった。
「更に一体、沈黙」
 水柱の崩れた跡には黒い殻をひしゃげさせ、赤褐色の生体組織を露出させた使徒がその活動を停止していた。再びオペレーターたちから歓声。マコトがミサトの方を向き親指を立てて笑った。
「これで七つ」
「ひょっとしたらエヴァ出さずに済んじゃうかも」
 オペレーターの名取が思わず軽口を漏らす。
「そう願いたいわね」ただしミサトは気付いてもいた。群の中央に位置する使徒だけはいまだ傷一つ無い。
 JA2だけによる戦闘はここが潮時と作戦部長たるミサトはエヴァンゲリオン投入を決めた。少なくともこれまでの互角の戦闘経過はJA2など無力だというリツコの言葉を反証するに充分だった。
「エヴァ三機、有線装備でスタンバイ」
 発令所を後にするミサトの指示と目配せにマコトは肯き、必要な命令を出す。
「ファースト、サード、センブンスチルドレン、エントリー準備。電源班、エリアD−78から84に展開せよ」
 勝利を確信し意気上がるネルフスタッフ、日本重化学工業共同体からの技術助言者としてこの場にいる時田が肩を震わせていることを顧みる余裕も無い。

 作戦部長
「突破されるのは時間の問題だけど、使徒の方々にもそれなりの代償は払ってもらっているわ。辿り着くのは十匹ちょいってとこね。そして無傷でいるのはもっと少ないはずよ」
 拾号機搭乗員
「でも、こっちより多いことには違いないですよね」
 作戦部長
「まあね、だから取っ組み合うわけにはいかないわ。そこで迎撃の第一手、有線ライフルでダメージを負っているものから狙撃。第二、携行ライフルで群の前進を阻止。第三、パレットガンで残敵殲滅」
 拾号機搭乗員
「あばうと……」
 作戦部長
「何かいった」
 拾号機搭乗員
「何でもありませえん」
 初号機搭乗員
「第四は」
 作戦部長
「アドリブ」
 拾号機搭乗員
「まぢ」

「フェアリィよりシルフィード、離脱せよ」
 管制機のその指示に空自隊員は拍子抜けした。
 結局自分には何ら敵対行動を仕掛けてくることのない目標の上空を僚機と共に旋回しているだけだった。多機能を誇るRF−2からなる空自唯一の偵察小隊を使う意味がどこにあるのか、彼にはさっぱりわからなかった。そして今、唐突に任務は終わった。
 眼下には使徒の群。速度は落ちたものの、なお十三体が第三新東京市中核へと進路を取っていた。海岸は出鱈目にえぐられ、耕され、汚泥を含んだ水蒸気の柱が立ち上り、その間に融けたJA2や使徒の外骨格の破片が広範囲に散らばっていた。
「シルフィード、離脱する」
 二機のRF−2が機首をもたげた。

 ネルフ本部発令所、RF−2からの情報を統括している名取三尉はすばやく特定の箇所を暗号化しMAGIから絶縁。この暗号鍵のオーナーに技術部部長は含まれていない。

15

 南から第三新東京市を窺う使徒の群。対する三機のエヴァンゲリオンはそれぞれが長大なポジトロンライフルを抱え、市の南端に布陣しようとしていた。三丁のライフルそれぞれには原発一基分の電力が直結されている。
 最大望遠の映像が使徒を捉えた時、拾号機のマナからは投げやりな声が上がった。
「何よ、アレ」
「……カブトガニってミサトさんはいってたけど」
 応じるシンジも似たような口調。
「ってゆーより、アレは」
「あのさ、マナ。世の中にはわかってても口に出さない方がいいってこともあるんじゃないかな」
「何で」
「撃ち漏らしたら近接戦闘になるわけだし」
「え゛、あたしパス」
「射程に入るわよ、三人とも。準備いいわね」
 シンジやマナとは対照的に意気軒高たる作戦部長の声が飛ぶ。ヤシマ作戦に比べて、今回はトリガー以外にある程度の目標の選定も射手に任される。ミサトにしてみればやる気のない態度で臨まれては困る。
「六号機、充電よし、照準よし」
「初号機、充電よし、照準……よし」
「はあい、拾号機もよしでーす」
 ミサトは通信を終える直前、小さく舌打ちした。それはエヴァンゲリオンに乗る三人に届き、三者三様の思いを抱かせつつも、とりあえず全員に無視される。
「三佐、よろしいですか」
 自分達の声が三人のチルドレンに届かないことを確認しつつミサトは応じた。「どうしたの、能代君」
「セブンスチルドレン、目標を視界に捉えて以降、シンクロレート毎秒0.005ポイントで落ちています。現在68.70」
「他の二人は」
「共に微小な変動に留まっています。特にファーストチルドレンには相変わらず揺れが認められませんね。たいしたものです」
「そう」
 能代の言葉尻に他人事のような色を感じてしまうのはミサトの苛立つ原因の一つになっていた。
 技術部から発令所に回されたこの男、仕事振りにいい加減なところがあるわけではないのだが、どこかその口調は戦場での状況報告というよりは、研究室での実験レポートのように聞こえてしまうのだ。後ろにいる民間人の時田が彼自身の製品のスペックを朗々と読み上げる声を聞いた時以上の苛立ちを能代から感じてしまうのだ。
「なら、拾号機を後ろに」
「ええ、いつもどおりに」
 単に相性の問題なのだろうか、ミサトは髪を直すついでを装いこめかみを押さえた。彼女も切迫した状況にジョークを持って切り抜けることはままある。緊張感の感じられない報告ならマコトや名取三尉もしないではない。この男だけに苛立つのはなぜなのか。
 いや、この男だけではない、彼女に対しても……。
 ミサトはこの場から退去させたリツコの白衣の後ろ姿を思い浮かべていた。
「目標、二群に別れます」
「よーやく戦術行動ってワケね。今更遅いっての、カブトガニ」
 胸元にあった長い髪を背中へ流してミサトはメインスクリーンを見上げた。
 十三体の使徒の一部が針路を保ったままやや増速した結果、前に八体、後に五体の二群を形成しつつあった。
「前衛と後衛でしょうか」
「あるいは囮と本命」
「いずれにしても的です。エヴァからすればノロマで大きい的ですよ」
 マコトはミサトにほくそ笑んでみせた。
 そうだ、なぜ彼では気にならず、能代では気に障るのだろう。正規の一尉と二尉待遇技官の差なのだろうか、自分はたかが三佐だというのに既に階級に拘泥する人間になってしまったのだろうか、所属を意識する人間になってしまったのだろうか。
 技術部長だからリツコをこの場から追いやってしまったのだろうか……。
「射程に入ります」
 先程のJA2との戦闘の際に第七拾使徒群の外骨格強度マッピングは完了していた。有線供給型陽電子砲を五千メートルの距離で使えば、特に厚い部位でない限り二秒の照射で殻を消滅させることが可能である。その間合いを告げるオペレーターの報告が、今や届いた。
 ミサトは三機のエヴァンゲリオンへの回線を開いた。
 頑張ってね。
 発令所を去る時にリツコが投げかけた一言がミサトの脳裏にこだました。
 がんばってね……。
 何をこだわってるの、考え過ぎよ、ミサト、あれは冷笑でも捨て台詞でもない、一緒にやってきた戦友の励ましの言葉じゃないの、そうよ、あまりに戦況が有利だから余計なことに気を回し過ぎているだけなのよ、リツコは私に悪意なんか無い、私だって……。
 いいえ、わたし……。
 瞬きもせずスクリーンを険しい目つきで睨んだままのミサトが固まること数秒、発令所要員の何人かが何事かと思い作戦部長の方へ頭を向けた頃にようやく彼女は口を開いた。
「六号機、初号機、射撃を許可。拾号機、待機」
 ミサトは唾を飲み込んだ。いつもの戦闘では不安を抑えるためであるが、不安材料の見当たらない今日に限って別に飲み込むことがあった。
 それは後をひく苦い味がした。

 素粒子物理専攻の研究者にとっても経験を積んだ漁師にとっても高エネルギー陽電子の奔流にかき乱される潮の香りは未知の嗅覚であるに違いない。
 その匂いを嗅ぎとれるはずの場所に位置するエヴァンゲリオンを操る三人にとってもエントリープラグに入っていてはやはり未知であることに変わりはなかった。血の味と血の匂い、LCLの中に身を置けばそれしかない。
(海で泳いだのは何年前だろう……)
 血の匂いの中でトリガーを引きつつシンジは海風の香りを思いだそうとしていた。
 第七拾使徒の外骨格は外見は一様に黒色であったが強度には格子状のむらがあった。狙うのはもちろんその中の薄い箇所である。狙う場所が光学像からでは判別不可能とはいえMAGIの直接支援を受けた照準はレイにとってもシンジにとっても容易だった。
 輝点が使徒を捉えている外部映像の中をちろちろと泳ぐ。そこへ円に縁取られた十字線の交点をかぶせればいい。指先に力を入れる。命中、そのまま照射。白い煙が照射点に立ち黒い煙が混じり二秒後には極彩色の光が見え隠れする。陽電子流に引き裂かれる生体組織、そこから生じる奇妙な煙と反応炎は外の音の聞こえないシンジにしてみれば使徒の断末魔の絶叫の代わりにも思えた。
(潮の香りってどんなだったろう……)
 日傘をさした母が海岸を歩いていたのを乳母車の上から見たような気がする。その時自分も嗅いだはず。
(何年前だろう……)
 三秒の照射時間、十秒の冷却時間の繰り返し。
 一体、また一体、次々と使徒は屠られていった。
 前方に位置していた八体は既に照射を受けた順に停止、累々と列をなしていた。一体などは過熱して気化した内部組織が外殻を吹き飛ばして四散しているという有り様だった。
 残るは五体、うち四体が横一線に並び、後ろに一体。最後尾の一体は終始群の中央にあって傷を受けなかった一体である。
 初号機、六号機から目標まで二千メートル。拾号機から目標まで三千メートル。
「拾号機、射撃許可」
「了解、いきます」
 戦列に加わったマナが前列右端の目標に照準。だが六号機は入れ代わるように武器を手放した。
「どうしたの、レイ」
「照準精度が取れません。携行ライフルに換装」
 伏せていた六号機は膝立ちになって携行型ライフルを構えた。有線供給型に比べて出力は一桁低下する。
「ミサトさん、ぶれがひどい、僕も持ち換えます」
 初号機も続いた。
「銃身の冷却効率が落ちたようです。どうやらシミュレーションの湿度の数値が甘かったのか……」
「もういいっ」
 怒声で能代を遮りながら、ミサトは初号機と六号機の処置を思案した。
 個々の近接戦闘能力は所詮は砲台のJA2ではエヴァンゲリオンに逆立ちしても及ばない、そのJA2が相手を出来た第七拾使徒、五対三でもこちらの優位は動かない、拾号機基点に配置すれば更に……。
 即断したミサトは怒気の拭いきれない声で仕切直しを命じた。
「六号機、初号機。拾号機の位置まで直ちに後退」
 この作戦部長の指揮に瑕瑾を求めるとすれば二機同時に移動させたことであろう。
 初号機、六号機ともライフルをたずさえて後退した。その速度は確かに使徒に優った。
 二機の後退する間も拾号機は横並びで迫る使徒への陽電子照射を続けた。MAGIによって優先順位付き目標選択案は、リアルタイムで射手のマナに外部映像上を動く輝点となって示される。輝点に十字線の交点を一致させる。調定に二秒と少し。トリガーを引く。ワン、ツー、スリー。
 照射を受けた一体は巨体を震わせて贓物を撒き散らし、迷走し、停止した。
「さいってー」
 マナの口をついて出た言葉は、シンジに、レイに、そして発令所の面々に届いた。
 ミサト以下、発令所のスタッフにとっては接敵以来終始有利な戦闘だった。
 シンジにとって、トリガーを引くだけの気楽な戦闘だった。
 レイにとって、いつものルーチンだった。
 だがマナは別種の感情を抱いた。
「三佐、拾号機のシクログラフに!」
 名取の声につられてミサトがあるモニターに目をやると、そこには平常であれば平行線が並ぶはずの表示が激しく波打っていた。
「セブンスチルドレン、シンクロレートは58.88……」
 戸惑いつつ報告する能代。それを聞いた人間にも戸惑いは伝播した。高いとはいえないものの懸念するには及ばない数値。現に拾号機は戦闘続行中ではないか。だがエヴァンゲリオンの操作に欠かせないエヴァンゲリオンとパイロットのシンクロが乱れに乱れた状態にあることも事実。
 そして拾号機の放つ陽電子流は初号機と六号機の退路とほとんど重なっている。
「拾号機、射撃中止」
 誤射を案じたミサトの指示でマナの指がトリガーを離れる。だがエヴァンゲリオン拾号機の中に乗るマナは視線を使徒から逸らすわけにはいかない。使徒はエヴァンゲリオンが自らを阻むものだということを知っている。人間が使徒を敵性体としているようにほとんどの使徒はエヴァンゲリオンを排除すべき敵として行動している。敵を前に目を背けては敗北は必至、これは対使徒戦闘でも変わらない。
 接近する使徒群、残るは四体。
「シンクログラフ、依然不安定。不規則で追跡できません」
「シンクロレート、58.86。下がってはいますが……」
 矛盾する報告にミサトは唸った。
「MAGIの判断は」
 能代がキーを叩く僅かの間、ミサトの心に澱のようなものが溜まっていった。
「暴走の兆候と出ました。三者一致です」
「くっ。六号機、拾号機からライフルを受け取って。その後拾号機は撤収」
 ついに拾号機は使用不能と断じる作戦部長の正式な命令が下った。
 レイの乗る六号機が拾号機へと駆け寄る。初号機も続く。拾号機は定位置。
 三機ともが集結しようとしていたその時、三機ともが攻撃体勢になかった。
 使徒四体のうち、最後尾を行く一体の黒い体表面が陽炎のように揺れた。
「も、目標、再分裂……」
 最後尾を進んでいた使徒は五体に分化した。
「シンジ君、反転しろ!」

16

 ほんの少し前まで勝ったつもりでいた発令所の面々は状況の急変に硬直してしまった。その中で真っ先に立ち直ったのはマコトだった。彼の咄嗟の指示がなくては初号機の反転は致命的なまでに遅れたはずだ。
「初号機、白兵戦闘! サポート急いで!」
 次にミサトの声に弾かれたようにスタッフたちが我に帰る。
 反転突入した初号機は先行していた使徒三体と急速に間合いを詰める。その後ろには今や五体が続いている。ではこちらの後詰めの六号機と拾号機はどうするか、さすがにこれは先程のように上官を差し置いて命令するわけにはいかず、マコトは横に立つミサトの方を向いた。
「レイ、近い方からどんどん狙って」
「了解」
 上官のアバウト極まりない命令、だが誤解しようがない命令。
 拾号機が撃っていたライフルを今度は六号機が構える。だがこれはそのサイズから伏して構えねばならないし一体につき照射二秒冷却十秒掛かる遠距離砲戦装備。乱戦の掩護射撃には向いていない装備だった。
「シンジ君、一番奥の目標に攻撃を集中して」
「でも、囲まれたら……」
「他はレイが仕留めるわ。構わず突入して」
 初号機が最初の使徒とすれ違う。使徒はゆっくりと針路を変えた。初号機の方に。
「三佐、分裂母体は六号機に狙撃させた方が」
「日向君、拾号機回収の指揮を取りなさい」
「は、はい」
 そんなことをしている場合ではあるまいという警報がマコトの脳内を駆け巡る。
 だがセブンスチルドレンの出鱈目ともいえるシンクログラフを再度確認すると、彼なりに理由を見つけて拾号機回収の任にあたった。

「ご苦労様です。機体はすぐに中に移します」
 ハンガー前までのタキシングを終えたRF−2を降りたパイロットを空自整備員の怒鳴り声が出迎えた。エンジンのうなりも収まっていないうちである。
「慌ただしいな、随分」
「あいつら落ち着いた顔しながら、ねちっこく急っつくもんで」
 パイロットは整備員が肩越しに指し示した方を見やった。ネルフ派遣のテクニカルスタッフが数名陣取っていた。
「これから直ちにポッドの回収だそうですよ」
「ほう」
 ヘルメットを脱いだばかりの彼には滑走路の照り返しで熱せられた空気も涼しく感じられた。上気した彼と同様、RF−2もまだ熱を持ったままだった。
「火傷してまでも他人には触らせたくないらしいな」
「一尉、一体何を見たんです?」
 整備員は幾分声をひそめて聞いた。パイロットは整備員が小脇に抱えているクリップボードをちらりと見た。チェックリストの中で機首下の装備の項目が空白になっていた。ネルフからの人間が扱うのであろう。
「知らなくてもいいことだ」
「気になるじゃないですか」
「ゴキブリ使徒に蜘蛛ロボット」
「はあ」

 シンジは指示された最も遠い使徒目掛けて初号機を走らせていた。
 装備は両手のプログレッシヴナイフ二振り。
 それだけの得物ということに不安を感じる前に目標への間合いにはたどり着いていた。逆手に持った左のナイフを振り上げて突き立てる。手元へと引き裂く。裂け目から生体組織を覗かせた使徒は身悶えるようにその巨体を上によじる。初号機は使徒の旋回を避けて回りこみ今度は二本のナイフで同時に二筋の亀裂を刻み、使徒の体液を噴出させた。
「よし、これで」
 前のめりにメインモニターを凝視していたミサトの漏らした言葉は発令所の人員がひとしく思ったことだった。これで、勝てる。
 六号機からは陽電子の火箭が次々に伸びていた。結果的に初号機は囮の役割を果たした。初号機へと取り付こうとした使徒のことごとくが、自ら六号機のライフルの射線に近づくことになって、撃破させられていた。初号機が攻撃中の、分裂母体とマコトが称した使徒以外で残るは一体。次の照射まであと十秒。これで、勝てる。
 拾号機のエントリープラグ内ではマナが両手で目を覆っていた。
 マナは震えていた。どれだけきつく目蓋を閉じても拾号機の目が捕らえた光景が彼女の視神経に容赦なく入り込んできていた。
 端から見れば拾号機はただ立ち尽くしているだけだった。発令所のコンソールから見ればマナのシンクロレートは彼女のシンクログラフとまったく噛み合っていなかった。だがほとんどの人間が、冬月までが戦局の焦点にある初号機と六号機に目を奪われてしまっていた。不審を感じ続けたのは技術部の能代だけだった。
 初号機の背後に迫った使徒に六号機のライフルから伸びた光条が突き刺さった。三秒の照射、海風に吹かれて湿度の高い戦場に打ちこまれた陽電子の楔の通った後を白煙の渦がしばらく取り巻いた。その先には照射されて出来た外骨格の破孔を中心に縦横に広がった亀裂から膨張した体液を染み出させた使徒が停止していた。
 初号機はそれに構わず組み伏せた最後の一体、分裂母体の使徒に止めを刺すべく左手のナイフを捨てて使徒の外骨格の亀裂に手刀を突き入れた。
(……手応えが……)
 初号機の左手は容易に使徒の体内に侵入していた。
 次いで右手も外骨格の亀裂に引っ掛けて力を込める。脈動する生体組織が露出する。
「コアはその先よ、潰してっ!」
 ミサトの指示を待つまでもなくシンジは使徒の体内にある初号機の左手の先にATフィールドを発生させた。
 その手が光に包まれる。
「干渉パターン、検出」
「使徒のATフィールドです」
「体内……に?」
 左腕に抵抗を感じると、シンジはATフィールドの出力を上げた。ATフィールドの相互干渉パターンは、眼前に広がる外部映像からでも、使徒の臓腑が同心円状に泡立つことから見て取れた。
 そして円の中心に赤い球体。
「そこよ!」
 光纏う初号機の左手が使徒のコアを襲った。

17

 LCLを洗い落とし私服に着替えたマナがうな垂れつつブリーフィングルームに入ってみると、そこには読書中の先客がいた。
 ためらいがちにではあるが、マナは話しかけた。
「あ、あの……」
「なに」
 レイの赤い瞳に自分が射抜かれるような力を感じるのはマナにとっては初めてのことだった。
「今日は、すいませんでした……」
「そう」
 戦闘で協力できなかったマナを追求するでもなく視線を膝の上の本に戻すレイ。その仕草にマナは引っかかる物を感じた。
「怒ってないんですか? 私、何も出来なかったのに」
「……別に」
「はあ……なんか自信なくしちゃう……あんな大事な時に……なんで私……」
 マナの声は小さかった。
 だが隣に座る者が聞き取れないほどではないはずだった。マナは当然自分の言葉はレイに届いているものだと思っていたが、横目で見ればレイは黙然と活字を追っているようにしか見えなかった。
「綾波さん」
 マナの声が高くなった。
 シャワーのほてりがそろそろ退くのと入れ代わるように苛立ちが彼女を支配し始めていた。
「教えて下さい。私、まだ色々わかんないことあると思うんです。綾波さんに迷惑かけたり、シンジの足を引っ張っちゃうこともあるかもしれない。だけど、」
「だけど」
「そ、その、だから失敗とかしちゃうかもしれないけど、もしミスとかあって、それで綾波さんが気付いたら教えて下さい。私、頑張って、その次から失敗しないようにしますから」
 レイの返答は昂ぶったマナとは対照的な声だった。
「私はあなたのことを知らない」
 この言葉がマナには機械の合成音のようだとしか思えなかった。機械が教科書の例文を読み上げているようで、あなたという二人称が示す人間が隣に座っている自分であるということを汲み取るのにさえ苦労した。
 どうやったらここまで平板な声を出せるの……
 マナはレイの手元に広げられた本を見た。マナにとっては出鱈目な模様でしかない化学式が並んでいた。
「綾波さん、お腹って空きますか?」
 レイから目を逸らしたマナの声にほんの少し挑むような色が混じった。
「空く」
 レイの声には全く変化は無い。
「綾波さん、御飯食べるの好きですか?」
「好きとも嫌いとも……違う」
「何がです、何が違うんですか、好きか嫌いか聞いてるだけじゃないですか、そんなことも答えられないんですか?」
 レイがゆっくりとしおりを挟む所作までがこの時のマナには気に障った。
「泣いたり、笑ったり、美味しいもの食べて楽しくなったり、そんなことも知らないんじゃないですか? 綾波さんはっ!」
 クローンだから、
 マナがそう続けようとして、その時、ブリーフィングルームにミサトが、その後にシンジと白衣を着たスタッフの一人が入ってきた。
 自らの左腕をさすりながら白衣の中年男と話しながら部屋に入ったシンジが見たのは、椅子に座るレイの前に立ちはだかり気色ばんでいるマナの姿だった。
 同じくこの光景を見たミサトは力を抜いた声色でいった。
「あんれ? どしたの、マナちゃん?」
「……何でもないです。葛城さん」
 ミサト、じゃなくて、葛城、ね……。
 眉をひそめかけたミサトだが、何事もなかったように笑顔を作ると、同室の人間達に手を鳴らしながら告げた。
「はあい、座って、座って。面倒臭い反省会はちゃっちゃと終わらせちゃいましょ」

「だからさ、パイロット起因とはいえないんだから、マナちゃんもそんな気に病むことじゃないし」
 一通り、戦闘経過を俯瞰していた者の立場で述べた後でミサトはいった。
「シンちゃんも後退、再反転以降は、よくやってくれたわ。後になってみればコース取りもベストだったといえるしね。だからまあ、結果オーライ、ね」
 子供相手、と加減するミサトだった。これが作戦部内、あるいはネルフ幹部会であれば、今回の対第七拾使徒戦闘は、身を斬りあうような応酬が待っているのは確実の、無駄の多い戦闘であった。
 N2弾が使えていたらというミサトの悔いは大きくなっていた。
 それ以上にJA2の制式採用に傾いてもいた。
「何か質問は」
 三人のチルドレンは沈黙でミサトに答えた。
「んじゃ、今日はこれで終わり。ご苦労さんでしたぁ……レイとシンジ君はね」
「私は?」
「マナちゃんは、疲れてるところで悪いんだけども、もう一回フィジカルチェック受けてほしいって。こちらの……」
 立ち上がりかけたミサトは隣に座る男の方に視線を向けた。
「鬼頭です。霧島マナさん、通常は省略している神経接続解除後の……ああ、六時間後のパラメーターを念のため取りたいので。よろしく」
 男は鬼頭と名乗り、懐中時計を取り出しながらマナにいった。
「三十分もかかりませんので」
 鬼頭は付け加えた。戸惑っているマナの肩をシンジがぽんとたたいた。
「終わるまで食堂で待ってるよ。一緒に帰ろう」
「……うん、じゃあ待っててね。一人で先に帰ったりしないでよ」
「待ってるって」
 シンジは笑うと、鬼頭とその後に続くマナ、そして「シンちゃん、やっる〜ぅ」とからかうミサトがブリーフィングルームから出ていくのを、椅子の位置を直しながらやりすごした。
「綾波」
 そして部屋を出ようとするレイの背中に声をかけた。
「マナと、何を話していたの」
「……何も」
「そうは見えなかったけど」
 レイはシンジに振り向かなかった。うつむくだけだった。
「僕にはいえないことなの」
「あの子の瞳は赤くない」
 二人は目を合わせなかった。
 レイは立ち去った。
 天井の隅にある見慣れた警備システムの監視カメラが、取り残されたシンジにとってなぜか無性に腹立たしかった。

 先程までのブリーフィングルームとは違って監視の目や耳を掃除済みの、とある一室でミサトを待っていたのは、保安部長の熊野だった。
「首尾は」
 一言だけ熊野はたずねた。対使徒戦闘のことでは、ない。
 ミサトが無言でディスクを手渡すと熊野の口が緩んだ。
「空自に残っていた分は回収した。これでJA2導入の反対材料は存在しない」
 ミサトが部下の名取によってMAGIから略取させた部分の戦闘データーの入ったディスクを持ち去る熊野は、日本重化学工業共同体の切り崩しに展望が開けたことに笑みが抑えられないようだった。
 その後ろで、笑えずにいたミサトは唾を飲み込んだ。
 苦い味がした。


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ver 1.00
1998/10/27
copyright くわたろ 1998