後悔の剣が断つもの





  【4】




「俺を、どうする? セイネリア」

 セイネリアそのが声に目を開けば、シーグルは呆けたように何もない宙を見つめたままだった。セイネリアに尋ねていても、目の前にあるその顔を見ようとはしていなかった。

「どうもしない」
「何故だ?」

 声だけなら不気味な程穏やかな声音で、シーグルはセイネリアを見ないまま尋ね返す。

「その必要がない」

 セイネリアもまた、そんな彼の顔を見ていられなくて、身支度を整えるとそれだけを告げて立ち上がった。
 だが、立ち去ろうと向けた背に、シーグルの、やはり感情の欠片もない声が掛けられる。

「セイネリア」

 セイネリアは足を止めた。

「お前の言う通りだ。……もう、俺には価値などない」

 空虚な声は、セイネリアの中に痛みを落す。それでも、セイネリアにはこれ以上彼に掛ける言葉はなかった。――否、掛けるべき言葉が思いつかなかった。これ以上何かを言おうとすれば、感情をぶちまける事しか出来なくて、彼を傷付けるか追い詰める事しか出来ないと分かっていた。
 だから、セイネリアは気付かなかった。
 黙って立ち去るセイネリアの背中を、シーグルの青い瞳がずっと、完全に闇にに消えて見えなくなるまで追っていた事を。その瞳の中に広がる、声以上に空虚な闇を。

 さらにはその瞳が、まるで縋るように見つめているようだった事など、セイネリアが知る事はありえなかった。









 机の上に置かれた報告書の束。
 その内の何枚かを手に取って、セイネリアは深く椅子に腰掛けながらそれを読んでいた。内容はシェン・オリバーの調査報告書、特に彼の過去、彼がまだ首都を活動拠点にしてシーグルの両親と共に仕事をしていた頃を中心に、彼が首都を離れるまでの事が書かれていた。
 セイネリアの顔が、読み進める内に険しい表情を作っていく。
 最後までそれに目を通すと、心底嫌そうに彼は呟いた。

「クズが……」

 そうして、手に持っていたものを机に投げて、セイネリアは腕を組む。

 シーグルの様子を見れば、何者かに抱かれているその行為は、嫌々しているのだという事など分かる。
 シーグルはついに相手の名を言いはしなかったが、最近の彼の行動を辿れば、相手が誰かなど調べる必要さえなく予想出来た。
 そして、相手がこのシェン・オリバーであるなら、何度か会っている分、シーグルが脅迫されている以外にはありえない。

「カリン」
「何でしょう」

 声を掛けたものの、セイネリアの瞳が彼女を見る事はなかった。
 琥珀色の瞳は何かを考えているように、部屋の一角をただ見ていた。

「これから手紙を書く。誰か届けさせる者を確保しておけ」
「急ぎですか?」
「急ぎだ、リシェまで。馬を出させろ……いや、使えるなら転送を使え」
「了解しました」

 すぐに礼をして去って行こうとしたカリンは、だが、部屋を出て行こうとしたところで呼び止められる。

「待て」

 振り向けば、セイネリアは考え込むように顔を俯かせ、目を閉じていた。

「シェン・オリバーの現状を探れ、多少厄介な事になっても構わん。……それと、シーグルを奴と会わせるな」

 カリンは一瞬、主のそんならしくない様子に目を細める。
 それでも、彼女が返す言葉に変わりはない。

「了解しました。そちらもすぐに手配します」

 そうして今度こそ部屋を出たカリンは、ドアを開け外に出た途端、入れ違いのように入ろうとしてきたこの傭兵団の副長であるエルと顔を合わせた。
 カリンは振り返って主の顔をみる。
 セイネリアはエルに入れと言うだけで、カリンの方に目を向ける事はなかった。つまり、まだ彼の方の件は自分が動くまでもない段階だと悟り、彼女はそのまま部屋を出て行く。
 去っていく彼女の後ろ姿をちらとだけ見て、エルはドアを閉めた。

「いいのか?」
「まだ、こっちの話は動きがない」
「確かにな」

 不機嫌そうに答えたセイネリアの顔を見て、エルは肩を竦めた。

「なんか機嫌悪そうじゃねぇか。まーたあの坊やの事か?」

 言いながら、部屋の隅の椅子をセイネリアの傍まで引っ張ってきて座る。

「……本当に、らしくないな。わざわざ忠告する為にあんな手間かけてさ、しかも結局あの場でヤっちまって、ご丁寧にあの坊やがちゃんと帰れるかまで監視させてたって?……なーにが最強の男だ、逆らったら死ぬより恐ろしい目に合うだ、腑抜けちまったな、セイネリア・クロッセス」

 それにセイネリアが言い返す事はない。ましてや、侮辱されたと怒る事もない。エルの立場からすれば、問答無用で斬られても文句が言えないくらいの発言だったにも関わらずだ。
 ただ、彼は自嘲の笑みを薄く唇に乗せて、視線を遠くに向ける。
 そんな反応をするこの男を、エルは見た事がなかった。
 自然、溜め息が口から漏れる。

「まぁ、俺個人としては、あんたも人間だったんだってほっとした部分もあるけどな。今までのあんたは……なんというか、完璧すぎたよ、人間じゃないみたいにな。だからこそ、今のあんたは嫌いじゃない。前のあんたは主としちゃ完璧だったけど、今のあんたの方が……なんていうんだろ、信頼出来る、いや違うな、前はどこか得体の知れない化け物に仕えてる感じがしたけど、今はあんたって人間に仕えてる気がして……くそ、いい言葉が思い浮かねーな、とにかく、安心したんだ俺は」

 エルは頭を掻く。
 セイネリアは黙ったままそのエルの顔をじっと見ている。
 いつでもぞっとするような昏い底の見えないものを感じさせた金茶の瞳が、彼の中の感情を映して苦しげに細められている。

「前のあんたになら、命令に義務と理性からの判断だけで従った。でも、今のあんたになら、多分、頭で考える前に、感情で従える」
「……成る程な」

 セイネリアの口元の笑みが深くなる。
 彼は、目を閉じて頭を背もたれに深く凭れ掛けた。

「マスター?」

 何も言ってこないセイネリアに痺れを切らしたエルが、確認するように呼ぶ。
 途端、何かを考え込むように閉じられたままだった、セイネリアの瞳が開かれた。

「ラッセエリアとワールラーズ、そっちに入れてる者からの連絡はどうなってる?」

 琥珀の瞳から感情を消し去って、セイネリアが体を起こしてエルに向き直る。
 その声も、気配も、普段通りのセイネリアだった。
 エルはバツが悪そうに顔を顰めながらも、背筋を伸ばして、本来ここにきた目的だった報告を主にする。

「どっちも同じ返事だそうだ。こちらに任すとさ」
「つまり、危ない橋はこちらに渡らせて利益だけ欲しいという事だな」
「まー、そういうこったな。相変わらず汚ねぇ奴ら」
「だが考えが分かり易すぎる分、扱い易い」
「確かになぁ、面白いようにこっちの計画通りだな」
「手は足りているか? 向こうの人手が欲しいならカリンに直接言っても構わんが」
「今はまだ。そっち方面で人手足りなきゃフユが言うだろ」

 いつも通りの会話、いつも通りのセイネリア。
 いくら感情に揺れていたとしても、こうして彼がここの長としての仕事に支障がない様子を見ればこそ、エルはまだ安心していられる。
 けれどもやはり、言わずにはいられない事もある。

「なぁ、マスター」
「なんだ」

 本来の用件が終わり、退出する為に椅子を元の場所に戻しながら、エルは迷った末に言う。

「人間くさいあんたは嫌いじゃない。けどな、やっぱりあの坊やからは手を引くべきだ。どっちかが破滅する前に離れた方がいい。あんたに人間らしい感情があるのは嬉しかったけど、でもあの坊やはだめだ」

 その返事を聞く事もせず、言うだけ言ってエルは部屋を出て行く。
 一人になったセイネリアは、再び目を閉じた。

 他人に言われなくとも、シーグルとの接触を一切切るのが一番いい方法だという事くらい、セイネリアにも分かっていた。
 だが、分かっているといってもそれで割り切れないのが感情だ。

「感情で従える、か……」

 エルの言った言葉を思い出し、セイネリアは額を抑え、喉を震わせる。
 人は感情で動くものだ。
 そう思ったからこそ、その人間が強く願う物を条件に自分に従わせる事を考えた。
 だがそれは違ったのかもしれない、とセイネリアは思う。
 感情は、感情に従う。そう、なのかもしれなかった。
 今までのセイネリアには、彼らは本当の意味で感情で従っていたのではないのかもしれない。

 感情というのは厄介だ。

 思考で制御出来ない。冷静で正しい判断を下せたとしても、それを実行出来ない。
 シーグルを切り捨てれば全て元に戻る事が分かっているのに、感情を覚えた心はそれを許さない。
 ならば思考は心に問う。

「何を望んでいるんだ、俺は……」

 彼が自分を愛する事などある筈がない。
 彼が自ら自分のモノになどなる筈がない。
 感情に気付かない内ならばまだ、ただ、彼が彼のままで手元に置いておけさえすれば満足出来ると思っていた。嫌々自分に従うくらいがいいなどと、よく言えたものだと我ながらに思う。
 彼が欲しい。
 壊したくない。
 彼のままの彼が欲しい。
 そんな都合のいい望みなど、叶う筈がない。
 ならば諦めるか、他の誰のものにもさせないように殺すしかない。

 理性が出す結論は、単純で明確だ。
 感情が出す結論は、不明瞭で不可能だ。
 何が正しいかなどわかっている筈なのに、感情を無視出来ない。
 不可能を望む馬鹿らしさを分かっているのに、諦めきれない自分の愚かさが度し難い。

 だが、これこそが感情なのだと、セイネリアは胸の苦しさを手で押さえ、自らを嗤う事しか出来なかった。






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H後から、セイネリアサイドのお話でした。……一方、の方のシーグルは不穏な雰囲気ですけどね。次回はシーグルの方の話になります。どんどん不穏な方向へ話が進んで行きます。


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