選んだ未来と捨てた名前




  【1】



 ロージェンティ・シルバスピナは、アルスオード・シルバスピナ――つまりシーグルの死を告げた時、暫くの間呆然として人形のように固まり、それからよろけて侍女に支えられて以後何も言えなくなった。そうして、部屋に篭った彼女はほぼ一日泣いて暮らし、そこからまったく出てこなかったという話だ。
 だが、セイネリアが彼女のいる船にやってきた時、彼女は大貴族の一員らしく背筋をしっかりと伸ばし、セイネリアの瞳を真っ直ぐ見て出迎えたのだ。

「貴方が黒の剣傭兵団の長、セイネリア・クロッセスですね」

 これから交渉するのだという空気を纏って、敵意さえ向けて彼女は笑ってみせた。
 後で聞いたフユの話では、セイネリアが行く事を『伝言』と共に伝えた後から、彼女は身支度を整え、侍女や他の家族達を叱咤して回っていたという。

「はじめてまして、アルスオード・シーグル・アゼル・リシェ・シルバスピナの妻、ロージェンティと申します」

 わざわざ『妻』という肩書きを言ったあたりで、彼女がシーグルから自分のことについてある程度までは聞いているのだろうとセイネリアは理解した。だから遠回しに話したりはせず、セイネリアも彼女に言った。

「あぁ、会うのは初めてだな。俺達は互いにとって一番大切『だった』共通の人間の為に協力出来ると思うのだが」

 顔色が青ざめたものの、彼女は態度を崩しはしなかった。
 そうして、ロージェンティとセイネリアは王リオロッツを倒すための密約を結んだ。

――確かに、ヴィド卿が王妃になる為育てた、というだけはある。

 交渉というのは、最優先すべき項目を勝ち取る為に、自分にとって出来るだけ軽い代償で済んで、かつ相手に効果的なカードを提示するのが基本となる。その為には自分の優先したい事、妥協出来る事を冷静に判断する事は勿論、相手にとっての物事の優先順位も正しく判別出来なくてはならない。感情的になって自分と互いの状況を冷静に見れなくなった方が失敗する。
 女の場合、大抵これが出来ない。どれもこれも手放したくなくて、自分を優先すべきだと情に訴えようとして利用される事が多い。
 だが流石にロージェンティ・シルバスピナはそういう意味では冷静だった。彼女はセイネリアが提示した今回の計画の全容を聞いた時、まず最初にこう聞いてきたのだ。

「それで貴方の目指す最終的な目的はなんなのです? それで貴方側に何のメリットがあるのですか?」

 確かに馬鹿女なら飛びつくだろう彼女にとって都合の良すぎるこの計画に、彼女はまず懐疑の目を向けてきた。

「目的は単純に言えばただの復讐だ。現王リオロッツを出来るだけ苦しめて惨めな地位に貶めて殺す事。そして、シーグルの汚名を雪(すす)いでやる事。その他はそれを効果的に成す為の手段に過ぎない」
「つまり貴方は、全てアルスオード様のために動くという事なのですね」
「そうだ、あと言っておけば、俺は自分が高い地位につく事に何の興味もない。どうでもいい連中の面倒を見なくてはならなくなるだけで何の得もないからな。本音を言えば計画成功の後は地位を全部放棄したいくらいだが、そうしないのはあいつの息子の為だ。……あいつの血を継いだ息子を王に祭り上げておいて知らぬふりも出来ぬだろう、それだけだ」

 ただ今回の場合、おもしろいことに感情的理由で交渉しているのは自分の方か、とセイネリアは思った。会話の内容だけ聞けば、自分の方が感情を理由に行動している事になるのだろうと。ならば常人なら狂気を感じる程の、自分の中にあるこの感情の欠片を見せてやればいい。

「俺はシーグルを愛していた。俺にとってはあいつだけが大切で他の人間もこの国もどうでもいい事だった。……ただ、あいつの愛するものは、あいつの為にどうにかしてやりたいとは思っている」

 どこまでも感情的な言葉を、セイネリアはただ淡々と冷静に告げる。
 まったく交渉に相応しくない感情だけの台詞だ、と我ながらセイネリアは嗤いたくなる程だったが、この言葉が完全な真実である事もまた確かではある。この女ならそれを理解出来るだろう。
 ロージェンティは青白い顔で暫く黙ったまま、一度瞳を伏せて、それからまた真っ直ぐセイネリアの瞳を見つめ返してくる。

「最後に、一つだけ確認させて下さい。アルスオード様亡き今、貴方にとって一番守るべき大切な者はあの人の血を継いだシグネットであると思ってよいのでしょうか。あの子の事だけは最後まで何があっても裏切らず、守ると貴方は誓ってくださいますか?」

 彼女の声に震えはない。睨むように見つめてくる瞳も逸らされる事はない。
 初対面で、女でこれだけ自分をはっきり見返せるというだけで、彼女が今後する事になる役目を果たせるだけの人物であると言えるだろう。
 セイネリアの口元が笑みに歪む。

「あぁ、あいつの子であるシグネットだけは何があっても裏切らずに守ると誓おう。ただしシグネットを守る為に必要なら、お前自身を見捨てる事はあり得る。俺にとってお前はシグネットに必要であるから可能な内は守っておく、という程度の存在だ」

 言えば彼女も笑って見せる。胸を張って、こちらに見せつけるように。

「それは構いません。貴方がこの計画が成功した後もそれだけは絶対だと誓って下さればよいのです。むしろ、あの子の為になら私は自ら見捨てられる事を望むでしょう。……シグネットさえ無事で……あの子があの人の子である事を誇って胸を張って生きられればいいのです」

 つまり、これが母親というものか、とセイネリアは思う。
 ロージェンティ・ヴィドは王妃となるために育てられた。だが、こうしてセイネリアと対峙し、全く臆する事なく交渉出来るこの強さはそれだけが理由ではない。今の彼女にとって何よりも優先すべき大切なものがハッキリしているから、それ以外は全てを捨ててもいい覚悟がある。それが、彼女が母親であるという事であるのだろう。

――母親、か。

 今のセイネリアにはもう、自分の母親の事が殆ど思い出せない。ただ彼女は病的なまでに自分を溺愛していた、という事だけは覚えている。実際の彼女といる場面は全て忘れたのに、自分が見えないとそれだけで大騒ぎをしていたとか、いつでも大事そうに抱きしめて眠っていたという事実だけは覚えている。……そうしてそれが、全て自分の為のモノでなかった事も。

「ボス、ドクターの準備が出来たそうです」

 掛けられた声に、セイネリアは閉じていた瞳を開いた。
 窓から刺す光は完全に部屋の中を明るくする程に強くなっていて、鳥達の声が夜が明けた事を知らせていた。
 多少、まどろむ程度は出来たかと思いながらも、セイネリアは自然と口元に自嘲の笑みが浮かぶのを自覚しながら立ち上がった。

「悪いがカリン、俺が出かけたらあいつの方を見に行ってくれないか」
「……昨夜は、朝方まで剣を振って、その後倒れて暫くそのままだったようです」
「寝ていたのか?」
「いえ、ラダーが声を掛けたら起きていたと言っていました」
「結局、寝てないのか」
「おそらく」

 それにセイネリアが明らかに顔を顰めると、カリンはくすりと笑って言った。

「ボスと入れ替わりでエルが帰ってくるでしょうから、後はエルに任せてみてはどうでしょうか?」
「なら、そうしろ」

 その声が、明らかに不機嫌そうだったせいか、そこでカリンはまた楽しそうに笑う。

「大丈夫です、ボス。シーグル様はちゃんと全部を受け入れて前を向く……そういう人物です」
「そんな事は分かっている」

 分っているのに感情が騒ぐ、それだけの事だ。彼の事だけは理性で全て割り切れないというだけの話である。
 けれど、こうして彼を傍に置いた事で、これから何度もこんな状況になるのだろうと思っても、それを忌々しいと思う気持ちにはならない。この割り切れない感情を持て余す事もまた、自分が人間らしく『生きて』いると実感する事であるのだから。
 セイネリアは外していたグローブを手に取り、だがそれに手を入れる前に指にある彼の命と繋がった指輪を見て微笑んだ。そうしてそれを軽く唇で触れてから、手をグローブの中に入れた。






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 そんな訳で新エピソードはセイネリアの回想からでした。



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