心の壁と忘れた記憶




  【4】



 その日の夜、部屋に帰ってきたシーグルは、薄暗い廊下の中、自分の部屋の前に立っている男を見て、それが誰だかすぐに分かって表情を和らげた。

「まさか待っていたのか?」

 聞けば、こちらが近づいてくるのは既に気づいていたのだろう、アウドは背筋を伸ばして騎士団式の礼をする。

「勿論です、私は貴方の部下ですから」

 それに少し困ったようにシーグルが笑えば、彼も表情を緩めて笑い、姿勢を崩した。

「ただずっとここに立って待ってた訳じゃありませんよ。この廊下を行ったり来たりして歩き方の練習をしていたというのもあるんです」
「そうか、足は本当に治ったのか?」
「えぇ、ちゃんと動きます、痛みもしません。ですがやっぱり長年のクセがついてますからね、どうしても普通の歩き方っていうのが上手く出来ないです。自分では普通に歩いてるつもりなのにどうしても重心が寄ってしまってですね」
「そうだな、俺も足を折った後は治ってもなかなか普通の歩き方に戻せなかった。お前の場合なら尚更だろう」
「えぇ、これから暫くはその為にも歩き回りますよ。なにせ普通に歩けない限りは、外で貴方の傍についちゃならないって言われてますからね」
「そうか……」

 そうして軽く歩いてみせた彼の歩き方は確かに少し違和感があって、またシーグルは笑ってしまう。それでも、彼の足が治ったというその事自体は心から嬉しくて、揶揄うような笑い声は消えて微笑みだけが顔に残る。

「まぁ、まともに歩いてるように見えるまでには少しかかりそうですが、それでもこの足なら何かあった時にちゃんと走る事が出来ます。これからは貴方が走っても追いかけられますよ」

 そう嬉しそうに言う彼はどこか不恰好ながらも軽い足取りでまた歩きだし、そうしてシーグルの部屋から一つずれた隣の部屋のドア前に立つと、そこでぺこりとお辞儀をしてみせた。

「今日からここが俺の部屋だそうです、御用があればいつでもお呼びください」

 シーグルの部屋から見て反対側の隣の部屋はソフィアの部屋であるから、ここの敷地内でさえ自分を守る為の配置なのかとシーグルは思う。本当に、どこまであの男はシーグルを守る事に関して何重にも手を回しているのかと感心するやら呆れるやら……そうして結局は、どれだけ彼が恐れているのかを実感してしまって辛くなる。

「では、今日はおやすみなさいませ、もし一人寝が寂しくなりましたらどんな夜中でも起こして頂いて結構ですので」

 それは彼としては冗談だったのだろうが、騎士団にいた時ではいつでも言われていたその手の冗談は今は笑う気になれなかった。本当に今の自分が一人で寝ているとは、恐らく彼は知らないのだろうと苦笑する。ここひと月、足の調整の為にドクターの傍の部屋で寝泊まりしていた彼は、訓練場で会う事はあっても大して話をしていなかったし、シーグルがセイネリアといるところを見てもいないだろう、知らなくて当然だ。

「おやすみ」

 だから特に彼の冗談にはなんの反応もせずに、それだけ言って部屋に入ろうとしたシーグルだったが、ドアを開けて中に入ろうとしたところで足を止める事になった。

「えぇぇえっ、なんであんたがここにっ」

 アウドの声に驚いて彼の方を見れば、彼の部屋の更に隣の部屋から誰かが出てきたようで……ただシーグルにはアウド自身の体とドアが邪魔で、かろうじて銀髪らしい頭がちらと見えただけでその誰かの姿を見る事は出来なかった。

「いやー……今日から俺もここに住む事になったんで……」

 だが聞こえてきた声には覚えがあって、シーグルは少し考える。そこからドアを閉めてアウドの方に向かっていけば、やっと見る事が出来たその人物を見て、シーグルも驚いてアウドとほぼ同じ事を言ってしまった。

「何故、貴方がここに……」

 言葉通り、シーグルには何故彼がここにいるのか全く理解できなかった。だが言った後ではたと気づいて思わず背筋を伸ばす。幸いまだ兜を取る前だから誤魔化せる筈だと思って、慎重に彼に対して礼を取る。

「エルクア様、ですね、何故貴方がここにいらっしゃるのでしょう?」

 そこで一瞬の沈黙が生まれる。
 それから、礼を取ったままの姿で頭を下げているシーグルに向かって、頼りなさそうな貴族青年の声がそれはそれは控えめに、大層申し訳なさそうに掛けられた。

「えーと、実は俺は全部分ってて……顔、上げてくれるかな、シルバスピナ卿……じゃなくてここだとシーグル、いやレイリースって呼べばいいのかな?」

 それに驚いて顔を上げたシーグルだが、何か言うより先にアウドの声が響いて声を出すタイミングを失った。

「はぁ? 一体どういう事です? 何であんたがここにいて、事情を全部知ってるんですか?」

 掴みかからんばかりの勢いでアウドが彼に詰め寄って行けば、元から気の弱そうだった貴族青年は思い切り腰がひけた体勢になる。

「えーとえーと……そのっ……俺は、実は元々セイネリアとは繋がってて……騎士団でシーグ……レイリースに何があったらあの男に知らせてたんだー……とか言ったら怒る、かな」
「確かあんたはこの方が来る少し前に騎士団に入ったんでしたよね? まさか最初からそのつもりで……」
「いやっ、そうじゃないんだ、そうじゃなくてたまたまあの男と知り合っていろいろある内に俺は騎士団にいるからあんたの大事な人の事が報告出来るって話になって……まぁその成り行き的なものなんだ」
「それでウチの隊長に近づいて来たって事ですかね?」
「まぁそうなる、かなぁ……」

 ははは、と引き攣った笑いを浮かべる彼を見てはなんだか怒る気にもなれなくて、シーグルは大きくため息をついた。
 言いたい事はほぼアウドが言ってくれた所為でもう彼を問い詰める気力もないが、首都の騎士団内で一番信頼していた彼がセイネリアと繋がっていたという事実はシーグルにとっては少なからずショックな出来事である。他の貴族騎士と違ってちゃんと訓練に参加して部下達に慕われている彼を認めていた分、それがこちらに近づいて信用させるつもりだったと考えるのは辛かった。

「俺を、騙していたのですか?」

 だからそれを否定してほしい気持ちでそう尋ねれば、彼は慌てて首をぶんぶんと振る。

「いやいやいやっ、騙すとかそういうのが出来る程俺は有能な人間じゃないからっ。確かに貴方に近づいたのはあの男と約束したからだけど、真面目に訓練に出たりするようになったのは貴方がどれだけ努力してるのか分って自分が恥ずかしくなったからで……あの男に貴方の事を伝えていた事を黙っていた以外、本気で他に貴方に対して嘘は言っていないんですよ〜〜」

 なんとも情けない声で言ってくる彼の言葉は嘘には聞こえないが、それでもシーグルは考えて黙る。だがそうすれば、今度は代わりにアウドが口を開いた。

「っていうか、騙す気がなかったって割に、騎士団と今じゃそもそも口調が全く違うんじゃないですか? 猫を被ってたって事でしょうかね?」
「こっちが地なんだよっ、騎士団だと流石に猫も被るさっ、がんばって貴族らしく取り繕うだろ一応隊長って立場だったしっ。……なにせ元々俺は貴族と言っても4男で全く家族からも期待されてないし何も出来ないし18まで遊んでてイキナリ露頭に迷いそうになったから貴族ってだけでどうにか騎士になっただけの無能で取柄は顔だけって言われてその顔だってシルバスピナ卿には全然かなわないって分ったらもう何もなくて彼女にもフラれて人生投げたくなってた時にあの男に出会った訳で……」

 なんだか目が死んできてひたすら自虐を続ける青年に、流石にアウドも気の毒になったらしい。

「あーもういいです、分かりましたよっ。少なくともあんたが悪気あった訳じゃなかったってのは分りました」

 それでも目が死んだままのエルクアは、今度はちらと上目使いでシーグルを見てくる。騎士団時代からすると数倍情けない顔をしている彼には呆れはするものの同情もして、シーグルは再びため息を付くと彼に向き直った。

「もういいです、騙したなどと言った俺も悪かったです。終わった事を今更あれこれ言っても仕方ありませんし、もうその件を話すのは止めましょう。それで貴方は、今日から将軍府所属になったのでしょうか」
「あぁ、つい一週間前に上から配属替えの命令が来て、今日からここで事務処理の手伝いをする事になったんだ」

 それにまたため息をついて、今度はエルクアへではなくセイネリアはどういうつもりなのだろうとシーグルは考える。確かにエルクアなら事務仕事要員にはなるだろうが、予備隊とはいえ隊長職の彼を唐突にそんなところへ配置換えなんて彼が何かやって左遷されたのかと言われてもおかしくない。流石に不自然過ぎて何かあったのかと詮索する者も出てくるだろうに……と考えていたシーグルは、そこで知っている足音を聞いて廊下の先を思い切り睨んだ。
 カチャ、カチャ、と甲冑を着ている者特有の音を鳴らしてゆっくり歩いてきたその黒い影を見て、シーグル以外の二人が緊張を纏う。全身黒い甲冑に身を包み、顔まで黒い仮面に覆われた姿は、その長身も相まって威圧感が凄まじい。

「セイネリア」

 シーグルがその名を呟いて、息を飲んだまま動けなくなっている二人の前に出る。

「何の用だセイネリア、もう来ないんじゃなかったのか?」

 セイネリアはシーグルの前で足を止めて、だが視線はシーグルではなくその後ろに向けた。

「あぁ、言った通りお前の部屋にはもう行かない。ただそこの馬鹿が遅いから、迷ったのかもしれんと思って迎えに来て見ただけだ……こい」

 言われたセイネリアの視線の先にいる人物――エルクアは、そこで焦ったように前に出てセイネリアの傍に行く。それを確認したセイネリアは、今度はシーグルに顔を向けた。

「今夜からはこいつがお前の代わりという訳だ、言った通りお前もなんならその部下にでも相手をしてもらえばいい」

 それで後ろを向いたセイネリアに、怒鳴ったのはシーグルではなくその言われた部下にあたる男だった。

「おいっ、どういう事だっ、あんたはこの人の事がどうしても欲しかったんじゃないのか? 自分ものだって、ついこの間俺に見せつけたのは何のためだったんだ?」

 だがそれを止めたのは黒い騎士本人ではなくアウドの前にいた彼の愛して止まない青年の方だった。彼は手でアウドを遮ってその体と声を止めると、一歩前に出て真っ直ぐここの主である男の背を見ていった。

「セイネリア、本当にいいんだな?」

 落ち着いた声でシーグルが聞けば、黒い騎士は一瞬だけこちらを向いて、無言でまた前を向いてあるきだす。それを睨み、まだ何かを言うべきか悩んでいたアウドはだが、服を引かれてそれが自分が剣を捧げた青年だった事に驚く。

「アウド、俺の部屋にこい」

 その言葉の意味が分からない筈はなく、ごくりと唾を飲み込んで、アウドは引かれるままシーグルの部屋の中へ向かう。そうして中に入る直前、去って行く黒い騎士の方を見れば、その姿は振り返りもしないでただ遠くなっていくだけだった。



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 ここでようやっとエルクアさんの事情がシーグルにバレました。
 



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