決断と決別の涙




  【3】



 やたらと広い……というか、それは今のセイネリアの立場上仕方ないのだが、事務仕事と面会室を兼ねた将軍府の執務室は、改装前の部屋の3倍は軽くあるだろう。しかもそこから部屋続きで警備兵の待機部屋と予備室、寝室、会議室がついていて、それだけで1フロアを使い切る贅沢なつくりになっていた。もちろん広さだけではなく内装の豪華さも前と比べようがなく、セイネリアとしてはその無駄さ加減には皮肉な笑みが湧いてしまう程だ。
 とはいえ、成金趣味はなくても来た者を圧倒する程度にははったりを利かせないとならない為、これも仕方ない事ではあった。

「シーグルは?」

 執務室の広い机は当然セイネリアの為のもので、だが少し机を離して両脇にはカリンとシーグルの席がある。その空席になっている方の席を見て、我ながら不機嫌そうだと分かる声でセイネリアが聞けば、もう片方の席にいるカリンは僅かに笑みを浮かべて答えた。

「ソフィアや双子達と一緒に書類の山と戦っている最中かと」
「魔法ギルドからの人間は来たのか?」
「はい」
「あいつは喜んでいたか」
「はい」

 聞いて口元に僅かに笑みを浮かべて……だがセイネリアの顔からはすぐに表情が抜け落ちる。そうして今度は口元を皮肉に歪めて、何もない宙を見つめて意識せず言葉が漏れた。

「俺は……どうしたいんだろうな」

 唐突に主の持つ空気が変わった事に気付いたカリンは、そこで動揺するでもなく黙って立ちあがると傍に近づいてくる。
 だがセイネリアはそのカリンを見る事もせずに、やはり誰に問うともない言葉を再び呟いた。

「あいつを苦しませたいのか、あいつを喜ばせたいのか……」

 カリンはセイネリアの傍までいくとその場で跪き、主の手に乗せるように手を置いた。

「そんな事を考える意味はありません。重要なのは何の為に起こした行動かであって、一番大切なモノが何かを忘れていなければいいのです」

 そこではじめてちらとセイネリアは彼女を見て、だがすぐにその琥珀の瞳はぼんやりとまた何もない空を見つめる。

「……そうだな。そう、思っていたん……だがな」

 唇だけでなく顔全体を苦笑に歪めて、セイネリアはカリンに触れられていない方の手で顔を覆った。

 シーグルを、愛しいと思う。それは絶対で、揺るぎがない感情だ。だから彼が喜んでいるのを見れば単純に嬉しくて、心が満たされるのを感じる事が出来る。逆に彼が苦しむ姿はみたくないと思うし、実際苦しむ彼を見ているのはこちらも苦しくなるのに――自分は確実に彼が苦しむと分かっている事を平気でやっている。それどころか、彼が苦しむ事で自分から逃れられなくなる為の手段を迷いなく選んでいる。

 一番大切な事は彼を失わない事。
 その為にも彼を自分のもとに置いておく事。
 だから、幾重にも張った彼を縛る鎖で彼を捕らえ苦しませる。

 それが本当に正しいのか正しくないのか、そんな事はどうでも良くても、それを出来る自分を異常だとセイネリアは思う。人としてロクなものではないというのは分かっている。
 ただセイネリアにとって彼を失う事だけはあってはならなかった。何があっても、何を捨てても、どんな犠牲を払っても、たとえ彼や自分がどれだけ傷ついても彼を失ってはならない。それだけはきっと……耐えられない。

『そうか……お前は、大切なモンを失った事がないんだな』

 唐突に、頭の中にいかにも戦士らしい立派な体躯の男の言葉が蘇る。
 レザが来た時の屋敷での酒の席――シーグルが退席し、エルとネデもそこから間もなく寝てしまい、レザの連れもその場で寝てしまった後の事。ラタとカリンを含めた4人だけになった時に、レザは唐突にセイネリアに向かってそう言ってきたのだ。

『俺ァな、息子達を愛してる。可愛くて可愛く可愛くて仕方ないが、それでもいつも笑って戦場に送り出してきた。そうして当然帰って来なかった奴もいる。そん時は悲しくて悔しくてとんでもなく辛くて泣きもした。……だがな、敵もまたそうである事を分かっている。俺が殺した人間を愛して嘆くものがいる事を分かってる。俺が敵を殺すことで、最悪の憎悪と悲しみが誰かの中に生まれるだろう事を分かっているんだ』
『だから何だ、別に恨まれる事なら慣れている』
『あぁそうだろうな、だがお前は自分に向けられる憎しみや悲しみを本当には理解出来ていなかった、それはお前が幸福や喜びを知らなかったからだ。ずっとそれで生きて来たんだろ……少なくとも、あの坊やが現れるまでは』
『なにがいいたい?』
『あの坊やが死ぬことを想像してみろ。あの坊やを抱く時お前が感じる幸せであったかい感覚を思い出して、それを永久に失う事を想像してみろ……怖いだろ、許せないだろ。簡単にいうとだ、誰かを殺すって事はな、お前があの坊やが死んだことを考えて感じる事と同じ気持ちを誰かに味あわせるってことだ。そう考えても、お前は敵を今まで通りに殺せるか?』
『……当然、殺せるさ』
『果たして本当に”今まで通り”にだろうかな』

 レザもセイネリアもそこまでで相当に飲んでいたが、当然酔っているという程頭が鈍っている事はなかった。レザの顔は赤かったが、こちらを見据えてくる瞳には軍事国家の歴戦の勇者らしい自信があって、戦いの時の駆け引きを楽しんでいるような空気があった。

『知らなかったから何も感じない、というのがお前の強さだったのなら、今のお前には致命的な弱点がある……そうだろ?』
『あいつが俺の弱点だといいたいのか、俺がそれを理解していないとでも?』

 レザはそこで見せつけるように口角を上げて深い笑みを作ってみせる。正直なところ、セイネリアにしては珍しく、明らかに彼の態度に苛立ちを感じていた。

『確かに彼がお前の弱点ではあるんだろうが、俺が言いたいのは少し違うな。お前の弱点は”失って本気で嘆いた事がない”って事それ自体だ。お前、あの坊やに会うまで、誰も本気で愛したことがなかったろ。あの坊やに会って初めて失いたくないと思ったんだろ』
『それがどうした』
『ならお前の今の強さは危うさの上に成り立ってる。一歩間違えば真っ逆さまに奈落に落ちるぎりぎりの位置にいる。何故ならお前は本当の恐怖を味わった事がないからだ、その恐怖を受け止めて尚、前に向かった事がないからだ』

 セイネリアはそれには何も言わなかった。ただ無言で相手を睨んだ……殺気さえ纏って、目の前の場数だけなら自分より上の戦士の目を見据えた。アウグでは勇者とも呼ばれる男は流石にそれに気圧される事はなかったが、僅かに怯んだように苦笑して肩を竦めた。

『あいつはお前とは逆だな、あれはたくさん失って傷ついて、それでも前を向いてきた者の目だ。あの坊やの方がお前よりよっぽど覚悟が出来てる。お前は強い、確かに強いんだろうが……とんでもなく脆い部分がある、一度崩れたらどうにも出来なくなるほどのな。それがお前の弱点さ』

 そこからレザは話は仕舞いだとでもいうように茶化してきてその話はそこまでになったが、いくら苛立ちを感じたからと言って、セイネリアもその話を頭ごなしに否定する気はなかった。むしろ彼の言葉が間違っていないという自覚があった。
 苛立ちを感じる感情とは別に、理性は冷静に自分を分析する。そうしてレザの言葉が正しいと自分に返す。そう、理性は分っているのだ、今の自分はかなり危うい、何時か崩れると。
 まったく、感情に振り回されているくせに感情に溺れる事が出来ない、これがいいのか悪いのか、セイネリアには分からない。いっそ感情に溺れて思うままに動く事が出来ればとも思うが……自分には出来ないなとセイネリアは思う。

 かつて、自分の師であった男は何かある度に自分に向かって『イカレてる』と言っていた。その『イカレた』部分はシーグルという存在を得た事で随分と人らしくマトモになったものだと思ったが、やはり根本的に『イカレて』いるのはどうにもならないのだろう。いやおそらく、こうして感情が願う事を無視して、あくまで優先する事の為には『正しい』選択を出来る事が『イカレてる』のかもしれない。
 一番大切な事は彼を失わない事。
 だが、その為に彼を苦しませても構わないなんて発想は『イカレた』人間のソレだ。きっとただ無様に怯えている部分の方が人としてはイカレていないのだろう。
 感情の望みと理性の判断がかみ合わず軋んでいるのが分る。軋みが心の中にいくつものヒビを刻んでいくのさえ自覚出来ている。理性で下した判断で動く事に、感情が軋んでギシギシと歪んでいっているのさえ自覚がある。歪みがこのまま酷くなっていけば、いつか自分が保てなくなるだろう事さえ分かっている。

「俺は、どうしたいのだろうな」

 自分に問いかける言葉はどこまでも虚しくて、怯える心はどこまでも無様だった。








 それは、仕事が一段落して、ソフィアと双子が部屋から退出し、かつての部下でありこれからも世話になる仕事仲間の魔法使いに、ありがとう、助かった、とシーグルが笑顔で礼を告げた後の事だった。
 いつものんびりとした気楽そうな口調が特徴の魔法使いの顔が辛そうに歪み、そこから急に頭を下げて彼はシーグルに向けて言ったのだ。

「私は貴方に罪を告白しなくてはなりません」

 唐突に言われた言葉にシーグルは困惑する。とはいえ少し考えて『罪の告白』という言葉は、王に仕えるふりをしていた時、王命で自分にした何かのことを言っているのだろうと推測した。
 だからシーグルはその次に言われる言葉にも、それは仕方ない、自分はこうしてここに無事にいるのだから気にするなと、そう言うつもりだった。
 だが彼の告白は、シーグルの想像の外の、最悪の事態を知らせたのだった。

「ナレドが死んだのは私の所為です」

 それにシーグルはその時の表情で固まったまま、暫くは言葉どころか身動き一つ出来なかった。頭の中で分かっている状況と、彼の死と、キールの所為という言葉が結びつかなくて、思考が進まないままぐるぐると回って何も反応が出来なかった。

「……どうして、ナレドは死んだんだ」

 だからやっとその言葉が絞り出せたのは、かなりの時間が経ってからだった。

「彼は、貴方の代わりに処刑されました。私が、彼に、貴方を助ける為に身代わりになって欲しいと言ったのです」

 シーグルは思わず口を手で覆って叫びそうだった声を抑えた。ばらばらだった言葉達がつながり出して彼の死を唐突に理解する。それと同時に目の前が歪み、足に力が入らずよろめき、机に手を置いて体を支えた。

――そうだ、どうして考えなかったのだろう。

 アルスオード・シルバスピナは既に処刑された事になっている、偽装の処刑が行われた、と聞いた時に、シーグルはそれがどのように行われたかまでは深く考えなかった。偽装というから魔法で誤魔化して処刑したように見せたとその程度くらいに思っていたのだ。
 身代わりで誰かが死んだなんて思いつきもしなかった。

「肉親がなく、背も貴方に近い彼は身代わりとして最適でした。貴方を助ける為だといえば……彼は、喜んで……了承して……くれました」

 キールの声が震える。頭を下げたままの彼の顔は分からなくても、声と、そして彼の肩が震えていることで、彼も辛いのだという事は分かる。おそらく、彼の意志でナレドに身代わりを頼んだのではないという事も分かる、だがそれでも――。

「何故……ナレドが身代わりをする必要があったんだ」

 キールは頭を上げない。体の震えもそのままで、震えた声を返してくる。

「大勢の人間が一人を見る中、魔法だけで完全に偽装して見せる事までは出来ません。誰かを身代わりに立て、その人物を魔法で貴方に見せかける方が確実です。最後まで秘密を守り、大人しく処刑されてくれる身代わりは……彼が……最適、でした」
「お前がそう思ったのか。だから、キールに身代わりになれと言ったのか?」

 違う、キールの意志ではない。そう思ってはいても、シーグルは聞かずにはいられなかった。彼を傷つけるだけの質問を、そうと分っていてもせずにはいられなかった。

「魔法ギルドからの指示です。貴方が王に捕まった時から……そう、決まっていました。王側のほかの魔法使い達に偽装処刑を提案すると」

 震える声でそこまで言った後、ずっと下を向いたままだったキールが顔を上げる。いつも飄々としていた魔法使いの目は、涙こそ流れていなかったものの真っ赤だった。

「ですが命令だったと言い訳をするつもりはありません。私は彼にそれを告げない事も出来ました。どうせ貴方を殺す度胸もないあの王なら、丁度良い身代わりがいなくてもどうにかしたかもしれません。結局、彼を死に追いやったのは私です、私の所為です」

 恐らくそうだろうという言葉を返されても、彼を責める目で見てしまうのはシーグル自身止められなかった。彼もずっと苦しんでいただろうと分かっていても、彼に『お前の所為ではない』と許す言葉を掛ける事は出来なかった。
 けれどだからといってそこで彼を責める言葉を告げられる筈もなかった、彼を非難など出来る訳がない、その資格も自分にはない、とシーグルは思う。
 何故ならシーグルは分かっていた、ナレドが死んだのは自分があそこで逃げずに捕まった所為だと。
 あの場で逃げていれば部下の数人は捕まって処刑されたかもしれないが、おそらく自分とナレドと数人の部下は逃げられただろう。だから、選んだのは結局自分なのだ。自分の選択がナレドを殺した。
 シーグルは再び口を手で押さえると、キールから顔を逸らして告げた。

「部屋を出ていってくれないか……少し、一人になりたい」

 魔法使いは再びそこで深く頭を下げると、無言のまま部屋をでていった。



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 ナレドさん……実は……そういう事だったんです。




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