決断と決別の涙




  【6】



 月が真上を過ぎた深夜。看守は深い眠りの中で、まだ誰も牢の異常を知らない騎士団は静まり返っていた。だから外まで出れば後はソフィアの転送でセイネリアのもとまではすぐ帰ることが出来た。将軍府にある転送部屋はセイネリアの執務室のすぐ傍で、扉前の警備兵は何故かいなかった。だからそのままアウドと二人で部屋に入れば、明かりのついた部屋の中、セイネリアが一人で待っていた。

「セイネリア、彼は……」
「分かっている、アウド・ローシェ、元お前の部下で、会うのは二度目か。前に会ったのはお前が魔法使い共に捕まった時だったな。そして……かつてヴィド卿にも仕えていた男だ」

 シーグルはそこで思わず息を飲む。どう言えば彼をここに置いてもらうことが出来るだろうと考えていたから、それ以前にアウドがセイネリアにとってどんな存在だったかが頭から抜け落ちていた。
 あの時のヴィド卿の部下達で、現在、無事を確認出来るものはいない。そうなるようにセイネリアが仕向けた。

「やはり気づいていましたか。そうです、俺は元ヴィド卿の部下として、この方を犯した事もある愚か者です。本来なら、その時点で他の者達と同じく罰を受けていたでしょう」

 反応出来ず棒立ちになっていたシーグルの前にアウドが出る。そうして彼はその場でセイネリアに向かってひざまずいた。

「ですから、貴方の前に出るだけで殺されることも承知の上でここにいます」

 セイネリアはそんなアウドを暫く表情のない目で見つめていたが、やがて足を組み直すと口元を皮肉げに歪めた。

「ふん、死ぬだけの覚悟があるから話を聞いてくれということか、いいだろう、聞いてやる」
「ありがとうございます」

 声を聞いてアウドは顔を上げる。そこでセイネリアの冷たい琥珀の瞳と目があった彼は、一度眉を軽く寄せたものの視線を外す事なく口を開いた。

「セイネリア・クロッセス、貴方は貴方が認めた者となら特殊な契約を結ぶ事があると聞きました。つまり、貴方に従う代わりに望みをかなえてくれると」
「それで、お前は俺に認められる自信があるというのか?」
「どうでしょう、自信はありませんが、どうせ殺す命なら貴方にとって有意義な使い道をしませんかという提案でもあります」
「ほう」

 シーグルにはアウドが何が言いたいかそれですぐに予想は出来た。本音で言えば今、彼から聞きたくはなかったが、セイネリアと交渉するならそれは必要な事なのだと自分に言い聞かせた。

「俺はいつでもこの人の盾となって死ぬ覚悟があります。つまり、貴方にとって何より大事なこの人に何かあった時、俺の命で少しでもこの人が生き残れる可能性を上げる事が出来ます」
「なるほど、同じ命ならこいつの肉盾として使ってくれというわけか」
「そうです。最初から貴方に望みを言える程、俺は自分に価値があるとは思っていません。ですが、利用価値を認めて貰えれば俺の願いは叶います」

 セイネリアの口元は笑っている。ただしそれは機嫌がいい笑みではなく、皮肉に歪んでいると言った方が正しいだろう笑みだった。だがそこで彼はふと口元からもその笑みを消すと、唐突に視線をシーグルに向けて聞いてきた。

「だ、そうだ。それならこいつの覚悟だけではなく、お前にも聞かないとならないだろうな、レイリース」

 兜の中、シーグルは唇を噛みしめる。何を聞かれるかは分っていても覚悟をしないと答えられないのは自分では分かっていた。

「お前は何かあった場合、自分の命と引き換えに迷いなくこいつを見捨てる事が出来るか? お前が少しでもこの男の命を惜しんで逃げる事を戸惑ったり余計な事をすればこの男と契約する意味はなくなる。この男がいる事でお前が逆に危険に晒される事があってはならない、それを俺に誓えるか?」

 それを肯定する事はシーグルにとってあまりにも辛い事だった。特に今はどうしてもナレドの事が頭をよぎってすぐに返事を返せない。だが今ここで『はい』と答えなければアウドはここに居られない。死刑となるだろうアウドを助けるにはここでシーグルはセイネリアに誓わねばならなかった。歯を噛みしめ、息を吐いて、シーグルは姿勢を正して主と向かい合った。

「……はい、誓います」

 言えばセイネリアは今度は満足げに笑って、いいだろう、と呟いた。
 だがそれで安堵したシーグルに、セイネリアは更に続けた。

「なら最後に、その男の覚悟を試しておこう。レイリース、こっちにこい」

 何を試すというのか、セイネリアの意図が分らないが、ともかく呼ばれたからにはその命令に従うしかなく、シーグルは主のもとに歩いていく。そうすればセイネリアは立ち上がって、手が届くところまでシーグルがくるとすぐにその体を引き寄せて抱き込んだ。

「おいっ」

 あまりに強引だった所為でセイネリアに倒れかかるようになってしまったシーグルは、彼に掴まりながらもその顔を見あげた。そうすれば今度は兜を外されてそのまま顔を掴まれ、文句を言う前に口づけられる。

「ンぅ……」

 投げ捨てられた兜が床で盛大に音を鳴らす。
 セイネリアのキスは時折突発的にしてくる軽いものではなく、深く唇を合わせて口腔内を舌で荒らしてくる思い切り本気のキスで、ここからいつも行為に至る事を知っている体は条件反射に熱が灯る。当然、不味いと思って逃げようとしてもセイネリアの腕から逃げられる筈もなく、口だけ逃げてもすぐにぴったりと相手の唇で覆われる。やがては逃げる事を諦めてされるがままになれば、熱に流されて鼻から熱い息が漏れていく。

「ふ……ん……」

 いつも通り、セイネリアの手が髪を撫ぜ、頬を撫ぜて、それから唇を何度も合わせ直して舌を絡ませては唾液が溢れる。そうしながらも抱きしめた腕の中で体を擦り付けてきて、股間に足が入って来てシーグルの腰がぴくりと揺れた。

「や……ぁ……」

 流されそうになりながら、このままだと本気でマズイと理解したシーグルは彼の腕の中で精一杯暴れた。抗議の為に肩を叩いて、胸を思い切り押し退けて……けれど唐突にびくともしなかった彼の腕から力が抜けて望み通り体が離れた。シーグルは体勢を崩して彼にまた倒れかかる体勢になってしまったものの、本気で怒りの表情を彼に向けて怒鳴った。

「どういうつもりだっ、セイネリアっ」

 シーグルの抗議は当然分っていたろうセイネリアは、動揺など微塵も見せる事なく口元だけで笑って見せる。

「試すと言っただろ」
「だから何をだっ」

 セイネリアの視線が、シーグルではなく跪いたままのアウドに向けられる。

「その男が黙って見ていられるかをだ」

 それにシーグルは目を見開いて驚いたものの、その意図もある程度は察して何も言えなくなる。

「ここでお前の傍につくというのなら、俺がお前を抱くのを何度も見る事になる。それを当然の事として受け入れられず仕事に支障が出るようでは使い物にならないな」

 そうしてまた腕の中に引き寄せられて、近づいてくるセイネリアの顔にシーグルは聞き返す。

「……だが、今ここでは俺が嫌だと言えば……本気で嫌な場合は止めてくれると約束した筈だ」
「あぁ、お前がどうしても嫌だというならやめてもいい。ただそれならこの男についての話はなかった事になるだけだ」
「それじゃぁまるで脅迫だっ」

 セイネリアの表情は少しも変わる事はない。選択肢はこちらだとでもいうようにじっと見つめてくる瞳に、シーグルはどう返すべきなのかを迷う。いや、状況で考えれば今ここで彼の言う通りにする以外に選択肢はないのだが、それでもまだどういえばここで抱かれずにアウドの事を認めて貰う言が出来るだろうなんて都合のいい事を考えてしまう。

「俺は構いませんが、その方が嫌ならば俺は去ります」

 見られたくないという、それだけの為に自分がここで嫌だと言えば、彼は死を承知でここを出て行くだろう。背後から聞こえたアウドの声に、シーグルは覚悟を決めるしかなかった。

「分った、気が済むようにすればいい」

 言えば、セイネリアの顔が近づいてくる。目を閉じれば唇が触れて、彼の匂いが鼻を抜ける。今度は、先ほどのように最初から深いものではなく、ついばむような軽いキスから始まってこちらの様子を伺ってくる。だからシーグルはいつも通りの優しい感触に安堵して、彼を受け入れ彼に身を委ねた。少しづつ深く唇を合わせ、少しづつ中へと入ってくる彼の舌に触れて、こちらからも彼を求める。その間にセイネリアの手は優しく髪を撫で、頬をそっと包んで頭を支え、唇をゆっくり重ねてくる。それは却っていつもよりも丁寧で、いつもよりも優しくて、深くなる口づけと共に彼が自分をどれだけ求めてくれていてどれだけ愛してくれているかが実感出来る。
 頬を包んでいたセイネリアの手がするりと耳の後ろ、髪の付け根から指を入れて頭を支え、顔を上に上げさせてくる。その体勢で上から押し付けるように角度を変えて口づけられれば、シーグルの体は少し後ろに倒れそうになる。だからシーグルは彼の背に手を伸ばし、彼の体に縋りつく。そうすれば頭を支えていない方のセイネリアの手が腰を引き寄せてきて、二人の体が密着する。
 その体勢のまま、セイネリアは何度も何度も角度を変えて深いキスを重ねてくる。シーグルはそれを受け止めては自分からも彼を求めて、お互いに相手の唇を追うようなキスが続く。いつの間にかシーグルの腕はセイネリアの背を持つというより首に抱きつくようになっていて、更に互いの体は隙間なくぴったりとくっついていた。
 そんな中、ふと離れた彼の唇が帰ってこないのを不思議に思ってシーグルが目を開けば、少し辛そうな顔をしたセイネリアが目に入る。思わず彼の名を呼ぼうとして口を開き掛けたシーグルは、だが次の瞬間に彼に強く抱きしめられて声を出すタイミングを見失った。

「シーグル」

 小さく囁かれた声は自分の頭に鼻を埋めたセイネリアのもので、彼はこちらの髪を撫でながら鼻を頭に擦り付けてくる。

「シーグル……」

 次に再び名を呼んだ彼は、言葉を続けようとしてやめた。けれどもシーグルにはその後に彼が続けようとした言葉が分ってしまって、自分の中に広がる罪悪感にいたたまれなくなる。

「セイネリア」

 だからせめて彼の名を呼んで、彼が続けようとした言葉と同じ言葉をこちらも言いたいのだと彼に知らせる。自分も彼を愛していると、言葉には出来ないそれを彼に縋りつく腕の力の強さで伝える。こんな状況なのに酷く不安そうに響くその声に大丈夫だからと伝える。
 そうして、暫く抱き合って体を擦りあわせて、ゆっくりと頭の上にあった彼の顔が離れるのを感じて顔を上げたシーグルは、優しい瞳で苦笑する彼の顔を見てしまった。

「セイネリア?」

 今度は尋ねるようにその名を呼べば、彼は額に触れるだけのキスを落して、そうして体をも離してくれる。それから彼は視線をシーグルの後ろに向けると、顔から表情を消して強い声で言った。

「試すのはここまでだ。お前の望みは叶えよう、後は退出していい」

 そのセイネリアの声で、シーグルはアウドが今この部屋にいて自分達を見ていた事を思い出した。急いで視線で探せば無言のまま部屋を出て行こうとする彼の背が見えて、シーグルは声を出そうとしたが、それは再び押し付けられたセイネリアの口腔内に消え失せた。








 バタン、と扉が閉じる音と共に部屋を出れば、二重扉の外扉は開いていて、そこには傭兵団の者と思われる灰色の髪の男が立っていた。確実に自分を待っていたと思われる男に苦笑を返すと、アウドはその男に言った。

「本当にここの主は悪趣味だな」

 言えば張り付いたように笑みを崩さない灰色の髪の男は、やはり笑顔のまま答えた。

「否定はしないっスけど、あんたはちょっとボスからすればいろいろな意味で気に入らない人物でしょうからね、これからあの坊やの傍にいるつもりなら覚悟しないとならないっスよ」
「……まぁ、恨まれても憎まれても仕方ない自覚はある」
「それでもあの坊やの傍にいたいんスかね?」
「そうだ」

 灰色の髪の男はそれをきくと肩を竦め、少し大仰にやれやれというように首を振った。

「不毛じゃないんスかね、それともまだ望みがあるとでも?」

 アウドはそれにも苦笑を返す。いや、これは自嘲の笑みだろうか、と思いながら。

「言っておくが最初から望みなど抱いていない。あの人から返してもらうものなど必要ない。ただの俺の自己満足だ、俺と言う人間があの人の役に立てればそれだけでいい。あの人からは……すでに貰ったものだけで十分だ」
「それでも僅かな希望があったんじゃないスかね。だからボスはあんたが気に入らないんスよ」

 それには普通に笑って見せる。

「そうだな、そうかもしれない。だが望みがない事は十分思い知らされたからな。まったくあの男は本当にいけすかない。こちらは一つも勝てるものがない……」

 あぁ本当に、分かったともさ、とアウドは心の中で呟く。
 あの男が最初からあそこで止める気だったかはわからない。ただあの男としては十分目的を果たせたからあれ以上こちらに見せる必要はないと判断したのだろう。あの男がどれだけシーグルを愛しているか、そうしてシーグルがどれだけあの男を愛しているか、それをこちらに思い知らせられればそれで良かったのだろう。

――期待など、全くしていないつもりだったんだがな。

 それでもどこかで望みを残していたらしいとそう考えて、アウドは自分自身を恥じるように嗤った。
 けれど痛みを感じる心の中でどこか安堵もしていた。あの何処までも苦難の道を与えられた青年が幸せそうにその身を委ねる姿に、良かった、と思う部分も確実にある。だから愚かな希望が消えてしまっても心は晴れやかでもあった。

「そンでは準備があるからご案内しましょうかね。まぁただあんたの場合はあの坊やの傍におけるまでちぃっとばかりいろいろやらないとならない事があると思いまスが」

 灰色の男はそういうと、アウドを連れて歩き出した。



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 この後セイネリアとシーグルはそのままベッドに行くわけですが……。
 



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