選んだ未来と捨てた名前




  【2】



 夜が、明ける。
 空の黒が東の端から濃紺となり、それがどんどん青へと変わって空全体を覆う。やがて朝日が山の隙間から顔を出せば、いつの間にか白くなった空がだんだんと青空と雲の白にくっきり分かれていく。

――これでは俺の方が、部下として失格だな。

 そろそろ眩しくなった青空に目を細めて、シーグルはため息をついた。
 結局今の状況は、部下として割り切れとセイネリアに言っておいて、彼の情に甘えて全部を放棄しているに他ならない。感情的になった自分をどうにも出来なくて逃げてきたとも言えた。
 なにもかも結局は自分の覚悟が足りない所為だ。そう分かっていても、それで割り切って平静を保てない。悪いのは全部自分だと分かっているのに、セイネリアを責めてしまいそうな自分が嫌で、許せなくて、逃げる事しか出来なかった。
 ごろりと、空の光を避けるように寝返りを打って、シーグルは目を閉じた。
 とはいえ、体はくたくたに疲れて眠りたがっていても、頭はやっぱり考える事を止められないから眠れる訳もない。仕方ないからまた寝返りを打って反対側を向いて、大きくため息を付く。

「おい、寝るならちゃんとベッドいけ」

 遠くから聞こえた声に、シーグルは目を開いて起き上がった。

「ったく、ただでさえ体力ないのに、無茶した上に徹夜じゃ今日は使いモンにならねぇな」
「……申し訳ない。だが、仕事があるなら言ってくれ」
「そりゃ、お前の仕事って言ったらマスターについてく事だろ。基本お前さんはマスターと常に行動を共にするって役目だ」

 それにはシーグルは何もいえない。今はまだ、この状態で出来ればセイネリアと顔を合わせたくなかった。
 だから、座った状態でエルを見上げていたその目を地面に落とし、唇を噛み締める。

「ま、大丈夫だ。今日はいいってマスターから言われてる。既にあの人は出かけたよ」

 それに思わずほっとしてしまえば、エルがシーグルの傍に座って胡座をかいた。

「なンかあったらにーちゃんに何でも相談しろよ。愚痴でもただの泣き言でも、ここだけの話として聞いてやっからよ」

 な、と笑いかけてくる気のいい男の顔をちらとだけ見て、再びシーグルは視線を下に落とした。

「貴方の弟の……レイリース・リッパーとしての問題じゃない」

 するとエルは、はぁ、と間抜けな声を上げ、それから大きな溜め息をついた。

「あのなぁ……ったく、本当に面倒くさい奴だなぁ。弟としてのお前の話なら聞く……なぁんてケチくさい事俺が言う訳ないだろーが」
「だが……」
「お前がシーグルでもアルスオードでもレイリースでも……ってか、そう考えると名乗る名前がいろいろ変って大変だな……ってのはまぁいいとしてだ、お前が何者として悩んでても構わねぇよ、俺の弟って立場もンな深く考えンな、俺に悪いとかはもっと考えンな。俺はな、お前が当然俺の弟じゃないって事を分かってる上で、弟の名を名乗ってくれて嬉しいんだ。あいつにやってやりたかった事とか、あいつとやりたかった事とか、いろいろお前とやれたらなって思っててな……だからまぁなんだ、お前が甘えてくれたり、俺を頼ってくれたりするとだ、俺としては迷惑なんてこれっぽっちもなくて嬉しいンだよ」

 言って背中を軽く叩いた後、頭に手を乗せてくれたその感触に、シーグルは泣いてしまいそうになる。

「ありがとう」

 すると、豪快なアッテラ神官らしく声を出して笑った男は、少し乱暴にシーグルの頭を掻き混ぜるようにぐしゃぐしゃと撫でてきた。

「にーちゃんとしてはなぁ、お前が落ち込んでるって聞いて、可愛い弟に胸を貸して思い切り泣かせてやるつもりではりきって来たんだがね」
「そんな、大泣きするような歳じゃない」

 それでも目から零れてしまった涙を拭って、シーグルは懸命に涙声になりそうな声を抑えて無理矢理笑って見せた。

「ありがとう……少しだけ、その……気が晴れた」
「おうさ、ついでに何でも話してみな」

 がしがしと髪を撫でられてそのまま頭をエルに引き寄せられる。それに素直に従う事にしたシーグルは、彼の肩に軽く寄り掛かりながら目を閉じた。

「セイネリアが正しくて、俺が悪い事は分かってるんだ……」
「いんや、マスターが悪い。なにせあの男は根っからの悪人だからな」

 そう即答で返されて、思わずシーグルは吹き出して笑う。だがそれでかなり気が楽になって、続く言葉はすぐに出てきた。

「いや……セイネリアは正しいさ。現王を倒し、その後に国を纏める方法を考えたら、あいつが考えた通り、シグネットを立てるのが一番うまくいくんだろう」
「それでもお前さんとしちゃ、息子にそんな大役を押し付ける事になったのが辛いんだろ?」
「あぁ……俺が王と戦う事から逃げた……そのせいでシグネットに責任を全て背負わせた……これでは俺は父と同じじゃないか、と思ったんだ」
「あんたの父親?」
「あぁそうだな……少し長い話になるんだが……昔話を、聞いてくれるだろうか」
「勿論、話してくれるなら是非にな」

 にかっと笑ってくれる青い髪のアッテラ神官につられるように笑いながら、シーグルは彼に話しだす。
 幼い頃、家族から引き離され、シルバスピナ家に連れていかれた話を。
 父が死んで、父を憎んだ日々を、そして騎士になって兄弟と再会し、母の死を知った話を。
 それから兄弟達との話を、後で父の知人だった男から知った母と父の事情を含めて、自分と家族の話を、シーグルは名目上の今の兄ともなった男にただ淡々と話した。話が終わって一息つけば、エルは無言でシーグルの頭を引き寄せて抱き抱え、焦るシーグルの頭を有無を言わさず乱暴にこねくり回し出した。

「エルっ、そのっ、まてっ」
「ったーく、つまりだ、お前はいい子過ぎたんだよっ」

 怒鳴るような声だったがエルの声はどこか震えていて、顔を見てみれば彼は少し泣いていた。だから文句を言う事も出来ずシーグルは大人しく彼に頭をわしわしと撫でられているしかなくて……けれど途中から、その感触に彼のやさしさが感じられて、シーグルの口元に笑みが浮かんだ。

「子供の時から他人の事ばっか考えてたから、自分抑える事に慣れ過ぎてんだろ、お前はっ。ちっくしょ、ンな目にあってて何でそんないい子のままでいられてんだよっ」

 今度の声は完全に泣いているのが分かる声で、シーグルもつられて泣いてしまいそうになる。戦う事が教義であるアッテラ神殿の厳しい修行をして神官になった筈の男は、シーグルの頭を抱えて大泣きしていた。
 もしかして、同情されて、それが心地よかったのは初めてかもしれない。
 そう考えたらやっぱり涙が堪えられなくなってしまって、シーグルの目からも涙が落ちて止まらなくなる。やがてエルが頭を抱えるだけで撫でてこなくなると、シーグルは自ら彼の服を掴んで彼の胸に顔を押し付けて泣いてしまった。

 二人して泣いて、暫くしてどちらともなく泣き止むと、こちらを掴んでいたエルの腕が緩む。それでシーグルが顔を上げると、互いに相手の赤い目を見てしまって同時に笑う。

「泣かせてやるつもりで俺の方が大泣きしちまったじゃねーか。ったく、みっともねーとこ見せちまったなぁ」

 今度は自身の頭を掻いて苦笑する彼に、シーグルもまた笑う。

「いや、俺も……結局泣いてしまった。みっともないのはお互い様だ」
「そりゃ違いない……どうだ、少しはすっきりしたか?」

 ガキ大将のような茶目っ気のある笑みを浮かべた後、エルの顔が経験と年齢に相応しい大人の顔に戻る。

「あぁ、とてもすっきりした。あれだけ自分を納得させようとしても出来なかったのに……多分、もう大丈夫だ」
「そっか……そいつは良かった」

 言いながらエルは服を叩いて立ち上がる。
 自然とシーグルが彼を見上げれば、青い髪のアッテラ神官は屋上から見えるアッシセグの街並みを見ていた。

「あのな、お前のガキの頃の話を聞いて、俺は分かっちまったよ。お前の性格じゃ王への反乱勢力を纏める役は出来ない。能力じゃなく性格の問題でな。……能力はあるだろうよ、もし状況的に追い込まれてお前さんが担ぎ上げられたとしてもお前は上手くやれる。反乱軍を纏めあげて、貴族どもの間をとりなして、ウチのマスターを率いたお前はおそらく王を倒して新政権を立てられる。お前さんなら王位継承順位なんて関係なく、人々からの後押しで王になる事だって可能だろう……いや、成らざるを得なくなる」

 そこでエルは街の風景から視線を戻して、見上げてくるシーグルの顔を見つめてくる。その顔がどこか悲しそうに見えて、シーグルの胸に何かがチクリと刺さった。

「でもな、そうすりゃお前はずっと苦しむ事になる。戦いになりゃ犠牲が出る、大勢の為によりよい選択をすれば切り捨てるものが出てくる、その度にお前さんは苦しむ。全部自分の責任だと背負い込んで、失ったモノ、切り捨てたモノを悲しんで、やがて心の重圧に押しつぶされちまうだろう」

 それに何も言えず表情を強張らせるシーグルに、エルは苦笑する。

「マスターはな、それが見えていたから、お前さんにその役をさせたくなかったんだろうさ」
「……だが、俺が背負わなかったせいでその重圧はシグネットに行く事になるんだ。俺は父よりももっと重い役目と責任を自分の子に押し付けたんだ」

 シーグルも立ちあがれば、今度はエルはまたにかりと満面の笑顔を浮かべてみせた。

「大丈夫さ、お前の状況とお前の息子の状況は違う。誰にも頼れないで一人でどうにかするしかなかったお前と、お前の息子は全然違う育ち方をする。お前に期待をしてた奴、お前を慕ってた奴、お前を助けたかったたくさんの人間がお前の息子の為に動いてくれる。幼い頃からたくさんの人間に愛されて、助けられて、頼る事を覚えてお前の息子は育つだろうよ。お前さんとは違って、その責任に押しつぶされないで済む人間になるさ」

 シーグルの頭の中に、妻や兄弟達、部下やリシェの人々の顔が思い浮かぶ。彼らがシグネットを愛して、助けてくれるだろうことは間違いないと確信出来た。
 呆然と立ちすくむシーグルにまたエルが手を伸ばしてきて、頭をガシガシと撫でてくる。

「……なぁ、お前はすぐに息子を助けてくれるだろう連中の顔をいくつも思い浮かべる事が出来ンだろ。そいつらを信じられると思うんだろ? ……なら大丈夫だ、お前はただ責任を投げ出して息子に放り投げた訳じゃねぇ。息子が責任を果たせるだけの状況と味方をたくさん与えてやってる。だから大丈夫、お前の息子と、助けてくれる人間を信じろ」

 そうして背中を強く叩かれて、それに少しよろけながらもシーグルは小さい声で、あぁ、と呟いた。

「それにな、お前はお前の父親と同じに息子に全部投げて放置する訳じゃないだろ。マスターの下で働くとなりゃ、嫌でもお前の息子の為に働く事になンだ。ちゃんと息子を見守って、助けてやりゃいい。マスターはな、そのつもりもあったから、事が終わった後もそれなりの地位を引き受けたんだと思うぞ」
「そうだな……」

 シーグルは本当は全部分っていた。セイネリアが考えたこれだけの大それた計画は、全部自分の為だという事を。それは、単に自分とした契約の為の計画というのではなく、もっと大きな……シーグルの性格を理解した上で、シーグル自身の為に立てた計画だという事を。シーグルを失う事が怖いといったセイネリアが、自らのもとでシーグルを守る事が出来る為にたてた計画だという事を。

――分っていて、俺はあいつに『愛してる』というなと言ったんだ。

 今更後悔したところでどうにもならない。ただ――また、自分は彼を傷つけた。それだけが今の真実だった。






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 今回のエピソードはエルさん大活躍……かな。



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