運命と決断の岐路




  【9】



――もしあいつが死んだなら、お前は帰ってくるな、とあの男は言った。

 それが、失敗した部下の顔なぞ見たくないという狭量な理由である事はあの男に限ってあり得ない。その言葉を告げるのが自分だけにであるからこそ、彼の本音がそこにある。セイネリア・クロッセスにとって、シーグル・シルバスピナがどれだけの存在かは、その言葉だけでクリムゾンには理解する事が出来た。
 夜の帳(とばり)が下りたその中、オレンジ色の光に浮かび上がる風景を眺めて、クリムゾンはその髪と同じ赤い瞳を細めた。
 前に、シーグルを守る命を受けて彼に害をなした為、クリムゾンはそれ以後は主の愛するあの青年に関する仕事には組み込まれなくなっていた。ただ、彼を犯したことについてはあの男は怒る事もクリムゾンを罰する事もなく、自嘲を込めてこう言っただけだった。

『そんなに、あいつに関しての俺は腑抜けたように見えたか』

 そしてその時も、あの男はそれに続けて言ったのだ。

『なら、もしあいつが死んだら、お前は俺を見ずに去った方がいい』

 クリムゾンは団を立ち上げた時からのメンバーではあるが、エルやサーフェスのように何かを望む代わりに彼に忠誠を誓った訳ではない。ただあの男の強さを認め、彼の下で彼の強さを見ていたいと思ったのだ。最強の名に相応しいと認めた男の部下となり、彼の強さの一部になる事をクリムゾンは望んだ。
 だから正確には契約ではなく、クリムゾンはいつでも自分の意志で団を去ってもいい事になっている。あの男の部下として縛られているものは何もない。

――ただ、縛られてはいなくとも、条件はある。

 クリムゾンがあの男に部下にして欲しいと言った時、あの誰よりも強い黒い騎士は聞いてきたのだ。

『最強である俺の部下になりたいというなら、俺が最強ではなくなった場合はどうするんだ?』

 クリムゾンは即答した。

『殺すか、去る。あんたがその強さを失ったら、あんたの部下でいる意味がない』

 つまるところ……そういうことなのだろう。
 シーグルが死んだなら去れという言葉の意味は、あの青年が死んだならあの男は最強でいられないと言っているのだ。それ程までにあの銀髪の騎士は、セイネリア・クロッセスにとってなくてはならない存在なのだろう。
 愛している――その言葉で表されるあの男の感情がどれ程のものなのか、本当の意味で人を愛した事などないクリムゾンに分かる訳はなかったが。

 強い者だけが生き残れる。弱い者は踏み躙られるだけだ。そういう世界でクリムゾンは生きて来た。少しでも強く、人よりも先を見て、人を踏みつけて上に立つ。そうする事こそが生きる為の正義だと信じて疑わなかったクリムゾンにとっては、あの最強の男はまさに理想だった。あの男に関しては、『弱い』と思える部分が何処にもなかった。
 けれども今、確実に、あの青年はセイネリアにとっての『弱点』だった。
 あの青年を失っただけで、あの男は最強でいられなくなると本人が自覚をしている。それなのに、無理矢理手元に置いておく事はしない。手を離してあの青年の好きなままにさせている。
 欲しいのなら、大切なら、弱点だと認めているのなら。
 どうして、あの男はあの銀髪の青年を閉じ込めてでも自分の傍に置いておかないのだろう。

 クリムゾンには『愛』が分からない。どういう気持ちを愛と呼ぶのかが理解出来ない。だがシーグル・シルバスピナという存在が、最強の男が最強である為に必要なものであるなら、クリムゾンは何があってもあの青年を守らなくてはならなかった。
 セイネリア・クロッセスは最強でなくてはならない。あの男は誰よりも上に立ち、クリムゾンが見上げるべき男であり続けなくてはならない。






 オレンジ色の明かりにクリュースの陣が包まれる時間、兵達は交代での睡眠を取り、専用の天幕を持っている貴族騎士は既に眠りの中にいた。他の貴族騎士のものよりは遅くまで明かりがついていたシーグルの天幕でも、今やっとその明かりが最小限にまで落とされたところであった。

 夏とはいえ夜は昼間に比べればかなり気温が落ち、眠るのなら上掛けくらいは欲しくなる。特にこの辺りは首都よりも高地である為、夜は薄着では寒いくらいだった。
 こういう時期、冒険者時代に野宿をした時は、火があれば特に上掛けも必要なく鎧のまま寝転んでいただけだったとシーグルは思い出す。パーティの中でも前に立つ立場であるから、何かあった時は一番に反応して敵から仲間を守らなくてはならない。いつでも戦える格好で寝るのは当然の事だった。
 実際鎧を着ている場合は鎧下が綿入りな事もあって、冬でもなければそうそうに寒くなる事はなかった。魔法鍛冶の鎧を継承してからは特に、余程の寒さでもない限り問題がなかった。だから、少し肌寒そうにしている者がいれば、マントを貸してやる事もあった。
 何度かそうして寝ている時にマントを掛けてやった事がある友人は、起きてそれに気付く度、その淡い金髪に包まれた優しげな顔にとても嬉しそうに満面の笑顔を浮かべて礼を言ってくれた。

『ありがとうございます、シーグル。でも貴方は寒くないのですか?』

 いつも大丈夫だと言っていたのに、毎回毎回そう聞いてくる彼に笑って――あぁ、そうしてよく笑う彼といる事で、自分も自然と笑う事が出来るようになったのだったとシーグルは思い出した。

 シーグルのように立場ある者の場合は、戦場にあっても眠る時はちゃんと鎧を脱いで寝るのが普通だった。それは、近年のクリュースがほぼ優位な状況で戦う事ばかりだったという事情もあるのだが、今のシーグルが何かあった時にまず守られる立場にあるというのが一番の理由だった。それはつまり何かあった場合、鎧を着ていなくてもすぐに敵と接触することはない場所にいるという事だ。
 自分が前に立って仲間を守ればいい。それしか考えなくて良かった冒険者時代の方が気が楽だったとシーグルは思う。
 どうにもこの立場に居心地の悪さを感じても、部下達からは絶対にちゃんと寝てくれと何度も言われている手前、シーグルは大人しく鎧を脱いで横になっていた。不思議なもので、おきている間は気が張っていて眠る気分でもなかったのに、寝転がればすぐに睡魔がやってくる。どうやら思っていた以上に自分は疲れていたのかもしれないと思いながら、シーグルの意識は眠りの中へと沈んでいった。

 人は夢を見ている間、それが夢だとはそうそうに気付かない。
 けれどその夢を見ている間は、はっきりとそれが夢だとシーグルには分かっていた。

 そこは戦場だった。
 ただしよく見れば、こちらの軍は確かにクリュースの旗を揚げているのに、その旗は少し周囲の飾りが違うように見え、更には自分の周囲にいるのは兵士ではなく魔法使い達だった。決定的だったのは、周囲の地形は今日の戦場でもなければシーグルがかつて参加したことがある砦でもなく、全く見覚えのない風景はそれがシーグルが知る戦場ではないという事を物語っていた。
 その視線は敵を見るのではなく、自国の兵士に向けられ、空に向けられ、弾かれていく敵の矢に向けられていた。
 ただ延々と続く戦いの中、たくさんの兵士が倒れていく。
 自分の物ではない、やるせない気持ちが流れ込んで来て、誰か他人の意志がそこにある事をシーグルは感じていた。

 だから誰だと問えば、風景が一変する。

 次に見えたのは、どこかの建物の中だった。
 そこは小さな小屋のような場所で、たくさんの干した植物や、よく分からない様々な道具が壁一面に掛けられていた。
 そして、目の前の机の上には一振りの短剣が置かれていた。
 控えめだが美しい細工が施されたその短剣はシーグルにとって見覚えのあるもので、だからそれに向けて声を出そうとすれば、風景は完全に色と光をなくして暗転する。

『私は守りたかったんだ。ただ、守ってやりたかった――』

 聞こえた声と、込み上げてくる誰かの悲しみに、シーグルも胸が痛くなる。
 もう一度、誰だと叫ぼうとして、シーグルの目は開かれる。
 その直前、聞こえた声は言っていた。

『力を貸そう。お前の守りたいと願う意志と、お前を守りたいと願う意志の為に』

 目を見開いて天幕の天井を見ていたシーグルは、荒く息を吐きながら、自分の瞳から流れる涙を拭いた。それから急いで起き上がると、傍に置いてあった自分の装備に手を伸ばし、夢で見たのと同じ姿かたちの、セイネリアから渡されたお守り代わりの魔剣を手に取った。

――確かに、この短剣だった。見間違える筈がない。

 だから夢の意味を考えれば思いつく答えに、シーグルはごくりと喉を鳴らす。
 左手で剣の鞘を持ち、右手でその柄を握る。
 震えそうになる右手にそっと力を入れていけば、驚く程簡単に鞘から刀身が現れる。何度も何度も、いくら引いても抜く事が出来なかった魔剣をシーグルは今、あっさりと抜く事が出来ていた。

「魔剣の主として認められた、という事だろうか」

 薄闇の中でも青白い輝きを放つ美しい刀身を暫く眺めて、そうしてシーグルはゆっくりとそれをまた鞘に戻す。それからその短剣を改めて握り締めると、胸に当てて呟いた。

「俺を、守りたいと願う意志……か」

 セイネリアがこれを自分に渡した意味を考えて、シーグルはその短剣をぎゅっと強く握り締めた。




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はい、実はこんな突発イベントがあったんですね(==。てか魔剣の話、出陣の時にも念のためちらっと書いたんですが、どんだけ前に仕込んだネタよって……思いますよねぇ。



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