心の壁と忘れた記憶




  【1】



 金と銀の散りばめられた家具が並ぶ豪奢な部屋は、けれど薄紅色と白のストライプの壁紙の所為であまり威圧感を感じない。それに戸棚や客用椅子、ちょっとした台などの家具は豪奢であるのに部屋の真中で一番存在を主張している作業机が割合飾り気のない、ただ大きさだけはある実用本位なモノである事を見れば、ここの今の主が仕事熱心でこの部屋を名前通り仕事部屋として使っているというのが分る。
 客用の長椅子の背に腕を掛けて座っているセイネリアは、部屋を一通り見回して、それから最後に作業机から一番よく見える壁に掛けてある肖像画を見て、部屋の主の顔に視線を向けた。

「――いいでしょう、それは許可します」
「感謝する」

 座ったまま口だけでそう返すという、本来ならとんでもなく不敬な態度で答えたセイネリアは、そこでまた肖像画――彼女の最愛の夫の絵を見て考えてから、口元を自嘲に歪めてゆっくりと立ち上がった。

「ならさっさと出ていくとするか、人払いをしてここに長くいると下種な噂を流す奴が出るかもしれんしな」
「全くそうですわね。そんな噂を流す者がいたらそれだけで死刑にしたいくらいですけど」

 笑顔で言う彼女の言葉は冗談だろうが、気持ち的には本心だろうとセイネリアは思う。実質的に現在このクリュースのトップである摂政のロージェンティは、基本的に性格は相当にキツイ。元々は夫となる王を操って国政をヴィド家のものにするために育てられたのだから当然ではあるのだろうが、仕事の話では女だと思わない方がいいくらいに理性的で頭がよく回る。特に彼女は、彼女の一番大切な息子の為ならどれだけ冷徹な判断でも下せる分、へたな男より余程割り切りがいいのだ。
 ……だからこそ、この状況で『組んで』いられる訳だが。

「ただでさえ、貴方がシグネットの前だと別人のようになって可愛がるのを見て、父親になるつもりだと言っている者がいるのですから」
「恐ろしい将軍も王だけには甘い、というのはありだろ」
「その効果も否定はしません。……ただ、私個人的には羨ましい事ですけれど」

 その彼女も、最愛の息子と夫の事だけには女に戻る。けれど彼女をセイネリアが有能だと思えるのは、彼女自身もそれを分っていて自制している事だ。

「男性方は、どれだけ可愛がっても厳しさを教える事が出来ます。私には……きっと出来ないでしょうから」

 だから彼女は息子と距離を取る。王となる息子を甘やかさないように、厳しい母であろうとする。その判断に関しては、セイネリアは彼女を相当に認めていた。

「特に貴方の場合はきっと、どれだけあの子を甘やかしても甘いとは言われないのでしょうね」
「そんな事が言える度胸のあるものはいないだろうな」
「でしょうね」

 それでセイネリアが部屋を出て行こうとすれば、本来なら立場的にあり得ない事だろうに、ロージェンティはセイネリアの背に向けて頭を下げた。

「あの子を頼みます。何があってもその約束だけは守ってくださいませ。そうであるなら私は貴方のやる事にとやかく言う気はありません」

 今の彼女にとって、やる事全ては愛する息子の為。愛する夫の忘れ形見である息子の為なら、彼女はプライドも命さえ捨てても何でもやるのだろう。
 だがもし――愛する夫が生きていたなら彼女はどちらを取るのだろうか。母であろうとするのか女であろうとするのか、そんな事を考えながらセイネリアの唇は自嘲の笑みが浮かぶのを止められなかった。








 不安を抱えながらも大きな事件が起きなければ、毎日仕事に追われてそれだけで日は過ぎる。
 季節は完全に秋へと移り変わり、新政権が発足した記念すべき年の聖夜祭はそれはそれは盛大に行われ、人々は誰もが皆、これからこの国は良くなっていくと信じて疑わず笑みと歌に包まれた。今年から貴族以外にも出場枠が与えられた競技会は例年になく盛り上がり、結局優勝して月の勇者となったのはまたチュリアン卿ではあったのだが、いつものような一方的な勝ち試合ばかりではなく白熱した試合が多く出て人々を熱狂させた。
 幸い、ともいうべきかチュリアン卿は忙しかったようで、競技会の終了と共に彼は急いで砦に帰る事になってしまい、お蔭でシーグルと彼との約束はまた果たせずに終わる事になった。とはいえ、シーグルとしては実はそれに安堵していたというのがある。彼と会って話していたら、また自分の感情が制御できなくなってしまうかもしれない。それよりも、今の自分の抱えている不安を彼に打ち明けてしまいそうだった。

「もうすぐ、また冬か……」

 リオロッツが死んで首都に帰って来て……そこから一年、早いものだと思いながら、シーグルは今は将軍府と呼ばれる元黒の剣傭兵団の建物から中庭の様子を伺っていた。実はシーグルはもっと早くから起きて既にあそこで軽く剣を振って来ていたのだが、先程はまだ人影が見えなかったそこに数人の姿を見て、結構熱心な者達がいるのだなと思ったりする。
 そこで思わず口元を綻ばせたシーグルだったが、これから行く場所の事を考えればその笑みもすぐに消えた。

――あいつは、本当に眠れているんだろうか。

 セイネリアがシーグルの部屋に来なくなってから、彼とその日最初に顔を合せるのはシーグルが朝一で将軍の執務室を訪れた時というのが普通になっていた。会うと大抵既に身支度を整えて仕事が出来る恰好になっているセイネリアだが、平静を保っているもののいつもあまり顔色がよくない気がシーグルはしていた。かといって聞いても『問題ない』としか答えはしないし、仕事上で疲れた様子を見せたりなどという事もないから、シーグルも今のところそれ以上聞くことは出来ないでいたのだが。
 ただ彼がシーグルと寝ていた時なら、シーグルが来るその頃なら彼はまだベッドにいた時間で、少なくとも前より彼が早く起きている事だけは確かだった。

 そうして今日も、執務室の内扉が開かれればそこにはセイネリアが既に鎧を着こんだ状態で立っていた。……いや、恰好と何より持つ雰囲気からすればそれは確実に彼だと分るのだが、そこにいた人物の顔を見れば黒い鎧に合わせたような黒い兜……というより頭全体を覆っている仮面といった方が近いものを被っていた事で、シーグルは僅かに緊張を身に纏った。
 普段ならセイネリアは大抵鎧だけで、兜まで被っている事は戦いに赴く時以外はまずない。しかも今彼が付けているソレはシーグルが見た事がある彼の兜でもなかった。
 シーグルが入ってきたのに気付くと、彼はこちらを向いて仮面の下から見える口元だけに笑みを浮かべた。

「いつも早いな、レイリース」
「おはようございます」

 そこから少しの間が空いて、けれど無言で待っていれば彼の方から話しかけてくる。

「どうだこれは、なかなかハッタリが利いているだろ」
「ハッタリ、ですか?」

 一瞬、仮面舞踏会の予定でもあっただろうかと考えてしまったシーグルだが、どう考えてもそんなものの為にわざわざここまで手間を掛ける男ではないと思い直して、改めて正直に聞いてみる。

「失礼ながら、それは一体どういう意図の為のモノでしょうか?」
「何、演出の為の小道具と言ったところだ」

 その答えは当然訳が分らなくて、シーグルは兜の下で顔を顰める。

「皆から恐れられる将軍様としてはなかなか不気味で良いと思わないか、シーグル」

 それでシーグルは態度を崩し、大きくため息をついた。

「なんだそれは、遊びじゃないんだぞ」

 口調も地の言い方になる。
 最近では、セイネリアが『シーグル』という名を呼ぶまで、シーグルはあくまで『レイリース』としての態度を崩さない事にしていた。セイネリアもそれを分っているのか、二人きりになってもすぐには砕けた話はしてこない。前なら誰もいなければすぐに触れてきていたあの男は、今では必要がない限り一定の距離を必ず取っている。それに気付く度にシーグルは苛立ちを感じてレイリースとしての態度と口調で接するのだが、そんな自分にも苛立ちを感じてしまうから困る。

「既に摂政殿下には許可を取っている、今後は人前では俺はこれでいこうと思っているんだが。……なに、お前ともバランスが取れて丁度いいだろ」

 やけに楽しそうに彼が言うから、シーグルは最初、セイネリアが本気だとは思わなかった。

「何がバランスだ、今更顔を隠して何がしたい?」

 だから声に険が入ってしまうのは仕方なく、ただ当然といえば当然だがセイネリアはそれに微塵も動揺は見せずに笑って言ってくる。

「……そうだな、例えば影武者が立てやすいだろ?」

 シーグルは兜の中で益々顔を顰めた。常日頃から、いくら自信があるからと言っても自らの身を護る事に無頓着な男が言えば、それは冗談にしか思えなくても当然だろう。

「お前がそんなものを必要とするとは意外だったな。いつも自分の警備には無頓着じゃないか」
「勿論、影武者といっても別に命が惜しいから立てる訳じゃない、この間の内乱である程度俺の力をあちこちに知らせる事は出来たからな、大抵の馬鹿共なら俺がいるというそれだけで抑えられるだろ?」

 それでシーグルもセイネリアの言いたい事がおおよそ理解出来た。

「つまり、お前がいる、と偽装しやすくする為か」
「そういう事だ、『かかし』でもおいて置けば害獣は寄り付かなくなる」
「確かに、それはそうだが……」

 理由として理に適ってはいるが、さすがに唐突ではないかという気もする。
 だがセイネリアは妙に機嫌がよさそうに話を続けた。

「それに『人々から恐れられる将軍』としての演出にもなかなかいいと思わないか?」

 シーグルは彼の真意を掴む事が出来なかった。だから黙っていれば、更にセイネリアは機嫌が良さそうな口調のままでさらりと飛んでもない事を言う。

「この姿で初めての仕事が馬鹿貴族共に死刑をいい渡す事なのだから、効果は絶大だと思うがな」

 流石にそれは聞き流すには不穏過ぎて、シーグルは聞き返した。

「どういう事だ……死刑になる馬鹿貴族とは誰の事を言っている?」

 そうすればセイネリアは仮面を付けた不気味な姿のまま、口元の笑みだけはそのままに感情のない声で答えた。

「それは当然、王を殺害した貴族共に決まっているだろ」
「まて……お前は、彼らの罪を問わない代わりに王を殺害させたのではないのか?」
「リオロッツに付いた事について罪を問わない、という約束だ。王族を殺せば死罪は当然だろ、なにせアルスオード・シルバスピナはその罪で死刑が言い渡されたんだ」

 確かに言っている事は理屈としては正しいのだろう。だがそれでは結局、最初からセイネリアはあの貴族達を殺すつもりで騙したということになる。

「なら結局、彼らはお前にただ利用されただけか」
「一応奴らには選ばせてやったつもりだぞ。本人が処刑されるだけで家を存続させるか、命は助かるが家を潰すか。それにこれだけ猶予期間をやったんだ、のうのうと自分の罪が全て許されている筈などと考える馬鹿が悪い」

 確かにセイネリアの言う通り、あの場でリオロッツの殺害に関わっていないと言って大人しく投獄された者達は、貴族位を取り上げて家を潰す事は決まっていたものの即位式の恩赦で解放されていた。自ら自分が殺害したのだと言ってきた者達は今まで放置されてはいたが、自分がした事を冷静に考えればそのままで済む筈がないと考えていないのは愚か過ぎるとは言える。

「これでも最後のチャンスだって与えてやってる。今日、議会に呼び出されても警戒してこなかった者についてはそのまま逃げて姿をくらますのならわざわざ追わないつもりだ。危機感もなくやってきた馬鹿共はどうせ馬鹿過ぎて貴族として飼ってやる意味もない」

 冷酷すぎるその判断に、シーグルは一瞬、セイネリアがちゃんと正気であるかどうかを疑ったが、こうして冷静に相手の行動を利用できる事こそが彼らしいのだと思い直す。ただ、余りにもセイネリア・クロッセスらしすぎてシーグルとしては違和感を感じもするのだが。

「言った筈だシーグル、俺はこの国で恐怖の対象となる。この姿と馬鹿貴族共の死でそのイメージは確定するだろうよ」

 確かに、この姿で今回の死刑を告げれば人々に与える印象は強烈だろう。そして、騙されたと思うだろう貴族達は口ぐちに彼を……こう、呼ぶ筈だ。

「やり過ぎだ、そこまで行くと悪魔と言われても仕方ないぞ」
「別に構わん、民衆も貴族共も震えあがるだろう」
「そこまでして恐怖のイメージを得る必要があるのか? お前が元から持っていた噂とヴネービクデで見せた力の噂だけで十分だ、それだけで皆お前を恐れている」

 セイネリアは冷静だ、いつも通りセイネリア・クロッセスが恐れられる通りの手腕で邪魔者を合法的に片付けているだけに過ぎない。その状況を利用して恐怖のイメージを強くしようとしているだけの話だ。
 だが何故か、シーグルは嫌な予感がして仕方なかった。セイネリアの冷静さが酷く不安で気分が悪い。

「何を心配している、いくら恐れられていても理に適っていれば大勢の非難はない。それで反発してくるのは馬鹿者だけだ、選別が楽でいい。……言ったろ、俺も程度は分かっている、やりすぎはしないさ」

 セイネリアのイメージとして『らしい』と思える事なのに、何処かその冷静さに狂気めいたモノを感じてシーグルは怖くなる。
 今の彼は本当に彼自身なのだろうかと。剣の影響はないのだろうか、と。
 仮面をつけた彼の顔からは、シーグルはそれを読み取る事が出来なかった。



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 何を考えてるのか分らない不気味なセイネリアさんですが、ちゃんと正気ですので。
 



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