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 マナは機嫌が悪かった。その日に限ってシンジだけがシンクロテスト延長を告げられた。とりたててシンジの数値が悪かったわけではないのだが。とにかく今日はシンジと一緒に帰れない。それだけのことで周りの何事も色あせて見える。
 碇シンジは霧島マナにとって何もかも任せられ頼ることの出来る人間になりつつあった。
 彼女にしてみればこの関係はもちろん恋愛である。だれがどこでいかなる思惑を巡らそうと、彼女はそう信じていた。

 第拾七使徒襲来後、科学者としてのリツコの心を捉えた疑問は何故使徒が人の形を取って現れたかということである。
 第拾七使徒がこの世にその形を出現させた当初は使徒ではなかったという調査結果をネルフは得ていた。ただしその調査は信憑性について留保が付けられていた。後に第拾七使徒、第拾八使徒としてネルフによって処理された渚カヲル、山岸マユミの名を持つものを生み出したゼーレが壊滅してしまってから時間を置かれて行われた調査だからである。だが大部分散逸してしまったもののゼーレの実験の成果から、彼らが特に遺伝子研究の分野で傑出していたという事実をリツコは認めざるをえなかった。
 彼らは使徒に近づこうとしていた、そこに手を届かせようとした、そしてその直前使徒によって滅ぼされた、ネルフと同じ目的を反対の手段で彼らは追っていたのだ、リツコはそう理解していた。
 人と使徒、0.11%の遺伝子の違い。その間は僅かなようでもあるし、絶望的な隔たりでもある。
「気分はどう、シンジ君」
 実験管制室にいるリツコはテストプラグ内でシンクロ状態にあるシンジを呼び出した。
「悪くないと思います」
「いつもと違う所は無いかしら?」
「いえ、そんなことは……」
「気付いたことがあったら漏らさず自分の言葉で表現して。あなた自身の感覚が重要なのよ」
 人の形の使徒。0.11%を埋めるものだろうか。渚カヲルは使徒。山岸マユミは組織を採取出来なかったものの使徒。マリー・サクラは使徒。槙タカオ、使徒、ただし未覚醒。
 リツコの管理下の綾波レイは中間というにはかなり使徒に片寄っている。代を重ねるごとにその傾向は強まっていた。
 碇シンジは人間。
「どんなことでもいいわ。いつもと違う所は?」
「えと……なんとなく頭が重いような気がします」
「頭の、どこ?」すばやくリツコはシンジの頭部を示したサーモグラフに目をやる。
「額のあたりです……でもはっきりしたものじゃないし……」
「心拍数上昇」リツコの傍らのオペレーターが告げる。
「リラックスして、シンジ君」
「はい……でも何だか……」
「何なの、何でもいいから気付いたことはいってちょうだい」
「誰かに見られているような」
「主任、これは!」
 部下の示した片隅の計器の表示にリツコは危うく叫びそうになった。
「あ、そうか。当たり前ですよね。リツコさん達がモニターしてるんだし……」
 リツコは即座にオペレーターに命じた。
「接続カット、実験中止」
「了解。接続カット、実験中止」
 前触れもなく視界が明滅したことでシンジは軽く目眩に襲われた。リツコはテストプラグから出てきたシンジに手順に手違いがあったと詫びて、大事を取って精密検査を受けるようにいった。シンジはおとなしく従った。
 シンジに保安部員二名を付けて送り出したリツコは管制室内の椅子にへたり込むように腰を下ろして大きく息をついた。まるで第六拾七使徒発見の時のよう、背筋を冷たいものが走るのがはっきりと感じられた。
「サンプルとサードチルドレンのシンクログラフは?」リツコの声は上擦っていた。
「……完全に一致しています」
「絶対境界線突破のタイムラグは?」
「サードチルドレンの突破後プラス二十七秒でサンプルが突破しています。プラス三百二十秒で完全同調」
「速い……」
「これは同調というよりは干渉かも知れません。この場で断定はできませんが」
「なんてこと」
 リツコはシンジが入っていたテストプラグの隣にあるもう一本のテストプラグに目をやった。
 ゼーレの遺産となった研究の報告を読んだ時、リツコは創世紀のバベルの塔のくだりを思い起こしたものだった。彼女はもう一度同じ思いに囚われていた。ただし今度は彼女自身のいるジオフロントがバベルの街だ。
「赤木主任、サードチルドレン本人を使ったフィフスチルドレンのサンプルの実験は早急ではないでしょうか」
「そうね、シンジ君を使徒にするわけにはいかないわ」
 部下の諫言にリツコも肯かざるをえなかった。
「ただいま、カヲル君」
 結局シンジが帰宅できたのは翌日も遅くのことだった。鳥籠の中のシジュウカラがしきりに羽ばたいていた。シンジはお預けをくらった餌の催促をしているのだと考えた。

「やあ」
 鬼頭が入った部屋には刈り上げた頭髪の少年が頭の後ろに手を組み車椅子にふんぞり返って座っていた。何もない部屋で三十分ばかり待たせられたせいでか、ふてくされている様子だった。これは鬼頭の狙ったことだった。今回は被験者に少々感情的になって貰う必要がある。
「待ったかい」
「当たり前や。訳わからん検査やら何やらでへばっとる人間叩き起こしといて。なんや、今日はこんな窓も無い辛気臭い部屋放り込んでほったらかしかいな。ネルフちゅうんは一体どういう了見や」
「元気そうでなにより」
「前はこんなこと無かったで」
「前というと」鬼頭はぞんざいに羽織った白衣をたくし上げてズボンの尻ポケットから煙草を取り出して火をつけた。一口ゆっくりと吸い込み、吐き出す。
「一週間前のことかな、それとも三年前のことかな」
 軽く弾かれた煙草の先から灰が落ちる。
 鬼頭の予想通り、少年の眼差しは険しさを増した。
「三年前はネルフも人の扱い方知っとるとこやったで」
「君のことはその時分から知っている。君の方は私を覚えていたかね」
「おっさんのそのいけすかん顔見たんは一週間前にかっさらわれてきた時が初めてや」
「なるほど。さらわれた、ね」肩を揺らして笑った鬼頭は、今度はほとんど吸っていない煙草を床に落とした。
「ところで鈴原君、私は何に見える?」
「少なくとも食中毒の検査する医者ってのは嘘やな」
「ほう」
「白衣似合っとらんわ」
「ははは、実は君のお父さんと同じなのさ」
 少年の膝に置かれた手が、ぐっと握り締められた。鬼頭はこれで充分だろうと考え、話を終わらせようとする。
「協力してくれるな。昨日お父さんからも説明を受けたはずだ」
「説明ってか、脅迫の間違いやろ」
「君がどう受け取ろうと構わんよ」鬼頭は車椅子の横に立つと少年の左足を軽く小突いた。二人だけに聞こえる程の大きさで義足が音を立てた。
「協力してくれればな」
「それを脅迫っちゅうんや」少年は吐き捨てた。「ええでえ、もう。三年前のあの時がわいの運のつきやった。毒を食らわばっちゅうしな。煮るなり焼くなりせえ」
 鬼頭は苦笑した。この少年がふてくされて漏らした一言を彼の上司が聞いたら、それこそ彼女は嬉々として煮えたぎった大釜を用意するのではないかと思えたからだ。もっともたとえ煮るとしても全身ではない。要は遺伝情報を取るだけであるから体温程度に温めるのは各部位のサンプルを合わせても百グラムにもならない。
 ただしその後の作業は厄介なものになるだろう。しかし鬼頭は時間を掛ける価値があると考えていた。
「ではこちらへどうぞ、鈴原トウジ君」
 鬼頭は車椅子を押して隣室へと進んだ。

 ミサトは今開いているファイルを何遍か見かえしたが、当惑以上の感情はなかった。普通ならば出し抜かれたという焦りや、信頼を裏切る行為に対する怒りとかがわきあがってきそうなものなのだが。
 報告されている行動があまりに稚拙すぎるからだろうか。
「これが諜報活動?」
 手元のファイルから顔を上げたミサトは机を挟んで向かい合う痩身の男に視線を戻した。
「まあるで、おままごとって感じゃない」
「ならそう書いてもらるか、作戦部長の署名で。あくまで参考にと閲覧させたんぜ。本来これは上に上げるだけの書類なんだ」
 男は、上というときに露骨に顔をしかめた。ミサトよりも彼の背は高くないが、痩せぎすで筋の浮き出ている首からも短躯であるという印象は少ない
「一応チルドレンは作戦部の「資産」だろう。だから見せたんだぞ、葛城作戦部長。感謝されてしかりだ」
「そいつあどーも、熊野保安部長ドノ」
「感謝してないだろ」
「こいつはちょっち信じられないわねえ」
 目の前の熊野は珍しく苛立ちを表情に出していて、見慣れたその男の鉄面皮とのギャップがミサトには少しおかしかった。
「ならセブンスチルドレンの行動についての当方の分析は信用しないで結構。だがな、監視下に観測された事実を捻じ曲げてまではいないぜ」
「熊ちゃんは疑うのが仕事だししょうがないけど、たまたま霧島マナが思わせぶりな挙動を示した、これが本当の所じゃないの」
「身内を出し抜いて仕事する辛さってのが軍人さんにはわからんらしいな」
「調査部のことぉ?」
 手をひらひら振りながらいったのが熊野のカンに触ったらしい。
「あんたに見せるんじゃなかったよ」
 彼はひったくるようにしてミサトの手からファイルを取り返した。
「あのさ熊ちゃん」
「なんだよ葛城」
「それ」ミサトは人差し指で天井を指して「上、持ってくの?」
「当たり前だろう」
「ワンクッション置けないかな?」
 人差し指をそのまま唇に当てて、ミサトはウインクした。「副司令に、ね」
 熊野はしばしファイルとミサトの顔とを見比べていた。やがて口の端をゆるめてにやっと笑うと手狭な会議室から出ていった。
 最近のミサトはこの五人ほど入れば満員の小さな部屋に陣取ることが多かった。この部屋が入っているフロアは少なくとも先程出ていった熊野が「掃除」しているが、それ以外の本部施設は保安部長といえどもはや壁の耳を危惧せざるを得なかった。
 作戦部長であるミサトの本来のオフィスも例外ではなかった。ミサトだけではリツコとゲンドウには無力だった。
「副司令くらい取り込んどかないとね」
 この愚痴は彼女の部屋では口に出来ない愚痴なのだった。

「気分はどう、レイ」
「問題ありません」
 リツコの問いにテストプラグ内のレイはいつも通りの感情を感じさせない声で答えた。
「今何が見えてるかしら?」
「何も見えません」
 オペレーターが無言でリツコに向けて右手をかざした。指が三本出ている。二本になる。一本になり、手のひらがひるがえる。
 被験者であるレイの神経パルス表示が数秒間乱れた。管制室内の空気が緊迫する。リツコの表情も険しくなる。管制室にブリーフケースを提げた鬼頭が入ってきたことにも気がつかない。
「誤差2%」
 オペレーターが読み上げる。再びパルス安定。リツコはレイに尋ねた。
「何か見えてる?」
「何も見えません」
「目の前は何色?」
「黒」
「いつもと違う所は?」
「……」
「レイ、いつもと違う所は?」
「……つめたい……」
 リツコはわずかにオペレーターの方を向いて促した。
「体表温度変化無し、心拍数変化無し、血圧変化無し」
「脳温は?」
「変化無し」
 ようやくリツコの緊張は解けた。
「レイ、LCLは最初から一定の温度よ。あなたが、いま、冷たいと感じている。間違い無いわね」
「とても……つめたい……」
 リツコの喜びは彼女のほんの少し力を込めて握られたコンソ−ル上の右手に現れただけだった。それも背後に立つ鬼頭に気付くと、白衣のポケットの中に戻った。
「もういいわ、レイ。今日はこれで終わりよ」

「おめでとうございます」鬼頭は咳払いを一つ。
「ブレイクスルーとなりますかな」
 もとよりリツコはそのつもりである。彼女は鬼頭の言葉を無視した。
「遅かったわね。三週間もかかるなんて」
「今回は興味深いケースでした」それだけいって鬼頭は口をつぐんだ。だからリツコは後をオペレーター達に任せて彼を自分の研究室に通してやった。
「興味深いといったわね、鬼頭君」リツコは椅子にかけるのももどかしそうに急っついた。「有望なの、今度の候補者は」
 鬼頭は黙ってA4のファイルを一つ取り出すとリツコに差し出した。この上司には愛想を振りまくよりはむしろこのほうが受けが良いことを彼は知っている。
 眺めているとしか思えないようなスピードで記載されているデータを漏らさず読み取っていくリツコ。ファイル中程まで読み進んだ頃を見計らって鬼頭が口を開いた。
「ムサシ・リー・ストラスバーグ。欠陥が無いという意味では完璧ですな」
 リツコはファイルの前の方にある候補者の写真を取り外した。そこには日に焼けた精悍な顔立ちの少年が鋭い視線を投げかけている。
「組織検査と擬似信号検査では全て問題なし。主任の決済が下りれば第三新東京市に呼んで次の段階に移りたいと考えているんですが」
「主任はやめて。どのプロジェクトのことだかこんがらかる」
「んじゃ、部長」
 実際、リツコの肩書きは多い。ネルフ外部に公表出来ないものも含めれば三十は下らない。一度ミサトに歳の数と同じだけ増えていくと揶揄されたことがある。
「そうね、この子についてはこのまま進めて結構よ」
「どうも」
「それで他には」
 リツコのその言葉にそろそろ五十代になろうとする鬼頭はいたずらのばれた子供のような笑いを浮かべた。
「こんな検査だけで三週間もかかったなんていわせないわよ」
 次に鬼頭が差し出したのはファイルではなく一枚のDVDだった。
「すいませんが印刷する勇気が無かったんで、端末で。両面読めます?」
 リツコが手渡されたディスクから中の文書を傍らの机上にある端末の画面に表示させると、彼女の顔色が変わった。
「どういうこと?フォースチルドレンに?」
「彼は感染者、それも非常にユニークな経路のね。ええと、そこの4ってファイル」
 鬼頭がリツコの肩越しに画面を指差した。リツコの手がキーボードを滑ると画面に塩基配列の一部が表示され、
「それから5、8」
 何度も見た人間型使徒の塩基配列がその上に重なり、
「4の後半、不安定性を見て頂きたい」
 リツコが息をのんだ。
「ミッシングリング」鬼頭はほくそえんだ。「になりますかね、主任……じゃなくて技術部長」
 リツコは久しぶりに声を出して笑った。

「えーっ、じゃああの時シンジ入院してたのお」
 陳列された切り花に見入っていたマナが素っ頓狂な声を上げて振り向いた。シンジは慌ててかぶりを振った。
「じゃあ、なくて」
「知らせてくれればお見舞い行ったのにい」
「いや、だから、入院じゃなくて。一日かけて検査してただけで」
「入院だって。入院ってゆーの、それを」
「そうかな」
「ミサトもミサトよ。何で知らせてくれなかったのよお、もう」
「そんな大袈裟なことじゃなかったんだって、本当に」
「あーあ、何かシンジの看病やってみたくなってきたあ」
「は?」
 マナの迷走する思考に振り回されたシンジは間の抜けた声を出した。
「シンジもたまには見舞われる方になってみたいとかって思ったりしないの」
「そもそも病気しない方がいい」
「それはそうだけど……」
 会話が途切れてしまって、途端にシンジは自分の発言に後悔した。これから病院にアスカを見舞いに行くのだ。もっと他に言い方があったはず……
「あ、めずらし」マナが口を開いた。二人でいる時、話のきっかけになるのはマナであることがほとんどだ。
「すずらん……」シンジがマナの視線の先にある鉢のラベルを読んだ。
 季節の無い街。花屋を一歩出れば真夏の陽射し。店の中は四季折々の花が狂ったように咲いていた。
 滴のように垂れ下がる白い花を見てシンジが感じたのは儚さだった。
「感激い。私、鈴蘭なんて見るの初めて。ねっ、シンジは見たことある?」
「ううん、初めてだ」
「これにしたら?でもこれ……鉢植えだしねえ……うーん……」
 しばらく人差し指を唇に当てて考え込んでいたマナだが、背後で沈黙するシンジに唐突に振り向いた。
「シンジ」
「え、何?」
「綾波さんのこと考えてなかった?」
「……どうしてわかったの」
「私もこれって綾波さんだなって思った」
「どうして?」
「どうしてって……多分シンジと同じだよ」
 マナはそっと鉢植えの鈴蘭の葉の先に触れた。
「かわい〜い」
 垂れ下がる花が揺れた。
 ちりん……
 まるで澄んだ鈴の音のよう、シンジはそう感じた。
 もう一度マナが触れた。
 ちりん……
 『シンジ君、聞こえるかい』
 ちりん……
「!」
 ちりん……
 弾かれたようにシンジは花屋を飛び出した。辺りを見渡したがいつものように人通りの絶えた街があるだけだった。シンジはそのまま二三歩ふらふらと歩きだした。
「ちょっと、シンジ!」
 追いすがったマナに後ろから肩を掴まれて、ようやくシンジは我に帰った。
「あ……」
「ど、どうしたの、一体?」
「誰かが……呼んだような気がして」
「えぇ?」
 マナも自分達が立っている幅の広い道の続く先を見た。人影は無かった。
「誰もいないけど……」
「そうだね。ごめん、気のせいだ」
 この日シンジが買ったのは桃色のクレマチスだった。マナと別れて一人でアスカの病院に行った彼はいつものように花を替え、アスカの髪を梳いて、眠るアスカに向かってしばらく喋り続けた後で病室を出た。帰宅する途中でシンジは花屋に寄った。店内で少し逡巡したものの、結局鈴蘭を買った。
 シンジがアパートに帰るとシジュウカラのさえずりが聞こえた。鳥籠の扉は閉ざされたままだった。シンジは籠の中の水を替えると、その籠と手に提げていた鈴蘭の鉢を並べて床に置いた。
「カヲル君」
 膝を抱えてしゃがみこんだシンジは小鳥に話し掛けた。
「昼間はどこにいたの?」
 ちちっとさえずる小鳥。
 シンジは鈴蘭の茎を揺らした。白い花が震えた。雑多な花が並べられた店先では嗅ぎ分けることの出来なかった微かな芳香が漂った。
「空耳だったかな、やっぱり」
 もう一度シンジは鈴蘭に触れた。
「カヲル君には聞こえるの?」
 シンジには目の前の鳥の羽音だけが聞こえた。花屋で耳にしたかに思えた鈴の音も懐かしい少年の声も聞こえなかった。

 そこはネルフが将来多様な目的のために使うであろうことを想定して丸ごと確保した一ブロック続く民家の一つだった。ゲンドウとリツコにとっては多少の職権を使うだけでいつでも利用できる場所であり、また痕跡を残さずに立ち去れるという点で理想的な場所だった。
 二人にとって一ヶ月振りの逢瀬だった。
 リツコの到着から三十分時間をずらして彼女の待つ部屋に入ってきたゲンドウは、そこにいつものように水割りを作って待っている愛人の姿を認めた。
「時間、無いんでしょ」
「ああ」
 深く舌を絡めた後でゲンドウがいった。
「君はいい仕事をしている」
「そう」
「リスクを怖れるな」
 ゲンドウの嘘を、強がりを、リツコは自分の肌を這う唇から感じる。第拾八使徒襲来時にネルフは死海文書を手に入れたことで皮肉にも指針を失った。ゲンドウは打ちのめされた。
 それが結果的にこの二人の距離を縮めた。
「わかってる。シナリオなんて無いんだもの」
 リツコはゲンドウの手が自分のブラウスを脱がせていくに任せた。ほとんど肌があらわになる頃になって、さもたった今思い出したような声で彼女はいった。
「調査部は割れてるけど二課の相田が失脚した以上取り込めないわ。保安部長が直接動いてる」
「君の心配することではない」
「なら任せていいのね」
「ああ」
 再び舌を絡め合う二人。
 次いでリツコの手がゲンドウを裸にしてゆく。リツコの両手の指先がゲンドウの頬の髭を逆立てるように動き、色付きの眼鏡のつるに触れ、そのまま上にずらす。
 誰からもうかがえないこの目、もう私だけのもの。リツコがどんな酒よりも酔いしれる一瞬だった。自らの手でいかなる未来の待つシナリオでも書けそうな気がする瞬間だった。


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ver 1.0
98/03/14
copyright くわたろ 1998