雪解けの街と静かな不安




  【7】



 即位式の翌日であるその日は、夜から城でアウグとの和平交渉が始まり、それは夜中を過ぎても終わらず朝方近くまで続いた。その為セイネリアもレザも屋敷に帰ってくる事はなく城泊まりとなり、城から強制的に先に帰らされていたシーグルとしてはそこから一晩、セイネリアと顔を合せずに済んで内心少し安堵していた。
 次の日はどうにか城へ行って将軍の側近としての仕事に復帰をしたものの、会議の続きは勿論、客と個別の話や、騎士団の状況確認とセイネリアは一日忙しく、結局、城にいる間シーグルと二人きりになる時間もなければプライべートな会話をする暇さえなかった。

 そうしてその日の会議もやはり遅くなり、だが月が真上になる頃にはどうにか一区切りついて、セイネリア周りの人間達も含めてその日は全員屋敷へ帰れる事になった。
 シーグル以外は全員が寝不足ぎみというのもあって、屋敷へ到着後はすぐに解散となり各自の部屋へと向かう事になった……のだが。そうなれば当然、シーグルはセイネリアの部屋に共に向かう事になって、最後まで共にいたカリンに別れを告げて部屋に入れば二人きりになる。

 正直なところ、シーグルとしてはかなり気まずかった。

 いつもなら二人きりになった途端に抱きしめてくるわキスしてくるわ挙句にさっさとこちらを脱がし出すセイネリアも、その日は疲れたようにため息をついて自分の装備を外しだし、立場的に当然シーグルはそれを手伝った。そうすれば彼は無言で途中までは大人しくそれを受けていたものの、あらかた大き目の装備を外し終わったところで、もういい、とシーグルを下がらせた。

「お前も寝る準備をしろ」

 言われてまず頭に手を伸ばしたシーグルは、そういえばまだ自分は兜さえ外していなかったのかと今更気づく。いつもなら部屋に入った途端、無理矢理兜を取られるか取れといわれるかだからそのままでいたというその事実に驚いてしまう。そしてやはり、セイネリアもまた今のこの状況を気まずく思っているのだろうと思う。

「……すまなかった」

 だから、背を向けた途端言われた言葉に、シーグルは思わず手を止めた。彼の方を向けばいつも強い琥珀の瞳が苦しそうで、そんなとてつもなく『らしく』ない彼の姿を見てしまえば少し寂しくて思わず声が強くなる。

「俺に対して悪かったと自覚してくれてるならいい。正直、相手がお前であってもあぁいうのは嫌に決まってる。……それともお前は、嫌がる俺を無理矢理犯す方が楽しいのか? 本当は以前のように俺を好きに嬲りたいのか?」

 セイネリアの表情が険しくなる。それを見れば少し言い過ぎたかと思ってしまうが、シーグルは彼に確認したかったのだ。

「違う、俺も嫌だった」

 だからそれ聞いてシーグルは軽く笑う。彼の目を睨んでいた瞳を和らげる。

「……だろうな、ならもう二度としないと約束してくれ。多少の強引さはお前だから仕方ないと諦めているが、本気で嫌な時はやめてくれ。それでもどうしてもというなら……せめて、そう言ってくれ。お前が本当にどうにもならない時なら……まず、拒まない」
「あぁ、分ってる」

 言いながらシーグルはゆっくりとセイネリアに近づいていく。手が届くところまでいけば身体を引き寄せられて口づけられるのは想定していた事で、そこから暫く離して貰えない事も覚悟済みの事ではあった。

 セイネリアがあの時、こちらを抱いていて楽しくなかっただろう事はシーグルには分かっていた。なにせ身体的にはずっとこちらを嬲っていたくせに、その最中、まるで彼の方が傷ついているかのようにずっと苦しそうな顔をしていたのだから。

 いつも通りのキスは、いつも通りすぐに深くなって水音が耳に響く。
 彼のどこか切実なキスは、まるで縋るようで。
 奪うようだと感じていたキスは、助けを求めてくるようにも感じられて……だがそれは自分の気の所為であって欲しいとシーグルは思った。






 一番光を抑えたランプ台の明かりに照らされた部屋は薄暗く、それでも彼の顔は分かるから飽きる事なくその顔を眺める。
 ベッドサイドに置いた酒を瓶のまま呷って、セイネリアはまた彼の顔に視線を向けると苦笑した。
 シーグルを部下にしてからずっと、どうにも自分の感情が安定していないのは分かっていた。最初はただ浮かれているのかと自分を嘲笑っていられたセイネリアも、それだけではないという事が分ってきていた。特に内乱が終わってからが酷い。それはもしかしたら戦争中は戦いの高揚感やらで気が逸れていただけだったのかもしれないとも思う。
 ともかく、自分のシーグルに対する執着がおかしいと言えるレベルだという事は最初からセイネリアには分かっていたしそこまでは想定していたが、こうして手に入れたと思った後、それがある意味悪化しているのは想定外だった。
 いつでも彼が自分の傍にいて自分だけを見ていれくれればいい――その望み自体は前から思っていたことではあるが、それは叶うものではないし、叶えばシーグルを壊すしかないという事も分かっていた。だからそれは抑えてきた、その望みよりもシーグルが自分の愛する彼のままでいる事の方が重要であって、彼を壊すくらいなら彼が傍にいなくてもいいと思った。

――だが、今の俺だったら、同じ状況で果たしてあいつを手放す事が出来るだろうか。

 彼を壊すくらいなら離れようと、前には出来た決断を今の自分は出来るだろうかと不安になる。もし、次に同じような状況になった場合、今度は彼を離せずに壊してしまうのではないかとも思う。

 セイネリアはまた酒瓶を呷った後、片手で顔を押さえて下を向く。自分に向かって言い聞かせる。
 一番大切なのは彼が彼として存在してくれる事。
 どんなに虐げられても自分を棄てず、どんなに勝てなくても諦めない。あれだけ裏切られて来たのに人を信用し助けてしまう馬鹿善人。負けず嫌いで、意地っ張りで、しっかりしているようで子供っぽい……その全てがセイネリアにとって愛しくて、そのどれ一つでも欠けて欲しくないと願う。
 例え憎まれても二度とと会えなくても触れられなくても、彼が彼として存在してくれるなら自分の腕の中で壊れていく彼を見るよりずっといい。それは忘れてはならない、それだけは間違えてはならない。たとえこの感情の暴走が剣の中のギネルセアの狂気の影響だとしても、それだけは間違えてはいけない、自分を抑えなくてはならない。

 手をおろしたセイネリアは、自分の指にある彼の命と繋がった指輪を見つめ、唇を歪める。こんなものに縋ろうとする自分の弱さを嘲笑いながらも、もしこれで彼が死んだ事が分かったら自分はどうなるのだろうと考える。

「何が最強だ」

 セイネリアはそう吐き捨てると、また瓶に口をつけて残った酒を全て喉に流し込んだ。熱い流れが喉を伝って胃に届き、多少は全身の感覚が熱に包まれても、それはすぐに消えて身体は正常な機能を取り戻す。せめて酔えれば多少心は楽になっただろうにと思いながら、空になった瓶を見つめて考える。

 確かな何かが欲しかった。

 母親に『誰』と呼ばれた日、心の熱を全て無くしてしまった日から。セイネリアはずっと、実感出来る確かな何かが欲しかった、それで心を満たしたかった。
 だから強くなろうと思った。誰よりも強くなって、何もない自分の生きる意味を勝ち取ろうと思った。強くなって片端から手に入れていけば、やがて心を満たす何かも掴めると思った。
 なのに剣によってあっさりと圧倒的な『力』を手に入れた後は、その力を使えば使うだけ心が冷えた。それで気がついた――自分が強くなる事に喜びを感じられていたのは自分の力で強さを手に入れていたからだと。自分が欲しかったのは強くなって得た金や地位や賞賛などといったものではなく、強くなっていく、強さを手に入れて何かを勝ち取れたと実感するその感覚の方だったのだと。
 だから黒の剣を手に入れた後、もうその喜びを感じることは出来ないのだと知った時には剣を憎んだ。自分にあった唯一の目標、生きがいを無くしてしまった剣を憎むことしか出来なかった。自分の中にあった僅かな熱が無くなった事だけを感じて……思えばあれが絶望だったのだろうとセイネリアは思う。幸いといっていいのか、既に感情は麻痺していたからそこから自分という人間が崩れる事はなかったが。

 だから、自分が人を愛せたのだと気付いた時、諦めていた心の空洞に失ったはずの熱を感じられたその喜びはあまりに大きすぎた。例え、愛するが故の苦しみに苛まれても尚、心に感じる熱は掛け替えの無い確かな感情――喜びだった。
 そうして今、その彼をこの手に抱いてその喜びは幸福へと変った。彼の存在を感じるだけで心を満たす幸福感は、どこまでも甘美で手放し難い。それはまるで麻薬のように心を蝕み、執着が不安を呼ぶ、求め続けて欲の際限がなくなる。

 けれど、それで感情のまま貪り尽くし、彼を失ってしまったら全てが終わる。

 今、彼は自分の傍にいる。自分と共にいる、きっとこれからも。だから求めすぎるな、求めすぎて本当に大切なものを見失うな――眠る彼の顔をみつめて自分に言い聞かせると、セイネリアは力なく苦笑してゆっくりとベッドにもぐり込んだ。それから、よく眠っている彼の横顔に唇で触れ、彼を抱きしめてから顔を彼の頭に埋めた。

「う……ん」

 僅かに顔を顰めたシーグルを見て、酒臭かったかと苦笑する。
 それでも抱き込んでしまえば大人しく身を寄せてくる彼を見て、こみ上げてくる熱い感情のまま、セイネリアは声にせずに唇だけで呟いた、愛している、と。



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 セイネリアはそろそろ自分で自覚できるくらい危なそうな兆しが出てきてます。




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