心の壁と忘れた記憶




  【6】



「あぁ、少し愚痴を聞いてくれ、だめか?」




 それに、いいえ、と返せる筈もなくアウドが了承を返せば、彼はくるりと背を向けて奥に向かって歩き出す。それについて歩き出したアウドは、ほんの僅かに、鼻についた意外過ぎる匂いに驚いた。

「まさか……酒を飲んでるんですか、貴方が?」

 シーグルの酒の弱さは彼の親しい者ならまず知っている重要事項であるから、まさか彼が自分から飲むなんて思いもしない、これを驚くなという方が無理だろう。

「あぁ、飲んでる」

 そうしてアウドは彼について歩くまま少し広めの寝室に入って、そこにある酒瓶の並んだ戸棚を見て更に目を丸くした。

「なんで貴方の部屋にこんなのがあるんですか」
「あいつが勝手に置いたんだ」

 そこで『あいつ』が誰かを聞くほど、流石にアウドも馬鹿ではない。

「お前も好きなのを出して飲んでいいぞ」
「いや、勝手にいいんですか? 結構高そうなヤツばっかりに見えるんですけど」
「いいだろ、放置していったんだ。あいつはいい酒を揃える割にそこまで執着してる訳でもない。馬鹿高い酒でもたまに安酒みたいに瓶から直にがぶ飲みしてるくらいだ」
「……まぁ、らしいっちゃらしいですけどね」

 どちらにしろ、いくら高価な酒でもこの青年がいいといって開けたのをあの男が怒りはしないだろう。ありがたく飲ませてもらうかと戸棚の中を覗いていれば、椅子に座ったシーグルの呟きが聞こえてアウドは振り向いた。

「ムカついたから飲んでやろうと思ったが……俺では100年かかっても全部飲み切るのは無理だろうしな」

 それには笑うしかなくて笑ってしまえば、シーグルは椅子の上で片膝を抱えてそれに顎を乗せて口を尖らせる。その様があまりにも子供っぽくて、アウドは笑うと同時に気が抜けて、そのせいで理性を働かせようとがちがちに固まっていた体の緊張も取れた。

「そうでしょうね、っていうかいつの間に飲めるようになったんです?」

 アウドの記憶の中でシーグルが飲もうとする姿なんてある訳がない。だからついそう聞いてしまったのは当然である。

「飲めるという程じゃないが、アウグにいる時にほぼ毎日飲んでいたから、前より多少は飲めるようになったんだ」

 前より多少は、というのが本当にたいした事がないのは、彼のグラスの中身は大して入っていなくて、それをシーグルが飲むというより舐めるような極小の一口づつで飲んでいるのを見れば分かる。

「知りませんでしたよ。グスあたりが今の貴方を見たら驚き過ぎて腰ぬかすんじゃないですかね、ランとか青い顔で貴方がいつぶっ倒れるんじゃないかとはらはらしながら止めにきますよ、きっと」
「だろうな、彼らは心配性だから」
「年寄り連中は特に貴方に対しては過保護酢過ぎるくらいですからね」
「年寄りまで言うのは酷いだろ」
「いやぁでも、グスなんか貴方に対しての態度は孫を見るじいさんそのものですよ」

 隊の連中の話に楽しそうに笑っていたシーグルは、だがそのアウドの言葉で急に無言になる。それから、手元のグラスに口をつけて、減っていないようにも見えるくらい少しだけ飲んでからグラスを置いて呟いた。

「お爺様には、グスみたいに心配された事はないな」

 それに内心、しまった、と思って口を押えたアウドは、どうフォローすればいいか悩んで頭を下げた。

「申し訳ありません、貴方のお爺様については……」
「いいさ、別にあの人に恨み言を言いたい訳でもないし、笑って亡くなったそうだからあの人自身悪い死に方ではなかったのだろう……最期に、俺が生きていると告げたら笑っていたそうだ」

 酔っている所為だけではなく、シーグルの瞳はアウドに向けられずずっと遠くに向けられていた。それに少し寂しく思う部分もあったが、こんな時の相手に自分を選んでくれる事には素直に嬉しいとも思って、笑みを浮かべながらアウドは酒を持って彼の向かいの椅子に座った。

「とても厳しい方だったと聞いています。けれど、貴方の事を愛してらしたのは間違いありませんよ。だから笑って逝けたのだと思われます」
「そう、だろうか。ただ跡継ぎが生きていた事に安堵しただけだったんじゃないか」
「違いますよ、跡継ぎさえいればいいのでしたらシグネット様がいるじゃないですか。貴方が生きていたことに安堵して、だからこそ悔いはないと笑ったのではないですか」

 シーグルはそこで、両足を椅子に乗せて膝を抱くと顔を押し付ける。嗚咽は聞こえなかったが泣いているのかもしれないと思ったアウドは、それ以上彼に声を掛ける事を止めて酒を飲んだ。当たり前だが自分がまず飲めないと思われる高価い酒はやたらと美味くて、更に目の前に彼がいると思えばその美味さが倍増している気がした。
 ただ飲み過ぎると理性が怪しくなるかもしれないから、あまり飲み過ぎてはいけない、とアウドは自分に言い聞かせたが。

「……誰も彼も皆、俺に生きていてほしいと言う、大切だと言う」

 顔を押し付けたままだからくぐもった呟きだが、それが聞こえてきてアウドはすぐに返した。

「当然ですよ、貴方は皆に愛されているんですから」

 シーグルは顔を上げない。ただ呟きのような弱弱しい声は続いて、アウドの耳にも小さく届く。

「皆が俺を大切に思ってくれるのは嬉しい……嬉しいんだ。だが、だからと言って自らの命を棄ててまで守って欲しい訳じゃない。何故誰も彼も皆、勝手に俺に命を掛けるんだ、俺に自分を大切にしろと言っておいて、彼らの方が命を大切にしないんだ。俺の命はそんなにたくさんの命を掛けるの程なのか。俺は何も出来ない、迷って、失敗して、今は貴族でも騎士でもない、何の力もない」

 あぁこれは愚痴なのだと、普段弱音を吐こうとしない青年の泣きそうな声を聞いてアウドは目を閉じる。返事が欲しい訳ではなく、ただ吐き出したいのだと。だから自分の役目はそれを聞いて、忘れたふりをする事だろう。

「……セイネリアがどうしてあそこまで俺に拘るのかもわからない、俺があいつにやれる事も分からない、ただあいつは勝手に俺を大切にして……大切にしすぎて、俺を失くす事を恐れて触れないと言い出すんだ、苦しそうに怯えて……俺は何だ、俺はそんな弱く見えるのか……人形のように大事に保管でもされてろというのか」

 それには、なるほどそういう事か、とアウドは思いながら、大体察したセイネリアの言動とこの状態を繋げてみる。怯える、などというまったくあの男に繋がらない単語に違和感を感じながらも、それほどこの人の事が大切なのだろうと思えば否定は出来ない。
 あの男がシーグルの事をこちらの感覚では測れないくらい深く愛しているのは疑う余地もない事実だろう。彼以上にシーグルを愛してると言えないのがすぐ分かったからこそ、却ってアウドはすっきりしたくらいだ。あの規格外の化け物は、彼の中にある感情全部をつぎ込んでシーグルだけを愛してるのだろう。そら、愛される側もきついよな、と思わなくもない。
 考えながら酒を飲んでいたアウドは、だがいつの間にかシーグルの声が聞こえなくなっているのに気付いた。そっと様子を見てみれば、彼は先ほどのままの体勢でまったく動かず、それでも暫く見ていれば、ふと彼の足が床に落ちてそのままゆっくりと体全体が崩れていこうとする。

「うわまっ」

 慌てて立ち上がってどうにか彼が椅子から落ちる前にその体を受け止めたアウドは、ほっとしてそっと彼の体をきちんと椅子に座らせた。ぐんにゃりと力の入っていないその体で察してはいたが、一度顔を覗き込んでそれで完全に彼が眠っているのを確認してから、今度は抱き上げてベッドへ運ぶ。

「正直、こういう貴方に触るのは俺的にかなり辛いんですけどね」

 こういう役はやはり体格的にも性格的にもランが適任だったと、あまり彼の顔を見ないようにしてベッドに降ろし、アウドは一度安堵の息をつく。あとは上掛けを掛けてしまえばと思ったアウドは、だが直後にシーグルに腕を掴まれて驚いた。

「アウド」
「……起きたんですか?」

 マズイ、と思ったアウドはとりあえず顔をシーグルから出来るだけ離した。
 そうすれば彼は酔っているのかそうでないのか、あの独特の濃い青の瞳を真っ直ぐ向けてきて、アウドも目を逸らせずに見つめ返してしまった。

「簡単に死んでもいい、なんて二度というな」

 強い声は酔っ払いの戯言に思えない。掴んでくる腕の力も相当で、アウドはまずいと分かっていても彼の顔から目を離せなかった。

「絶対だ、俺を助ける為に動く時も、まずお前も生き残ることを真っ先に考えろ、分かったな。もう……俺の為に誰かが死ぬのなんて嫌なんだ……」

 その言い方の必死さに驚くと共に、アウドは何かあったのかとまず考えた。内乱中に彼の親しい者で誰かが死んだのか……だがそれを今聞いてはいけない事も分かっていた。今ここでこれ以上彼の傷を抉ることはしたくなかった。

 ただ、もう限界だな、とアウドは思う。

「本当は、耐えるつもりだったんですよ」

 掴まれた腕を逆に掴み返して、それをベッドに押し付けてアウドは彼の上に乗り上げる。意外な程あっさりとそれを許した彼に、勢いのまま唇を押し付けて、その感触を味わう。そうすればもう止められる訳がない。舌を絡ませて、体を擦り付けて、彼の体を弄(まさぐ)る。
 一度欲望の暴走を許せば下肢が熱くて、彼が欲しいと体も暴走を始める。この美しい人を貪れるのだと思えばなけなしの理性など簡単に吹き飛ぶ。
 それでも、唇を離して、見下ろした彼の深い青の瞳が涙に濡れているのを見た瞬間に体が止まった。

「……このままだと、俺は抑えられませんよ」

 そうすれば彼は視線を外して、どこか遠い宙を見つめていった、構わない、と。
 そこでアウドは自分の思考が吹っ飛ぶ前に、最後の理性を手繰り寄せて一度体を離してベッドを下りた。そうしてテーブルにあったグラスの中身を一気に呷ると、ベッドに戻って身動き一つせずにそのままでいる彼に口付けた……いや、口の中のものを彼の口腔内に流し込んだ。

「ンぅ……」

 何をされるか分かった彼が驚いて抵抗する。
 顔を引き剥がそうとしてもその腕の力は弱く、全部を飲ませるまで押さえつけることは容易(たやす)かった。唇を離せば酒の強さに咳き込む彼の顔を見下ろして、アウドは泣きそうな顔で彼に笑いかけた。

「……なら、もう少し、完全に酔ってください。正気の貴方を抱くのは俺も辛いんですよ」

 咳き込みながらも抗議するようにこちらを睨んでいた彼の瞳から険が取れる。そうして彼はその瞳を閉じると、すまない、と呟いた。




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 酔っぱらった所為で子供っぽい言動になるシーグルを書くのが楽しいです。って事で次はエロ。
 



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