世界の鼓動と心の希望




  【6】



『食事後、シルバスピナ隊長様は主とお話をされたのですが……その、係の者が間違ってあの方にも主と同じ酒を出してしまいまして……』

 と、昨夜、何時まで経っても部屋に帰ってこないシーグルについて領主に聞きに行った時に言われた言葉を思い出して、グスは大きくため息をついた。
 一応、ランによればここの領主は信用出来そうだという事だし、実際、夕食時に見た感じでも、少なくとも策謀を巡らすようなタイプではないとは思えた。とはいっても、朝食時にも姿を見せなければ他の連中も騒ぎ出す訳で、シーグル自身もそれを十分分かっている事は間違いない。あの真面目すぎる青年なら、本当に体調が悪いだけなら意地でも顔だけは見せるのではないか、とか、顔を出せないだけの何かがあったのではないか、とか、ともかくいろいろ心配になって、グスは昨日からずっと気が気ではなかったのだ。
 それでも、まだどうにか大事にせず黙ってしたがっていられたのは、朝食時に言っていたここの使用人の言葉故である。

『まだお加減がよくないとかで、ご朝食は辞退されるという事です』
『起きてるなら、一度会いたいと伝えて欲しいんだが』
『今はまたお眠りになられているそうです。後でお医者様がいらっしゃいますので、その後、着替えをして頂いてから、皆さまの内から一人、代表者を部屋にお通しするよう主から伺っています』

 勿論、代表を誰か一人、と言われれば、自動的にそれがグスになるのは隊の中でも暗黙の了解という事になっている。他の連中は、恨みがましく未練がましく文句を言っても、グスが行く事を否定する事はない。
 朝食が終わり、服装を正して部屋で待機していたグスは、途中お茶やら部屋の清掃やらで使用人がやってくる度にシーグルについて聞き、ひたすらやきもきしながらも呼ばれるのを待っていた。

「グス・タ・レン様、シルバスピナ隊長様が部屋に来ていいとおっしゃってますが、すぐ行かれますでしょうか?」

 だから、やっと掛けられたその言葉に、グスは姿勢を正して即座に立ち上がった。

「勿論、すぐに」






 部屋に通された途端、青い空と青い海が織りなす明るい風景が大きな窓から飛び込んでくる。窓の外はバルコニーになっているらしく、その前に置かれたテーブルセットで、昨夜はシーグルと領主が話をしたのだろうかとグスは思う。
 グスが連れて来られた部屋は建物の中でも角部屋で、ほかの客間に比べてかなり広くなっていた。広さの理由は入ってすぐにある大きめのこの部屋のせいで、おそらく領主が話をする前提の客がこの部屋に招かれるのだろう、と予想出来る。
 その部屋から、注意深く使用人は別室のドアをノックし、それから開いてグスに入るように促した。

「すまない、心配を掛けたな」

 入った途端、ベッドの上で上体だけ起き上がらせたシーグルの姿を見て、グスは本気で体からふわっと力が抜けるくらいに安堵した。

「謝らないでください、貴方に問題がなけりゃ、俺はそれでいいですから」
「問題がない、という訳ではないが……」

 苦笑したシーグルの顔色は、やはりまだ悪い。

「ともかく、無事な貴方の姿見れりゃいいですよ。後はしっかり療養してください」
「あぁ、申し訳ないが、今日一日は寝てようかと思う」
「えぇ、いい機会ですから、十分休息を取って置いてください」
「そうだな、悪いがそうさせて貰う」

 真面目な青年は、青い顔をしながらも、本当に申し訳なさそうにその美しい容貌を歪ませる。一応、幻覚だとか、偽物だとか、魔法的な何かだとか、いろいろイレギュラーな状況も予想してきたグスだったが、シーグルが確実に本物だと確信出来て、ともかくにも胸をなでおろす事が出来た。

「ラッサデーラからの部隊がこっちくるのは明後日になるそうです。お偉いさんとの会食も明日の夜だそうですからね、今日はゆっくり休んで体を万全にしておいてください。少しでも体調が悪いとこ残ってたら、樹海には絶対入りませんからね」
「あぁ、分かってる……ありがとう」

 それで本気で申し訳なさそうにしゅんと落ち込んだ顔をしてしまうのだから、この見た目は誰よりも貴族らしい青年の、そんな子供じみた表情と素直さにグスは苦笑してしまう。一見、きつそうな印象の青年の、実はあまりにもスレてないところは、いい歳の親父的には孫や息子でも見るような可愛さを感じてしまって困るのだ。

「ともかく、俺はこんな調子だからな。皆はハメを外し過ぎて迷惑を掛けたりしない程度に自由にしてくれて構わないと伝えてくれ。外に行くのも許可する。門番に伝えていけば、夕飯も外で食べてきて構わないそうだ。ただし、帰る予定の時間は言っていく事、少なくとも日付が変わる前には帰ってくるように」
「そりゃぁ……あいつらも喜びますね」

 これで指示しておく事は言い終わったと、幾分かほっとしたように見えたシーグルは、寄り掛かっていたベッドの上に設置されたクッションに完全に体重を預けて、大きく息をついた。その様子はかなり辛そうで、どうやら今、彼は相当無理して平静を保って見せているらしいとグスは思う。これなら、朝起きてこれなかったのも仕方ないか、と。

「それじゃ、あんまりだらだら話してるのも悪そうですからね、俺も少しばかり外をぶらついてくるとします。いいですか、何かあったら、すぐに例の石使って呼び出してくださいね、分かりましたか?」
「あぁ、分かってる」

 例の石というのは、何かといろいろ性質のよくない連中に狙われる事が多いシーグルの為に、常備するように言った呼び出し石という特別な魔法のかかった石の事だった。冒険者なら誰でも持っている支援石は、事務局から呼び出しが掛かると青白く光るようになっている。それと同じ原理の、特定の人物の支援石を光らせるような魔法が込めた石があって、これは事務局の方でその石の持ち主本人限定で購入することが出来た。ちなみに、事務局からの呼び出しとは区別できるように、この石での呼びだしが入れば、支援石は赤く光るようになっている。
 ただ、実際の外での仕事の場合は、この石を使うよりも、のろしや、光を放つ系の魔法や石に頼った方が手っ取り早いと、冒険者達にはさほど使われていない代物でもある。だから呼び出し石の存在も忘れていたのだが、ランが言い出した事で皆常備するようになったという経緯があった。……ラン曰く、最近は子供にさっさと冒険者登録をさせて、この呼び出し石を持たせておく親が多いらしい。流石、隊唯一の妻帯者といったところだろう。
 ともかく、先ほどまで、シーグルの無事が確認出来なくてもまだ待てたのには、シーグルから呼び出し石を使って呼ばれた形跡がなかったという事もあった。そして現在、シーグルがこの調子ならば、何かあった場合も石を使ってこちらを呼ぶくらいは出来るだろうとグスは思う。

「本当に、心配を掛けてすまない」

 部屋の去り際にシーグルがまたそう言って来て、グスもまた、自分に謝る必要はない事を告げて部屋を出た。
 だからグスは、彼が部屋を出た途端、寝室の別のドアから現れた黒い人影を見る事はなかった。






 グスが部屋から出てすぐ、別室のドアから姿を現した男を、不機嫌そうにシーグルは睨んだ。

「これでいいんだろ。だが多分、夜にはまた、グスは顔を出しにくると思うぞ」
「つまり夜までは、誰の邪魔も入らないという事だな」

 嬉しそうにそう返されれば、シーグルは頭が痛くなってくる。

「まさか話だけで午後一杯掛かるという訳じゃないんだろ。傍にいて何をするつもりだ、お前は」
「別に、寝てるお前の顔を眺めているだけでもいいが」
「何時間も俺の顔を見てる気か?!」
「問題ないな」
「飽きるだろ」
「俺が飽きると思うのか?」

 楽しそうに途中喉を震わせて笑う彼を見ていると、どうにもシーグルは対応に困る。目の前の、セイネリアという男に対して自分が持っているイメージからすると別人のような彼は、どちらかというと自分を騙して友人のふりをしていた時の彼に近い。あれは完全に演技であった筈だった。だから今目の前にいる彼もまた、わざとこんな態度を取って見せているだけなのではないか、とも思う。

「にやにやにやにや、昨日からずっと何笑ってるんだお前は」

 言えばセイネリアは、少し驚いたように手を自分の顔にあてて、そして苦笑しながら顎を擦る。

「そうか、そんなに笑っているか、俺は」

 その発言に、シーグルは少しだけ驚いて目を見開いた。

「お前がそこにいると思うだけでこうなるようだ。困ったことにな、俺にもどうにも出来ない」

 つまり、それだけ、嬉しくてたまらないのだと、彼は言いたいのだろうか。あの誰からも恐れられる男が、本気で自覚なくこんな優しい顔をしてしまうくらい、自分を見ている事が嬉しいのだと。
 考えれば、胸にちくちくと刺さるものがある。完璧に強い男だと、そのイメージは間違いだと分かっていてさえ、ここまで自分に情を注ぐ彼を見るのが酷く苦しくて、いたたまれない気持ちになる。

 考え込んでいたシーグルがふと気づけば、傍にセイネリアの気配があって、唇に彼の唇が押し付けられていた。昨日から数えられないくらいしたキスは、自分も慣れてしまったとでもいうのか、自然と体の力を抜いて彼を受け入れてしまう。
 目を開けば、彼はやはり笑みを浮かべていて、あの金茶色の瞳を信じられないくらい柔らかく細めて、唇が離れた後も鼻同士を擦りつけて、それから頬に軽く口づけていく。
 顔が離れていってからもこちらを見つめて髪を撫ぜているセイネリアから、シーグルは目を逸らした。

「いい加減にしてくれ。……流石にこの流れでまたやる事になったら、明日も起きられなくなる」

 セイネリアがベッドに腰掛けたのが、軋む音と沈む感触で分かる。

「大丈夫だ、夜にはとっておきの治療役を呼んでやる。それに……もうそこまではしないさ。これ以上は、俺も本気で抑えが利かなくなる」

 セイネリアの声には自嘲の響きがある。彼の顔を見ないまま、シーグルは彼に告げた。

「昨日あれだけ付き合ったんだ……おまけに朝もだ。今日はもうそこまで付き合う気はない。ちゃんと抑えておいてくれ」

 それには言葉が返る事はなく、彼の笑い声が返る。喉を鳴らすだけの静かな笑い声は、何故だか苦しそうで、シーグルは思わず顔を上げた。
 そうすればセイネリアが、悲しそうとも取れる顔でじっと見つめてくる。

「お前は、抑える、という言葉の意味が分かってないな。これ以上お前を抱いたら、お前を手放せなくなるという意味だ。お前がどれだけ暴れても、無理矢理連れていってしまいたくなる」

 シーグルはごくりと喉を鳴らす。
 苦しみに歪む彼の顔は、それが本気だという事を示していた。

「俺は、お前とはいけない。セイネリア」
「……分かっている」

 大きな手が伸びてくる。固い皮膚の戦士の掌が、そっと自分の頬を撫ぜる。
 獣のようだと言われる金茶色の彼の瞳が、まるで今にも泣きそうに見えた。

「分かってる。だから今はもう抱かない、安心しろ」

 言ってセイネリアは立ち上がる。
 シーグルに背を向け、今度はベッドから少し離れたところにある椅子に腰かけると、こちらを向く。
 どこまでも平坦で、けれども耳によく届く低い声が部屋に響いた。

「約束だ、今回お前に会って直接伝えたかった話をしよう」

 その彼の顔には笑みはなく、ましてや、悲しみも、苦しみもなく。表情を消して、誰よりも強い男の仮面を被ったその男は、シーグルが知るイメージ通りのセイネリア・クロッセスだった。
 だがそれで、シーグルには分かってしまった。
 少なくとも、シーグルの前では、先ほどまでのセイネリアがこそが真実なのだという事に。今こうしてある『らしい』彼こそが、作った姿だという事に。
 けれど、それを分かったところで、シーグルは彼を全面的に受け入れる事は出来ない。彼と共に行く訳にはいかなかった。だからシーグルも、先ほどまでのセイネリアを思い出さないようにして、意識の奥に押し込んだ。




---------------------------------------------

次回はセイネリアさんの解説シーン。シーグルの現状についての警告です。




Back   Next


Menu   Top