決断と決別の涙




  【7】



 手を伸ばせば、彼に触れる。
 誰よりも強い男の体に腕を回して抱きついて、しっかりとしたその感触に安堵して身を委ねる。体を支配しようとする熱を受け入れて、快感だけを感じて、彼の名を呼んで喘ぐ。
 相手が彼でなければ、ここまで体を任せない。
 相手が彼でなければ、自分から欲しがったりなどしない。
 彼であるからこそ、抱かれている事に悦びを感じる事が出来る。彼であるからこそ、求められている事を幸せだと思える。この腕が、強い身体全てが自分のものだという事に心も体も満たされていく。

 けれどシーグルは知っていた。
 最近、抱かれて意識が薄くなった時、疲れに目を閉じる瞬間に見るセイネリアの表情はいつも辛そうだと。あんなに普段は嬉しそうに自分に触れてくるくせに、その時の彼はやけに辛そうに、不安そうに自分を見つめている事を。






 熱が冷めてきた頭で天井を見たシーグルは、そこが見慣れない部屋だった事で一瞬、自分が今どうしてここにいるのかと考えた。だがすぐに自分に触れてくる気配を感じて、頭が完全にクリアになる。
 天井が見慣れないのは仕方ない、ここはセイネリアの寝室だ。改装してから来た事がないから見慣れなかったのだけの事だろう。アウドが退室した後、そのまま服を脱がされてベッドに運ばれたから、将軍の執務室付の寝室の方で事に至る事になったのは当然ではある。改めて見て、ベッドと作業用の机と椅子のセット以外にほぼ何もない殺風景な部屋に、ここがこの国を動かせる地位にいる男の寝室だと思えないとシーグルは心で呟いた。本気でここを使うつもりがなかったのだろうと思うと同時に、何故かこの殺風景な部屋を見ていると不安を感じてしまう。妙な圧迫感を感じるのは、高すぎる天井と、部屋に窓がないせいだろうか。

「お前なら、本気であのままアウドの前で俺を抱くつもりかと思った」

 気付けばずっと、飽きる事なくこちらの顔や髪を撫でてきていた男にシーグルが言えば、彼は丁度触れていた髪から手を引いて顔を覗き込んでくる。

「そうだな、最初はそのつもりだった」

 その顔に不気味な程表情がなかった事で、シーグルは思わず聞き返していた。

「怒って、いるのか?」
「何をだ」
「アウドを連れてきた事だ」

 そこでやっと、彼の顔に僅かな苦笑が浮かんで、シーグルは少しだけ安堵した。

「お前が無茶をして危険に晒されるのに比べれば怒る事ではないが……まぁ、あまり楽しい事ではないのは確かだ」
「アウドが気に入らないのか?」
「それは当然だろう」

 確かにアウドがセイネリアにとって気に入らない人物である事は分かっていた。最近のセイネリアが特に、シーグルが彼以外の者に気を掛ける事を不快に思っている事も分かっている。

「アウドを置く事を本当は了承したくなかったのか?」

 だからそう聞いてみれば、セイネリアは即答でそれを否定する。

「それは違う、でなければ最初から鍵を渡さないだろ」

 あぁなら最初から自分がアウドを連れてきてここにおいてほしいというまで彼の予定通りだったのだろう、とシーグルは思う。
 だが何だろう、妙な違和感というか、不安を感じるのは気の所為なのか。

「お前を守る為なら手を汚す事も命令に背く事も迷いなく出来る……お前のようなお綺麗な考え方をする人間には部下として有用な男だ。だからこそ奴の正体が分かっても放っておいたんだからな」
「騎士団にいた時から、やはり分かっていたのか」
「当然だ、お前の傍にいる人間は全員調べてある」

 一体、どこまでがセイネリアの想定内だったのだろう、とシーグルは考える。
 シーグルは騎士団でアウドがヴィド卿の元部下であると知ってそれを許した後、セイネリアに彼の事を知られてはならないと思っていた。だがそれは意味がない事で、セイネリアは承知の上で放っておいてくれたという事となる。アウドが有用だから気に入らないが手を出さず、こうして部下として今回も自分の傍にいる事を許す。彼らしい理性的な判断だが、彼の中でそれは本当に折り合いがついているのだろうかと、シーグルの中にそんな疑問が浮かび上がった。
 今、セイネリアがシーグルを見る瞳は少し怒っているもののとても苦しそうで、彼の真意がわかるようで分からない。

「……俺に何かあるのがこわいから、か?」

 そこで試しに聞いてみた言葉は、シーグルが思った以上の変化をセイネリアに与えた。
 眉を寄せて、瞳を震わせて、酷く辛そうな顔をした彼は、まるで泣き出しそうにみえた。

「……そうだ」

 そうして彼は、言うと同時に手を伸ばしてシーグルの体を抱き寄せ、抱きしめる。
 シーグルはそこで、彼の体が震えている事に気付いた。

「お前を失う事が怖い、お前がお前でなくなる事が怖い、この腕の中にあるお前がなくなる事が怖い。……無様な話だ」

 これは本当に、あのセイネリア・クロッセスなのだろうか。どこか呆然とシーグルは思う。いや、彼も人間である、彼の弱さも知らなくてはならないとそう分っていたし、傍にいる事で彼へのイメージは大分変わってきてもいた。レザの言っていた『ガキ』という言葉だって分ると思えたのに、今こうしてここまで不安定な彼は、自分が分っている『彼』とは違うと思ってしまう。
 今の彼は……恐れている、というより怯えている、ように見える。
 そう考えた途端、シーグルは体が冷えるような感覚を感じた。ぞくりと嫌な予感が背筋を走る。

「俺の存在がお前を弱くしたのか」

 こんなにも怯える程に、こんなにも致命的な程に、自分という存在が彼の中にあることで彼は弱くなってしまったのかと、シーグルはまだどこか呆然としている頭で考えた。

「今の俺がただ弱くなっただけだとお前は思うか?」

 皮肉めいた口調で返した彼の顔は、きつく抱きしめられているこの体勢では見る事は叶わない。けれども彼の体の震えはそのままで、シーグルの中に生まれた嫌な予感を更に育てていく。

「……あぁそうだな、確かに俺は弱くなったんだろう。だがな、だからといって今更前に戻れる訳もないし戻りたくもない。お前には分からないだろう、何かに飢えているのにそれが何か分からない感覚など、何をしても何も感じない者の気持ちなど、求めるものがすべて意味がなくなった瞬間の絶望など」

 セイネリアの声も、体も、震えが酷い。泣いているのだろうかと思ったシーグルは、抱きしめてくるというより抱きついてくる彼を抱きしめ返してやって、その背中を軽く擦ってやる。まるで宥めるように、母親が子をあやすように。
 暫くそうしていれば、やがて彼は抱きしめている腕を離してベッドの上に肘をつき、上体を僅かに上げた。
 その顔は、泣いてはいなかった。
 だが、どこか虚ろに淀んだ琥珀の瞳に、シーグルは分かっていてもぞっとした。
 ごくりと息を飲んで、けれど今の彼から逃げてはいけないのだと自分に言い聞かせ、その彼の顔に手を伸ばす。表情の抜け落ちた彼の顔に、僅かな感情の波が走って、唇が自嘲めいた苦笑を浮かべた。

 そうか、自分はこの彼をこそ見ていなくてはならなかったのだ。この彼をこそ、支えなくてはならないのだ。

 セイネリアの顔が近づいてくる、それにシーグルは目を閉じて両手を伸ばす。唇が触れたら彼の頭を抱いて、自分が彼を受け入れているのだと伝えてやる。
 噛みつくような激しいキスに頭が枕に押し付けられる。塞がれた口はぴったりと隙間がが少しもなく、離してもすぐに合せ直してくるから息をする暇がない。彼の顔があまりにも近いから鼻も半分塞がれた状態で、そちらからも息がしずらい。だから次第に遠くなってくる意識の中、唇を離す度に聞こえる彼の吐息があまりにも荒々しいから、まるで獣に組み敷かれているような気さえしてくる。
 それでも彼の頭を抱くその腕を離しはしない。ちゃんと自分はここにいて、彼を受け入れ、求めているのだと彼に伝えなくてはならない。

――どうして、気付かなかったのか。

 セイネリアは追い詰められている。シーグルを失うのではないかというその恐怖に。あの強い男がどうしてそこまで怯えるのかがシーグルには理解出来なくても、今の彼が彼として在る為には自分はいなくてはならないのだろう。
 自分を失いたくないと恐れる彼を愛しいと思う、けれどあの強い男が自分の所為でここまで追い詰められる事を悲しいと思う。
 そう、考えただけでシーグルの瞳からは涙が落ちる。

――どうしてこんな事になったのだろう。

 セイネリアが望んでいたのはこんな状況ではなかった筈だ。自分が彼のもとにいる事で望んでいたのも彼がこんな状態になる事ではない。
 意識が薄れて彼を抱く腕から力が抜けて落ちそうになる。それでも縋るように腕に力を入れれば、やっと唇が離されて空気が肺に入ってくる。シーグルは大きく口を開いて懸命に息を吸った。

「はぁあっ……は、ぁ、ぁ」

 急激に入ってきた空気を必死で取り入れて、けれどそれで一気に吸い過ぎれば咳が出る。咳き込んで、口を手で押さえて、体を丸めてベッドに転がりながらどうにか止めようとする。やっと息が整って目を開ければ、そこにはやはり辛そうにこちらを見下ろしているセイネリアがいた。

「なんて、顔だ……セイネリア」

 言えば彼は何かに耐えるように目を伏せる。
 シーグルは口を押えながらも、彼に笑ってみせようとした。……実際、笑えていたかはかなり怪しいが。
 多分、彼もどうすればいいのか分らないのだろう。これだけ強い感情を持った事がなく、感情で暴走したこともないからどうすればいいのか分からない。自分で自分の無様な姿が許せないのに、どうすれば自分の中の不安を打ち消せるのかもわからない。
 シーグルも当然、どうしてやればいいのかなんてわからない。
 でも、彼が自分を求めるなら、彼の不安の原因が自分を失いたくないからだというなら、シーグルには彼に自分を差し出してやるくらいしか出来る事はない。ほんの僅かでも彼の心が平穏を取り戻せるというなら、望みたいだけ自分を与えてやる事しか出来ない。




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 えー……次回は、全然気持ちよくなさそうなエロです。
 



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