剣は愛を語れず





  【8】



 ゴトゴト、ガラガラ……馬車は去って行く。

 座り込んで涙で滲んだ視界の中、彼を乗せた馬車は、どんどん、どんどん遠くなり、ついには見えなくなってしまう。

「シーグル……シーグルぅ……」

 泣いても泣いても、馬車は帰ってこない。彼は帰ってこない。
 道の真中で子供が大声で泣いていれば、やがて通りすがった村人がフェゼントを家まで連れて行き、泣きながら訴えた言葉で母親は事態を知る。
 母親は顔を真っ青にして、すぐに畑にいる父親の元へ行った。
 暫く後に、目を真っ赤にした母親と一緒に父親が家に帰ってきて、フェゼントは懸命に訴えたのだ、シーグルを助けて、と。
 けれど父親は落ち着いてフェゼントに彼を連れ去った者達の事を聞くと、辛そうにフェゼントを抱き締めながら言ったのだ。

 もう、シーグルは帰ってこない、と。

 フェゼントにはその言葉の意味が分からなかった。
 いつも家族を守ってくれた強い父がシーグルを助けに行ってくれないのが、どうしても許せなくて父を責めた。

 ――結局、父の言う通り、彼は帰ってこなかった。

 幼いフェゼントは父に事情を説明されても理解出来ず、暫くの間は、ただ、寂しくて悲しくて泣く事しか出来なかった。
 けれど途中から、フェゼントの泣く理由は変わっていた。
 フェゼントは悔しいと思った。
 弟を守れなかった事が。
 ただ、攫われる彼をみて泣く事しか出来なかった弱い自分が許せなかった。
 だからその分、もう弟を失いたくなくて、ラークの面倒をよく見るようになった。
 少しづつでも体も鍛えた。
 今度こそ何処にも連れていかれないように、末の弟をいつでも庇えるように。……かつて、シーグルが自分に対してそうであったように。

 ある程度の年齢になって、シーグルは祖父の家に引き取られたのだと理解出来たときには、彼が無事だという事には安堵したものの、でももう彼は家族ではないのだという事を実感してしまった。
 彼はもう他人なのだと。きっと、貴族になった彼は会っても自分を兄と呼ぶ事はないだろうと、自分の事など忘れているのだろうと。フェゼントはそう思い込んだ。
 ――それは怖かったからだ。
 次に会えた時にシーグルが本当に自分の事を忘れていた時に、自分が傷つきたくなかったから、だから予め、心に最悪の事態を刷り込んでおいたのだ。
 その所為で、フェゼントはシーグルを憎みさえした。
 もういないのに、もう他人なのに、何時までも母親に愛されているシーグル。
 彼がいる時は、いくら母親がシーグルばかりに愛情を注いでいても、彼を憎いと思う事なんかなかった。
 けれども、目の前にいる自分よりも、小さな弟よりも、ただいないシーグルの話ばかりする母親を見ていれば、彼に憎しみを覚えるのは仕方なかった。

 だから、再会した時の彼にあんな言葉が出た。

 けれども直後に、フェゼントは理解したのだ。
 幼い頃のように、兄さんと言った彼の顔が凍りつくのを見て、明らかに傷ついた顔をして瞳を伏せた彼を見て――本当は、彼は、変わっていなかったのだと。忘れてなどいなかったのだと。
 思った時にはもう遅かった。
 兄弟の心の間に深い溝が出来たのは、10年の月日ではなく、あの瞬間のあの自分の言葉の所為だった。
 馬車で彼が連れ去られたその時が彼と自分を引き離したのではなく、あの瞬間が決定的に彼と自分の心を引き離したのだと、フェゼントはそれを理解すればする程、自分の罪の重さと取り返しのつかなさに、ただ恐れて逃げる事しか出来なくなっていた。

 ゴトゴト、ガラガラ……馬車は去って行く。

 どうして、あの時の悔しくて悲しかった思いを忘れて、自分は彼を憎んでしまったのだろう。

 ゴトゴト、ガラガラ……馬車は去って行く。

 フェゼントの頭の中で、いつまでも過ぎ去って行く馬車の場面が繰り返される。

 ゴトゴト、ガラガラ……――ふと。
 目を開いたフェゼントは、自分がリシェへ帰る馬車の中で眠ってしまっていた事に気付いた。
 このところ毎日リシェと首都の往復で、シーグルを探し回っていた為疲れていたらしい。
 窓の外を見れば、丁度夕日に照らされたリシェの街が見えてきていた。
 今日も終ってしまった、と思いながら、シーグルが屋敷に帰っている事を願ってフェゼントは胸の聖石に手をやり、祈る。

 ――どうか、彼に何も起こっていませんように。
 彼と会って、彼を救えますように、間に合いますように。
 例え、彼が許してくれなかったとしても、どれだけ自分が罵倒されたとしても、彼の心が少しでも救われてくれますように。

 ゴトゴト、ガラガラ……夕日の道を、馬車はリシェへと向かって走る。
 屋敷に帰ったフェゼントは、結局、その日もシーグルが帰っていない事を知るだけだった。







 ――失敗した、と彼は直感で思った。

 ヴィド卿の屋敷から出て来たシーグルの姿を見て、フユは、自分が取り返しの付かない失敗をしたのではないかと、ほぼ確信に近い予感を感じていた。
 雨は既に止んでいた。
 街灯に明かりが灯りだし、もう少しで完全に夜がくる時間、ヴィド家の屋敷の門から出て来たシーグルは、ゆっくりと街中に向かって歩き出した。
 フユの位置からは、この暗さではその顔は見えない。
 だが、彼の足取り、力のない腕、纏う空気のどれもが、フユの中に嫌な予感を積み上げて行く。
 だから、ヴィド家の屋敷からそれなりに離れ、近くに人の気配がないと判断してすぐ、彼はシーグルの傍に駆けた。

 ヴィド卿とシーグルが接触するのは出来れば止めろとは言われているものの、現時点では少なくとも、ヴィド卿がシーグルに危害を与える事はない筈だった。ある意味シーグルの後ろ盾でもあるヴィド卿が、直接的に彼に何かをする事はない筈であった。だかこそフユは、ヘタに騒ぎを起こす事を避け、彼が屋敷へ入って行くのを見届けるだけに留めたのだ。

 ――そして彼は、予感が事実だという事を確認する。

 シーグルの前に姿を現し、銀髪の青年が上げたその顔を見た途端、フユは生まれて初めて、そして最悪の失敗を自分がした事を理解した。
 街灯の光にゆらゆらと照らされたその顔は、まるで死んだもののように生気がなく、青い瞳は意志の光が見当たらず、フユの姿を映しても動く事が殆どなかった。
 その、まるで人形のように無機質な顔の中、唇だけが静かに動いて告げる。

「……丁度いい、俺を、セイネリアのところへ連れて行ってくれ」

 その瞳同様、感情も意志もまったく感じさせない虚ろな声で、主の最愛の青年はそれだけを呟く。
 フユは、自分の失態に愕然としながらも、その言葉に従うしかなかった。







 シーグルが来ている、と西館にいたセイネリアに知らせにきたのは、幼いクーア神官の少女であるソフィアだった。
 更に彼女は、連絡を受けてその千里眼の術を使ってシーグルを確認したらしく、様子がおかしい、とどこか怯えながら伝えてきた。
 セイネリアは、その彼女の様子だけで胸に重いものが落ちる感覚を覚えた。嫌な予感が、ふつふつと心の奥に湧き上がってくる。

「俺を本館まで転送しろ、その方が早い」
「はい、では……」
「だめだ」

 少女が自分も行くと言い出す事は、セイネリアには予想がついていた。
 言う前に止められて、少女は訴えるような瞳でセイネリアを見上げる。

「お前が来ても出来る事はない。それより、レストかラストを捕まえて、俺の部屋に来るように言って本館へ飛ばせ。急ぎだ、分かったな」

 少女は泣きそうな顔をしながらも頷く。
 ここにいる以上、何があってもセイネリアの命令が一番優先されるという事を、まだ幼い少女はそれでも分かっていた。
 ソフィアの手がセイネリアに触れる。
 転送といっても、極近く、しかも傭兵団本館の転送陣へのそれは、転送時特有の空間のねじ曲がる様子を殆ど見る事もなく、一瞬でセイネリアの体を目的地へと飛ばした。
 ついた途端に、セイネリアは急いで自分の部屋に向かう。
 そして、部屋に入った途端、顔を上げた銀髪の青年の、意志のない青いだけの瞳を見て足が止まった。……いや、止まったのではなく、足が竦んで動けなくなった。

 セイネリアが一番恐れていた事実が、そこにあった。

 シーグルはセイネリアの顔をその瞳に映し、だが、その中には何の感情も浮かべてはいなかった。ピクリとも頬の筋肉は動かず、人形じみた動かない顔のまま、ただ、瞳だけはセイネリアを映していた。
 セイネリアは動く事が出来なかった。
 触れて、声を掛けて、ソレを確認する事を恐れた。
 もし触れたら、次は彼の姿さえ崩れてしまいそうで、セイネリアはただその彼を見ている事しか出来なかった。

「セイネリア」

 全く動く事のない顔の中、彼の唇だけが動く。動く事に違和感を感じる程、まるで人形の口が開いたように、それだけが動いて言葉を紡ぐ。
 ずっと、凍り付いたまま動けなくなっていたセイネリアは、その言葉に呼ばれてゆっくりと足を動かした。
 彼が自分を呼ぶなら、まだ完全に彼の心は消えた訳ではない――そう自分の心に言い聞かせて、彼に近づいて行く。

「シーグル」

 目の前まで来て名を呼んでも、彼は返事をしなかった。何の反応もなくただ立ったまま、傍に来たセイネリアを見上げさえもしないシーグルの体を、そっとセイネリアは抱き寄せる。

「まだ、お前はここにいるな?」

 強く抱きしめて言えば、腕の中の彼は僅かに身じろぎして、セイネリアの胸に顔を押しつけて言った。

「やる……お前に」

 やっと聞こえた声はあまりにも小さく、空耳だったのかと思う程のその声に、思わずセイネリアは抱きしめているその腕の力を緩めた。

「シーグル?」

 聞き返して、体を離して彼の顔を見ようとする。
 けれど、今まで立ったまま動かなかったシーグルの腕が、それを止めるようにセイネリアの腕を掴んだ。

「お前が、まだ、俺を欲しいというなら……全部やる。俺はもう、俺をいらない。だから、後は全部お前にやる。全部お前の好きにしていい……」

 声に彼の感情はない。
 あまりにも抑揚がなく、心のない声が伝える言葉は、本来ならセイネリアにとって何よりも望んでいた言葉の筈だった。
 だが、それが違う事は、最後の言葉が言われる前にセイネリアには分かっていた。
 心のないシーグルの声は、セイネリアに一番残酷な言葉を告げる。





「……だから、俺を壊してくれ、セイネリア」






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最後のシーグルのセリフは、この話を作ったときから言わせるのが決ってました。


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