見あげる空と見えない顔




  【1】



 春の空は高く澄んで遠くまでよく見渡せる。鳥の群が導師の塔の周りを回るように飛んでいるのが目に入れば、もしかして塔の魔法使いの誰かがあの鳥達を操っているのかもしれない、とシーグルは思った。

 新政府が発足して一年と一冬が過ぎた。ただ前王リオロッツが倒れた時を新政権の始まりとするならその計算になるのだが、季節的問題やら諸々の都合によって新政権が正式に誕生した日はシグネットの即位式とされる事になった。だから公式的には新政権はこの春で丁度一年を迎えたことになって、その記念式典も無事何事もなく終了する事が出来た。
 王の交代は勿論だが、政治中枢のシステムを大幅に変えた事もあってこの一年、関係者は目の回るような忙しさに追われていた。だがそれもやっと新体制が軌道に乗って来たのもあってか最近では多少は落ち着く兆しを見せ初めていた。そのせいか一周年の式典を終えた午前中の王城は割合ゆったりとした空気が流れていて、鳥のさえずりさえ聞こえる静かな城の廊下を将軍であるセイネリアとその側近であるシーグルは歩いていた。

 会議は全て午後からだし、役人たちも朝はあまり重い仕事を入れていない事が多い為、すれ違う者は少ない。ただ城内の清掃や手入れをする使用人達は忙しそうで、庭や調度品の傍では清掃中の彼らをよく見かけた。それでも彼らが黙々と仕事に勤しんでいるのもあってか、城内は静かで甲冑をつけて歩くセイネリアとシーグルの立てる金属音はよく響いた。しかも朝日が差す明るい廊下を、全身黒い甲冑に包まれた二人が歩くのだからビジュアル的にも異様に目立つのは当然だろう。
 とはいえ二人が傍を通ったとしても、仕事中の使用人達はこちらを気に掛けて作業を止めてまで大仰な礼などしてくる者はいなかった。それは前にセイネリアが『仕事の手を止めてわざわざ俺が通り過ぎるまで頭を下げていなくてもいい、時間の無駄だ』と言ったからで、以後彼らは仕事中には一度軽く会釈をしてくる程度で済ませていい事になっていたからだった。将軍として恐れられるセイネリアだが、不当に罰したり怒る事はないし、なにより王家に準ずるその地位を主張して自分を讃えろ等と強制する事がないから悪く言うものはあまりいない。主にセイネリアの陰口を叩くのは貴族達だが、彼らも自分達の方が正しいと言えないのが分っている分、堂々と意見出来る程の者などいる筈がない。
 その力は恐ろしいが、上に立つ人間としては公正で優秀――シーグルの心配をよそに、思った以上にセイネリアは人々に信頼を持って受け入れられているようだった。

 朝の城を歩く黒い甲冑のセイネリアとシーグルが向かう先、忙しさに追われる日々が一段落してからは、こうして登城する度、一番最初にセイネリアが行くのは現国王陛下――つまりシグネットのところだった。

「しょーうんー」
「あ、こらまてっ」

 ほぼいつも同じ時間に訪れているのもあるのだがろうが、中扉を開けると必死でこちらに駆けてくるシグネットとそれを追い掛けるウィアの姿がいつも目に入ってくる。ウィアが追いついた時は襟首を持たれてじたばたしているシグネットだが、今日は無事逃げきれたらしく、セイネリアに向かって全力でぶつかってくる。……勿論、ぶつかる前にセイネリアに抱き上げられる訳だが。

「元気そうだな」

 『あのセイネリア・クロッセス』が小さな国王に向かって笑い掛ければ、周りの者達も妙な緊張を伴って黙る。シグネットを追いかけていたウィアも立ち止まって、暫く、うわぁ、という顔をしているくらいである。……まぁ、シーグルもその気持ちは分かると思うところだが。

「しょーうん、しょーうん、そーとー」

 しょーうんというのはセイネリアの事で、まだ言葉の発音が怪しいシグネットでは『将軍』がそうなってしまうのは仕方ない。とはいえシグネットはよくしゃべるから、『将軍』くらいはきっとすぐに普通に言えるようになるだろう。

「外に行きたいのか」
「うん、そーとーそーとー」
「まぁそのくらいの時間はあるか、庭に散歩くらいならいいだろ」
「わーい、そーとーそーとー」

 セイネリアがシグネットを胸に片手で抱きかかえれば、慣れたシグネットはその腕にしがみついていい体勢を確保したらマントに掴まる。セイネリアがドアに向かえば、足を嬉しそうにバタバタと揺らしてシグネットは喜ぶ。シグネットがセイネリアが来ると喜ぶのは単純にセイネリアが好きなだけではなく、セイネリアだけは行きたいと言えば外に連れて行ってくれるからでもあるのだろう。なにせ普段は危険だとそうそう外に連れていって貰えないシグネットだが、セイネリアが抱いて歩くという条件なら中庭までは外に出てもいいとロージェンティから了承を得ていた。勿論、最初はシグネットの身を案じてあれこれ騒ぐ者達がいたのだが、セイネリアが『たとえ何かあったとして、俺が抱いていて守れないと思うのか?』と言えば皆黙るしかない。それに続けて――相手が刺客だろうと魔法使いだろうと、セイネリア相手にどうにか出来る者などいる筈がない、どんな場所であってもセイネリアの腕の中以上に安全な場所はない――とロージェンティが更に言った所為で、文句をいう者は一人もいなくなった。

「うぃーあー」
「はいはい」

 呼ばれたウィアがセイネリアの後ろにつくから、自然とシーグルとは並ぶ事になってしまう。それには微妙に身構えてしまうが、こうして歩くのも毎回の事なのでもう慣れてはいた。これでフェゼントまでいればさすがに辛いところだが、こういう時におしゃべりなウィアらしくなくこちらに話しかけてくることはまずないから、シーグルとしてはただセイネリアの部下らしく姿勢を正してついていけばいい。ちなみにこれはエルに言われた事だが、シーグルの所作はあくまで正しい姿勢で正しくあるべき動作をしているだけだからヘタに意識して変えようとしない方がいいらしい。不自然な動作をするよりはその方がバレないという事で、意識しているのは『部下』として動く事くらいだった。

 あまり明るくない螺旋階段を降りて中庭につけば、明るい光が目の前に広がってシグネットが歓声を上げる。本当なら自分の足で走り回りたいだろうシグネットは、だがまだ幼いながらもこうしてセイネリアに強請って連れてきてもらった場合は彼の腕の中だけが許されている事を分かっている。だから足をぶらぶらと動かして歩きたそうにしながらも下ろして欲しいという事はなく、代わりにセイネリアに行きたい場所を言ってつれていってもらっていた。バラに触りたいといえばセイネリアが花の部分だけを器用にとってやって手の中で確認してから渡してやり、花のアーチが気に入ってはしゃぐシグネットを見れば、セイネリアはわざわざ引き返して何度もその下をくぐってやる。はしゃいで笑うシグネットを見るセイネリアの顔はもちろん笑みを浮かべていて、シーグルでさえ意外すぎてぼうっと見とれそうになる。

「しょーうん、あのはな、ははうぇに」
「あれか、なら何本かとったほうがいいな」
「うん、あおいのー、しーうーの、ははうぇすき」
「しーうー?」

 シーグルがそう思ったのと、セイネリアが疑問を口にしたのは同時の事だった。それにはウィアが面倒そうに答えた。

「あー、シーグルの事な。父上って教えたら言えなかったんだよ。アルスオードってのはもっと言えなくてさ、んで俺がうっかり絵を見てシーグルっていっちまったらすっかりそれで覚えたんだよ……摂政殿下もどうせ今だけだから構わないって事でこーなってる」
「なるほどな、確かにあいつの目の色か」

 セイネリアが笑えば、シグネットは足を楽しそうに揺らしながらセイネリアが持つ花に手を伸ばす。

「しーうーの、ははうぇすき」

 確かにセイネリアが摘んだ花は濃い青色をしていて、自分の瞳の色に似ているかもしれない、とシーグルは思う。それと同時に、彼女が何故あれだけ青の装飾品ばかりをつけるのかその理由も分かってしまった。

――すまない、ロージェ。

 ロージェンティは今でもシーグルのことを愛してくれている。城の彼女の部屋にはリシェのシルバスピナの屋敷から運んだシーグルの絵が飾ってある事も知っている。だからこそいつもセイネリアが彼女の部屋に入る時には、入らなくてはならない用事がない限りは外で待つ事にしていた。どうしても自分の絵が見ていられなくて、シーグルには入る事が辛かったのだ。

「分かった、なら帰ったら青いリボンを貰ってやるから、この花に掛けて貰え」
「あおいの、しーうーのじゃないと、だめっ」
「あぁ分かった、この花みたいな濃い青色だろ」
「うん」

 あぁだめだな、とシーグルは思う。さすがにこの会話は聞いているのがかなりきつい。それでも幸い兜の中に隠れた表情は見られずに済むから、姿勢だけを保っていればどうにかなるのが救いだった。

「フェズもさ、小さい頃『シーグル』って言い難くて『しーうー』っていってた頃があったんだってさ、やっぱ血は繋がってるんだなって」

 にやっと笑いながら言うウィアに、シーグルは黙ったまま反応を返す事はなかった。ただ、兜に隠された顔では泣きそうに歪んでいた瞳を閉じて唇だけで呟いた。

――あぁ、知ってるさ。

 何せそれをフェゼントやウィアに教えたのはシーグル自身であったから。
 シーグルは幼い頃の事をよく覚えていた。なにせシルバスピナの屋敷で寂しくて一人で眠れない部屋の中、自分を救ってくれたのは楽しかった家族との思い出だけだったのだから。何度も思い出して忘れないようにしていたから、小さな頃のちょっとした事までたくさん思い出せる。兄が忘れていた幼い頃の思い出話をして、ウィアや兄弟達と笑いあったのはついこの間の事だ……その時には今の状況を想像も出来なかったが。

「そろそろ帰るか、それこそお前の母上を待たせる訳にはいかないからな」

 セイネリアが言えばシグネットは寂しそうな顔をするものの、そこで少し間があってから、セイネリアに向けて少年王は持っていた花を差し出した。

「これ、ははうえに」
「……いや、それはお前が渡すのだろ?」

 そうすれば幼いシグネットは顔をぶんぶんと左右に振る。

「ははうぇっ、いそがしいの。きちゃめって」

 寂しそうに言うシグネットは、確かに母親にここのところあまり会えていない。セイネリアから聞いた話だが、ロージェンティはシグネットを甘やかすのはウィアやフェゼント、自分のかつての部下である護衛官達に任せて、彼女自身は厳しく接するつもりだといっていたらしい。彼女の決断はシグネットを立派な王にするには必要なのかもしれないが、それでもまだ自分の立場がはっきり理解出来ない幼い子供には寂しい事だろう。

「いや、これはお前が渡せ。俺が渡すといろいろ面倒があるんでな」
「でも……」

 自信がなさそうにしょげる子供の頭を、セイネリアは笑って撫でた。

「そういう情けない顔をしていると、しーうー仲間のお前の伯父にそっくりだ」
「おいっ、なんだそれはっ、フェズが情けない顔してるっていうのかよっ」

 すかさず抗議するウィアを、だがセイネリアは無視してシグネットを撫でている。

「どうせ今日はそこまで重要な話がある訳でもない。このまま一緒にお前も母上のところに連れて行ってやる」
「ほんと?」
「あぁ、俺は約束は必ず守るだろ?」

 さっきまでしょげこんでいた子供の瞳がきらきらと輝き、セイネリアの腕の下から出ている小さな足がパタパタと揺れる。勝手に母に会いに行ってはいけないと分かっていても、セイネリアが一緒なら母も仕方ないと許してくれる事を小さいながらもシグネットは分かっている。だからシグネットはそうしてセイネリアに何かしてもらうと、嬉しそうにしがみついていつも言うのだ。

「しょーうんすきー」

 その時のセイネリアが毎回嬉しそうに微笑むから、シーグルは胸が痛くなりながらも小さな息子に向かって心の中で礼を告げてしまうのだった。



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 シグネットはやんちゃざかり。でもママに気を使う良い子です。
 



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