心の壁と忘れた記憶




  【8】



 夢だ、ということは分かっている。
 分ってはいても動揺せずにはいられない。かつてのように何も感じずにはいられなかった。

 自分の腕の中には、何度見たか知れない血を流している『彼』がいた。
 銀の髪と白い肌を赤に染めて、ぴくりとも動かない彼を抱く自分の手も赤一色に染まっていた。生暖かい感触、柔らかい何か。そうしてふと手を見ると、その中には脈打つ彼の心臓があって、彼の胸には赤黒い穴が空いていた。

 これは夢だ――夢だ、夢だ、夢だ。剣の中の魔法使いが見せる夢だ。
 歯を噛みしめ、声を殺して自分に言い聞かせる。彼は生きている、死んでいないと手にある筈の指輪を探す。その確かな感触に大きく息を吐く。

「――っは、ぁ」

 起きた時、また指輪を掴んでいた自分にセイネリアは自嘲の笑みを浮かべた。そうして開いた瞳が光を捉えた事で、やっと朝が来たかと今度は安堵の息を付く。じっとり汗ばむ額を拭って起き上がれば、横にいる銀色の髪の存在に一瞬だけ息が止まった。だがそれがシーグルでない事をすぐに思い出し、苦い笑みに口元が歪む。
 ベッドから降りても隣で寝ていた男は起きず、それを確認してセイネリアは水瓶のある場所へ向かった。
 あの男のいいところは、貴族のドラ息子らしく鈍感でねぼすけなところだ。
 悪夢を見るセイネリアは夜中にうなされる事が多いから、それを無視して寝ていられるような鈍感な人間は都合がいい。カリンは当然、他の連中も、セイネリアの周りの人間は寝ていても気配の異常に敏感で何かあればすぐに起きる。だから彼の場合、その呑気な役立たずぶりが却って役に立つ、と言う訳だ。
 パシャリ、と音を立てて冷たい水で顔を洗えば、水面に映る自分の瞳と目が合う。

「まぁ、俺はひとでなしの悪魔だからな」

 処刑を告げられた貴族達の呪詛の言葉を思い出して、セイネリアは皮肉に唇を歪めた。
 自分の考えた理論の中の都合にばかり沿って動く、そこに感情を考慮しない。それこそが正しいと思って生きてきた。だから必要ならいくらでも酷い事が出来た。いや、感情さえ理論の中に組み込んで、追い詰める為にはその人間にとって一番辛いだろう手段を選んできた。

「本当に、酷い人間なのだろうな、俺は」

 その自分が幸せになどなれる筈がない、安らぎや満足感など得ようとする方が間違っている。それは別に罪の意識から出た結論ではなく、自分の行動を冷静に見て分析したそうであるべきだと思う答えだ。
 ベッドの前に戻れば呑気な男はまだ寝ていて、その幸せそうな寝顔に呆れながらも笑みが湧く。かつてはこうして寝た相手の寝顔を見て、そのぐっすり眠る様子に何も感じなかったのに今は羨む気持ちがある。それはそうして眠れる事がどれだけ幸せであるかを自分が分ってしまったからで、何もなくとも当たり前のように眠れる者に嫉妬する、愛しい存在を抱いて眠るあの幸福感を思い出して心が痛みを訴える。彼の事を考えれば考えるだけ、腕が彼の感触を欲しいとさまよう、彼を抱いてその頭に鼻を埋めて、匂いと気配と体温と……全身で彼を感じたいと心が叫ぶ。

――多分、俺は間違えているのだろう。

 そう思っているのに、別の道を選べない。
 リスクの多い、望みを叶えて自分を信じる方法より、リスクの低い、自分を信じずに心を殺す方を選ぶ。まったく、とんだ臆病者だと我ながらに思う。
 最優先は、彼が彼のまま無事で在ること。次が彼が自分の傍にいること。その次に彼の大切なものを守って、自分の感情はその下だ。最優先を選ぶ事に迷いはない。それだけは全てにおいて優先させる絶対的な優先事項であるから、その為なら最悪全てを捨ててもいい。

 彼は自分にとってのたった一人の……なのだから。







 将軍府、と呼ばれるだけあって、そこの主であるセイネリアの執務室はまず入ったものを威圧するようなつくりになっていた。一番奥にあるセイネリアの席の上には、傭兵団のエンブレムであった黒い剣と花のマークに騎士団の十字をつけて更に装飾枠をつけた将軍のエンブレムが描かれた布が下げられている。いかにも偉い人間の席にこれ以上なく威圧感のある男が座っているのだから、まず大抵の者は入って来た途端に身が竦んでしまうだろうとアウドは思う。しかも今の彼は何故だか不気味な仮面のようなモノまでつけていて、その姿に恐れるなという方が無理な話だろう。
 分っていて散々心構えをしてきた自分でも、入った途端一度足が竦んでしまったのだから……と考えて、その理由は自分が彼に嫌われている所為もあるのだろうと考えた。

「話は何だ、あいつを抱いたと俺に報告にでもきたのか?」

 思い切り不機嫌な声に全身が固まりそうになる。何度も自分に言い聞かせてからここへ入ってきても、身構えでどうにかなるものではないのだなと思う。ただその分、いろいろ諦めた事で開き直れたという面もあって、アウドは一度息を吐き出すと現在の自分の主でもある男に向き直った。

「えぇ、それもそうですが、なんで貴方がそんな事態を許す気になったというか……あの人と距離を取ってるのかと思いまして。勿論、俺に話す気はないから帰れというなら大人しく従います」

 椅子に深く腰掛けて足を組んでいる男は、そこで唐突に仮面を取ると机に置く。曝された素顔の彼は口元に昏い笑みを浮かべてアウドを見ていた。それをみて背筋に冷たいものが落ちたが、アウドは自分を叱咤してそこへ留まった。

「別に俺の部下になった時点でお前に教えても構わんが、知ればあいつを見る目が変わるぞ」
「それは……どういう事でしょうか?」

 ごくりと喉を鳴らして、アウドはこちらを見据える金茶色の瞳を見つめた。

「お前は、シーグルと会って何年になる? ずっと見ていて違和感を覚えなかったか?」

 唐突なその質問の意図を、アウドは最初理解出来なかった。

「お前があいつを初めて見たのはあいつが18の時か、それから何年経った? 特に、ここにくるまであいつを1年以上見ていなかったなら、久しぶりに見たあいつに違和感を感じたんじゃないか?」

 アウドは頭が混乱してきた。だが、久しぶりに会って彼を見た時に思った事といえば――変わりがない、とそれだけで。あまりにも前のままの記憶通りの美しい彼の姿に驚いて――とそこまで考えて、アウドの表情が凍った。

「まさか……」

 それから不気味な笑みを浮かべる黒い騎士の顔を見つめてすぐさま思う。そういえば、この男の年齢はいくつだったろうかと。かつて騎士団にいた時から計算してもまだ20代という事はない筈で、その威圧感が年齢以上だと認識していたからあまり気にしていなかったが……今この男をよく見てみればその顔の作りや肌からどう考えても思った以上に若過ぎると感じる。そういえば、この彼の琥珀の瞳に威圧されてあまり顔をちゃんと見ていなかったから、今までそんな事を考えなかったのもあるかもしれない。
 考えて、導き出された答えに、アウドは思わず右手で口を押さえた。

「まさか、あんたは……魔剣の主ってのはそういうのもあるんですか」

 確かにこの国ならそれはあり得ないという程の話ではない。『魔法使い』になった者になら在りうると、皆知っているくらいにはある話だ。見た通りの年齢と思うな――というのは魔法使いになら当たり前のようによく言われている言葉ではある。

「あいつは俺にとって唯一の存在だ。あいつは俺が連れていく、あいつだけは俺と共に生きてくれる。あいつがどう思おうともうそれは取り消せない。……だから、あいつがそれに気づく前に、まわりがそれに気づく前に、どちらにしろあいつは俺のもとへこなければならなかった」







 外扉より軽い中扉が、軽い音を立てて背で閉じられる。
 そこから見張りの兵に見送られて、アウドは廊下へと出た。今度は重い音を立てて締まる扉を感じて、そこで彼は一度足を止めて重い息を吐き出した。

 腹で渦巻く感情を消化しきれないまま、むかつきを覚える胸を押さえる。シーグルに対する感情、セイネリア・クロッセスに対する感情、それに複雑な状況が絡まり合って、結局分かったのは自分には何も出来ないという事だけだった。

――それでも、俺のやる事は変わらないか。俺はあの人の為に生きると決めた、それは変わらない……あの男からすりゃ気楽な立場に見えるんだろうな。

 苦笑をして、歩きだす。こういう時に足にまで気が向く訳もなく、クセそのままの不恰好な歩き方になるのは仕方ない。
 だがふと、あの男が仮面をかぶるようになった理由に思い当たってアウドは思わず足を止めた。成程、あれは自分が歳を取っていない事を他人に悟らせないようにする為の手段なのか、と。ついでに言えば恐らく、シーグルの兜も当然顔を隠す為のものとして、それは他人に対してだけではなく、シーグル自身が自分の顔をあまり見ないようにする為の意図もあるのかもしれないとアウドは思った。







 ほけ、と何度目になるのかもう数えきれないくらいした気の抜けるようなため息をついて、ウィアはテーブルにつっぷしていた。

「お茶が冷めますよ」

 と言われてもカップに手を伸ばすでもなく、ぐでんとテーブルに頭を預けてぼーっとする。いわゆる何もやる気がしないという状態だ。ただ事情を知っているフェゼントは黙って向かいの椅子に座ってお茶を飲んでいるだけで、とくにウィアをじっと見ている訳でもないし、勿論怒る訳でもない。こうしてほぼ二人だけの時間になると気が抜けるウィアを黙って放っておいてくれる。

「……ごめんな、フェズ」
「何がです? 何も貴方が謝る事はありませんよ」

 そう言ってくれる声はとても優しい。だからウィアは彼に甘えてくたっと気の抜けた状態を続ける。
 そう、自分でもこんなに気が抜けると思わなかった。大嫌いな兄がいなくなって気楽になると思っていたのに、いなくなってからなんだかやたらと気が抜けてしまっていろいろな事にやる気が起きないのだ。それでも一度引き受けた仕事を投げるなんて事はしたくないから、シグネットやロージェンティ、それに警備の元シーグルの部下達の前ではいつも通りにふるまっているのだが、その反動もあるのかそういう人間がいないところではこうして思い切りぐだっている。ただ一人でぐだっているとなんだかいろいろ余計な事を思い出して落ち込みたくなったりするから、フェゼントが傍にいてくれて思い切りだらだらしていられるこの状態が一番いいのだ。あぁやっぱりフェズは俺の事を一番分かってくれてるんだな、なんて思ってしまって甘えられるのもあるのだがろうが。

「なぁフェズ。フェズと俺はずっと一緒だよな、一緒にいてくれるよな」

 我ながら唐突だと思える言葉だが、唐突にそれを確認したくなるのだから仕方ない。言えば必ず彼がそれを肯定してくれるから、そうすれば無気力の中にある不安な感覚が少しなくなる気がして、だから甘えついでに何度も聞きたくなる。

「えぇ、ずっと一緒にいますよ。離れようといわれても離れませんよ」

 聞けばやっぱり安心して、嬉しくて、ちょっと気分がほっとして、ウィアはくたっとテーブルの上に突っ伏したままごろごろと左右に揺れる。

「ありがとな……んでほんとにごめんな、俺がこんなんでさ」

 でもやはりこうしてぐだって同じ事を何度も繰り返す自分に付き合うのは大変だろうな、なんて思って彼にそういえば、彼からは意外な言葉が返って来た。

「いいんですよ、それにウィア……私は嬉しいんです」

 ぐだぐだとしていたウィアは、それで頭をテーブルに突っ伏しながらも視線だけでフェゼントを見あげた。言葉通り笑っている彼を見て、ウィアは素直に、何で? と聞いてみた。

「ウィアはいつもテレイズさんの事を嫌いだっていってましたけど……やっぱり兄上がいなくなる事がショックだったんだなと思って。同じ兄として……やはり、自分がいないのに平然としてられたら寂しいじゃないですか」

 あぁ成程、と思ってからふと思い出した言葉をウィアは言ってみる。

「でもあいつさ、俺がいなくても元気でいつも通りのお前でいてくれって最後に言ったんだ」

 そうすればくすりとフェゼントは更に笑う。

「えぇ、そうでしょうね、テレイズさんのその言葉はよくわかります。確かに、矛盾してるように思えるでしょうね……でも自分がいなくても元気でいて欲しいと思っても、自分がいなくても平然とされると寂しいモノですよ。今の気の抜けたウィアの姿を見たらきっと、何してるんだって怒りながら内心嬉しいと思うと思いますよ、テレイズさんは」

 怒りながら内心喜ぶ兄、というのを容易に想像出来てしまって、ウィアは苦笑いをする。まぁ、好きな相手と別れる事になった場合――ウィアの場合は勿論フェゼントだが――を考えれば、相手に元気でいて欲しいと思うと同時に、自分がいない事を悲しんだり落ち込んだりしてくれる事を嬉しいと思うというのは分かる。
 けれどふと、ウィアは思う。

「でもシーグルだったらさ、きっと自分の事を気にしないで平然としてくれていた方が喜びそうな気がするな」
「……そうですね、かもしれません。彼は、本当に自分のことより相手の事をまず考えてしまいますから」

 悲しそうに笑うフェゼントを見て、しまった、と思ったウィアだったが、それで顔を上げたウィアに、フェゼントはにこりと満面の笑みを見せてくれた。

「だから、私が落ち込んでいれば彼はきっと悲しみますから、後ろ向きにいつまでも嘆いていないでこれからを考えて強くなろうと私は思っているんです」

 その笑顔に一瞬見惚れて声が出なくなっていたウィアだったが、我に返ってにっこりと笑みを浮かべると、そこでばっと元気よく立ち上がって大きく背伸びした。

「だなっ、シーグルならただ元気でやってた方が喜ぶよなっ。まぁそれにだ、あのクソ兄貴には俺が元気過ぎる姿を見せた方が嫌がらせになるってのも分かったし、そしたらこんなに気が抜けてられないよなっ」
「……やっぱりテレイズさんには嫌がらせをしたいんですか?」
「おーそりゃな、その方が俺らしいだろ?」

 そう言ってウインクをすれば、フェゼントはまた声を出して笑う。
 それにこちらも声を上げて笑えば、二人してなんだか可笑しくなって笑い声が止まらなくなる。

 けれどウィアは内心考える。シーグルがもし生きていたとして、これだけ皆が彼の死を悲しんで、彼を英雄扱いなどしていたら――正直、彼なら相当辛いのではないかと。どんな顔をして、どんな気持ちで、今の自分達を見ているのだろうと。



---------------------------------------------


 セイネリアさんのこの件のネタバレは、今はさらっとで。後々詳しく分ります。
 



Back   Next


Menu   Top