残された者と追う者の地




  【4】



 ソフィアがシーグルを飛ばしたのは、元の場所からは少し離れたところの林にある木の影だった。
 そこは確かに、敵は近くにおらず、更にはクリムゾンも傍にいて丁度良かった……ただしそれはあくまでその時点の話では、と限定される。もしソフィアがもう少し落ち着いて周囲の確認を出来ていれば、丁度林を挟んで彼らの位置と反対側、少し離れた場所に敵の部隊がいる事に気付けた筈だった。

 ソフィアからの声を受け取った時、クリムゾンは舌打ちした。

――さて、どうするか。

 クリムゾンは、隠れている林の中から考えた。
 実はクリムゾンは戦場から離れた場所に敵の部隊、しかもどうやらアウグの部隊らしき一団がいるのを見つけてその様子を見に来たというところだった。放っておいてもいずれは転送した本人であるソフィアが来るのは確実だろうが、わざわざこちらに行ってくれというのならすぐには来れないという事だろう。
 最悪なことに、アウグ軍は最初にいた場所から少し移動しだして、今は林の前にまで来ていた。彼らと共にいる蛮族達の方は、クリュースの貴族が一人で飛び出したらしいとの噂を今頃聞いて浮き足立ち、その隊列は乱れ、何人かはその場を飛び出していく姿も見えた。

 とりあえず、まずはクリムゾンはアウグの方からは目を離し、林の中にいる筈のシーグルを見つける事にする。それから間もなく、無事彼を見つけるところまでは問題がなかった。
 だが、一番の問題はここからだった。

 さすがに、ここからシーグルを連れて敵をつっきり、クリュースの本隊まで連れて行くのは無理だと判断せざる得なかった。それどころか、敵が近い以上この場所もいつまでも安全だとは言い切れない。ソフィアがくるまでただ待つという手も諦めた方が良さそうだった。
 シーグルの意識はなかった。怪我は相当に酷いのだろう。
 鞘を固定された足を見てから怪我は足だけではないのだろうと思ったクリムゾンは、とりあえずシーグルの胴鎧を外してその胸の辺りを触る。それから顔を顰めて、出来るだけの処置をしてから、シーグルから鎧を全て外した。

 何より優先すべきは、シーグルを生還させる事。
 その為なら誰が何人死のうと殺そうと、クリムゾンにとってはどうでもいい事だ。
 だがもしこの青年が死んだなら――……ふと、浮かんだその可能性と、彼の主の姿を思い浮かべて、クリムゾンは忌々し気に歯を噛みしめた。

――何があっても、貴様が死ぬ事だけは許されない。

 クリムゾンは一度、林の外れまで行き、アウグ軍の様子を伺う。
 まずいことに、彼らは林の傍に陣取ったまま、隊列を離れた蛮族達の中には林の目の前まで来ている者もいた。
 だがそこで更に様子を伺い、クリムゾンは敵兵の一人が林の中に入ってきたのを見ると、その人物に音もなく近づいていく。サボりにか、用足しにか、アウグ軍から見えなくなる木の影に入り込んだ男は、そこでやはり音を立てずに背後から近づいてきたクリムゾンの細いナイフを喉に突き立てられて絶命した。
 丁度よく蛮族にしては鎧を着ているその男から装備を剥ぎ取り、クリムゾンはすぐシーグルの元に戻る。そうして敵から奪ってきた鎧を、完全に意識を失っている主の最愛の青年に着せた。

――これで敵に見つかっても、すぐに殺される事はないと思うが。

 逆にもしクリュース側に見つかって最初に敵だと思われても、捕虜にしようとするだけで殺される事はない。治療もされる筈だった。それにおそらく、途中で誰かしらがシーグルだと気付くだろう。そうなる前にソフィアが来る事が一番いいが。

 クリムゾンはそうして、シーグルから脱がせた鎧を今度は自分で装備し出した。







 アウグ軍と共にいた蛮族達は、アウグの指揮官であるレザ男爵に各部族から預けられた者達であった。彼らはレザ男爵の指示に従って付いてこなくてはならないのだが、紋章付きと呼ばれるクリュースの上位貴族が出てきていると聞けば、すぐにでも飛び出していきたくて落ち着かなくなるのは仕方なかった。
 レザ男爵は最初からあまり兵士としての蛮族達には期待していなかったのもあって、特に怒る事もせず、だからこそ彼らはそわそわして隊列を乱し、ついには耐えきれずに飛び出していくものさえ現れた。一人現れれば続く者も現れ、離れていく者達はかなりの数になり、自己顕示欲の強い蛮族達は既に軍隊としてまとめられるような状況ではなくなっていた。
 そんな時、今にも一斉に飛び出していきそうな彼らの間に、大きな声が上がる。

「紋章付きだ、紋章付きがあそこにっ」

 誰かが指差した先には、馬に乗った人影がぽつりと一つ。目のいい蛮族達には、その馬上の人物が確かに『紋章付き』特有の特殊な鎧を身に付けているのが見えていた。

「まて、紋章付きはあっちにいるんじゃないのか?」
「紋章付きは2人いるのか?」
「向うは偽物で本物を逃がす為のおとりじゃないか」

 それでも彼らの困惑は一瞬だけで、すぐに我先にとその人物に向けて走り出す。特に、どうせ今更行っても出遅れたから無理だろうと考え、最初に飛び出した者達に続かなかった者からしてみれば、転がり込んだ思いがけないチャンスはまさに千載一遇とも言えるものだった。
 相手が相手であるからアウグの者達もレザ男爵の命令の下それに続き、その周辺にいた敵軍の兵達は一気にその場から移動した。

「来たか」

 敵がこちらに気付いて追いかけてくるのを見たクリムゾンは、すぐに馬を走らせた。
 追いつかれる訳にはいかない。追いつかれたら嬲り殺されるだけだった。それだけでなくシルバスピナ卿でないと分かれば、こちらの意図に気付かれて林を探される事になる。
 その前にソフィアが来ている保証はない。
 クーア神官の少女が来る前に、クリムゾンは敵を出来るだけあそこから遠ざけ、時間を稼がなくてはならならなかった。
 運がいい事にあの場には弓兵がいなかったか、もしくはすぐに撃てる状態ではなかったかで、クリムゾンに矢が飛んでくる事はなかった。だから追いつかれさえしなければ逃げ切る事も可能な筈であったが……クリムゾンは、それは無理だという判断を既に下していた。

 魔法鍛冶製の鎧は、その性能と希少性故、認められた持ち主以外が使えないように作られている。打ち直しも出来ず、使う事も出来ず、もし他人が手に入れても美術品として飾るくらいしか出来ない鎧。だから盗まれても、主を殺されて敵の手に渡っても、元の持ち主かクリュース王相手に返還の代わりに金を要求するくらいしか使い道がない。

 『主しか着れない鎧』の意味を、今クリムゾンはその身で実感していた。
 ともかくにも、重いのだ。

 鎧の主が使うなら、その性能の割に驚く程軽いと言われる魔法鍛冶製の鎧だが、主以外が着ると異常としか思えない程重くなる。普段が軽装のクリムゾンではこれを着た状態で戦う事は絶対に無理だと思われた。なにせ馬に乗るのさえ相当に苦労して、岩場を利用してやっとの事だったのだから。
 そして問題は、その重さは体感だけでなく実際の重量としてあるという事で、馬の様子からそれはすぐに実感する事が出来た。息が荒い、思った以上の速度が出ていない……だからおそらくこのままではその内に追いつかれる。
 追いつかれる訳にはいかなかった。自分がシルバスピナ卿ではないとばれる訳にはいかなかった。

 だから、クリムゾンが目指しているのは丘の外れにある崖だった。

 別に、死ぬ事は怖くない。勿論、だからといって死ぬ気などない。死ぬような状況にあっても、いつでも自分だけは生き延びてやると思ってきた。
 クリムゾンの生きてきた道はいつでも死と隣り合わせで、だからこそ生き残る為に強くなった。他人を蹴落として、陥れて、自分だけは生きてやると思ってきた。負けて死ぬ者は弱いのが悪いとしか思えなかった。
 だから、あれだけ圧倒的で、何者にも動じない強さのセイネリアを見た時は、これこそが自分の理想だとクリムゾンは思った。ただ理想であっても、自分はこの男程にはなれないと思ったからこそ彼の部下になった。彼の完璧な強さの一部になろうと思った。
 その男が自ら言ったのだ。あの銀髪の青年が死んだなら、自分はもう最強ではなくなると。強くあれないと。

 それは、嫌だった。
 それは、許せなかった。

 あの誰よりも強い男が嘆き絶望する姿などみたくない。
 あの青年の遺体に縋る姿などみたくない。
 悲しみのあまり腑抜ける事など絶対にあってはならない。
 クリムゾンの理想、初めて最強だと認めた彼が、その膝を落とすところなんて見たくなかった。そんなモノを見るくらいなら死んだ方がマシだと思った。

 クリムゾンは馬を全力で走らせる。馬の息は荒い、走る速度も落ちてきている。
 さすがに徒歩で追ってきている敵は見えないが、馬で追ってきているものの姿はすぐ近くに見えていた。追いつかれるのも時間の問題だろうと思われた。
 けれど、もう少し。
 あと少し。
 クリムゾンが目指す前に広がるのは、空に向かって途切れた大地。そうして、その下に広がる緑の海。
 それが近づいてきても、クリムゾンは馬を止める事はなかった。迷う事なく、馬をそのまま全力で走らせた。
 突然、馬が土を蹴る振動も、蹄の音も、全てを感じなくなる。
 そして下から押し上げてくる風を感じた時、ふと、クリムゾンは思った。

 自分は愛を知らない。人を愛する感覚が分からない。
 けれども、もしかしたら……あの男に向かうこの感情は、愛というものではないだろうか。自分は彼を愛していたのではないのだろうか。

 誰よりも強い彼に焦がれて、彼の為になりたいと思って。あの男があの男のままでいられないくらいなら、自分が死んだ方がマシだと思える程……クリムゾンは自分がセイネリア・クロッセスを愛していたのではないかと考えた。
 確信出来たわけではない。本当にそうなのかは分からない。
 だがそう考えれば、胸の中に溜まっていたもやもやとしたものがスッキリと消えていく気がした。成程、あの銀髪の騎士が気に入らなかったのは嫉妬だったのかと思えば、自分の余りの愚かさに笑えた。笑えて――そして、次に浮かんだ感覚は、今まで心に浮かんだ事のない清々しい想いと、心の奥底から湧き上がる悦びだった。
 あぁ、自分はもしかしたら人を愛する事が出来たのかもしれない。あの男の為に死ねると思えば、こんなにも嬉しいと思える。あの男の姿を思い浮かべただけで、湧き上がる熱い感情がある。
 クリムゾンは自分に迫ってくる緑色の海原を見つめて、ソレ、を言葉にしてみる事にした。

 愛しています、マスター。

 言ってからその唇には、この上なく満足げな笑みが浮かんた。




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 クリムゾン回でした……。



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