希望と罪悪感の契約




  【2】



 朝食が終わって、片付けをしにきたカリンが部屋を去ると、部屋の中に聞こえるのは窓から聞こえる遠い鳥の声だけになった。
 朝らしい鳥のさえずりを遠くに聞きながら、午前中の明るい日差しが窓から差し込むのを目を細めて見つめ、セイネリアはゆったりと食後の余韻を楽しむように黙っていた。
 その沈黙の時間に、だがシーグルはすぐに耐えられなくなる。

「セイネリア、今後の、話だが……」

 思い切って口を開けば、セイネリアは視線を窓からの日差しに向けたまま声だけで返してくる。

「カリンやフユ達等、一部の者は、俺と個別に契約をしてここにいる」

 唐突なその言葉に、シーグルは一瞬意味が分からなくて困惑した。

「あぁ、それは知ってる」
「望みを叶える代わりに、俺の部下として従えという契約だ」
「あぁ……それも知っている」

 それはかつてカリンが教えてくれた話だった。だが、彼女は契約の為に従っているというよりも、彼の部下である事に誇りを持ち、自ら望んで従っているとも言っていた。それはラタも同じで、彼らは望みを叶える為にセイネリアと契約をしていても、その実セイネリア・クロッセスという男を主とすることに満足している。
 そうしてシーグルも思ったのだ、確かにセイネリア・クロッセスという男は、主として見るならこれ以上なく文句のつけようがない男だろうと。

「なら、話が早いな」

 遠くを見ていたセイネリアは、言いながらそこで視線をシーグルに向ける。何よりも強い琥珀の瞳が、真っ直ぐシーグルを見つめて言う。

「シーグル、お前も俺と契約をしろ」

 思ってもいない言葉に、シーグルは言葉もなく目を見開いた。

「お前は俺の部下となって俺の命令に一生従う。その代わりにお前が俺に望むのは……そうだな、シルバスピナ家の名誉を取り戻す、というのはどうだ?」

 セイネリアの口元には笑みがある。だが琥珀の瞳は昏い光を湛え、この男の底知れなさをシーグルに思い知らせる。

「あの家の名誉を取り戻し、お前の妻や息子が惨めな思いをしないで済むようにしてやる……護ってやる、までつけてもいい。家の名誉と家族、お前にとっては自分自身を懸けるには十分な条件の筈だ」

 驚き過ぎて呆然とするしかないシーグルは、思わず口を開いた。

「セイネリア……お前は言っている事の意味が分かっているのか?」

 現状で、シルバスピナ家の名誉を取り戻すとなれば、それは確実にその元凶である――王を倒す事になる。それをセイネリアが分っていない筈はないと思っていても、シーグルはそれを聞き返さずにはいられなかった。

「無論だ」

 セイネリアの笑みは少しも変らない。その瞳の強さも、自信も変ることはない。

「だがそうなれば王を……国を敵に回す事になるんだぞ」

 言えばセイネリアは更に笑う。口元をつり上げて、犬歯を見せ、その琥珀の瞳で敵としようとする者を見下すように不遜な笑みをシーグルに向ける。

「何を言っている、たかだか臆病な権力の亡者一人……俺に恐れる理由なぞあると思うか?」

 朝日の差す部屋の中、黒で身を固めた男の笑みにはその言葉を否定できない力があった。
 かつてシーグルは思ったことがある。
 セイネリアが更に上を目指すなら、貴族の部下や名誉ある称号などより更に上、彼の力に見合った地位を目指すのなら……他の者なら笑い飛ばされるだろうそれを、この男が言ったのなら冗談ではなくなる。セイネリア・クロッセスならそれが可能だと思わせる。
 そうしてまたシーグルはあの矮小な王を見て、セイネリアならいずれこの男を破滅させるだろうとも思った。自分を捕まえた段階でそれは確定だろうと思った。最強の騎士を恐れる余り自分に手を出したあの王を、セイネリアがただで済ます筈はないと思った。だから実際、王にもそう発言した――だが今、こうして実際それを自分の為にしてやるといわれれば、あまりにも大それたその発言を恐れずにはいられない。自分の身と引き換えに国をひっくり返すと軽く言う男の言葉に、それが実現可能だろうと思うからこそ返事をする事に恐怖を覚える。

「お前の妻や息子、兄弟達は現状、既にこちらの方で保護している。そのままどこかへ逃がしたいというだけなら、契約するしないに関わらずその程度は叶えてやっても構わない。だがお前が俺と契約するというなら……逃げるのではなく、堂々とリシェの街へ帰る事が出来るようにしてやろう」

 シーグルは考えた。
 どうする事が家族にとって一番良いか。
 どうする事がこの国にとって、国民にとって一番良いか。
 シーグル自身の望みよりまず、自分がどうする事が一番愛する人々にとって良い事なのかを考えた。

「俺一人のために、お前は王を倒すというのか」

 喉が緊張でひりついて声がうまく出せない。それでも震える声でそう尋ねれば、セイネリアの表情がふと和らいだ。

「俺は、契約する人物の価値に見合う望みを叶える。お前の価値は俺が決める。俺にとってお前はそれだけの価値があるという事だ」

 シーグルはそれで全てを決めた。
 口元を苦笑に歪めて、一度息を整えて、震える歯を噛み締める。それから瞳を真っ直ぐ最強の騎士にむけると、出来るだけ声が震えないように努めて言った。

「確認したい。もし、契約をしたなら――俺は、あくまでお前の部下であって、それ以外の何者でもない存在となる……そう、思っていいんだな?」
「そうだ」

 即答で返された言葉に、シーグルは大きく息を吐いた。

「なら俺は……お前の部下としてお前に従おう。お前のために戦い、お前の為に命を懸ける……抱かれろというならそれにも従う。だが……それは全て部下としてだ、だから一つ……条件をつけていいだろうか」

 セイネリアは表情をピクリとも変えず聞いてくる。それは何だ、と。

「契約をしたら……お前は二度と俺に『愛している』という言葉はいうな。それは部下に言うべきではない言葉だ」

 セイネリアはそれでも表情を変えはしなかった。だが今度は口を開こうとはしなかった。
 暫くの間沈黙が続き、琥珀の瞳だけがじっとシーグルの顔を映す。シーグルもまた、その瞳を見つめ返して、ただセイネリアが返事を返すのを待った。
 そうして暫くの時間が過ぎてから、セイネリアの瞳が僅かに伏せられた。

「……いいだろう、条件がそれだけなら契約は成立だな」
「あぁ」

 シーグルはそれと同時に肩から力を抜いて息をついた。
 そうして椅子から立ち上がると、セイネリアの前に跪いた。

「セイネリア・クロッセス。我が剣は貴方のもの。以後私は貴方の命に従い、貴方のために生きると誓います。どうぞ我が剣をお受け取りください」
「あぁ、受けよう」

 だが、その姿を見下ろす琥珀の瞳には、喜びではなく悲しみが濃く浮かんでいた事をシーグルが気づく事はなかった。




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 ちょっと短いですが、ここでどうしても区切りたかったので。
 いやーここに繋げたいためにここまで国の情勢いろいろやってきたので、やっとこさって感じです。



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