第2回 おじさんは怒ってるんだぞ!(VSパネリスト)


「パネリスト」という言葉を知っていますか?
みなさんも、テレビの討論番組やクイズ番組などで
「本日のパネリストをご紹介します」などという台詞を耳にした事があるでしょう。
要するに、討論における「発言者」のことで、転じてクイズの解答者とか、まあ、そういったものです。

しかし、ほんの数年前まで、日本のテレビ番組では、これを「パネラー」と言っていました。
それが、ある時期を境に、どの局もみんな「パネリスト」という言い方に変えてしまったのです。
なぜだと思いますか?

それは、英語圏の国では「パネリスト」というからです。

つまり、
日本では、最初はみんな「パネラー」と言っていたけれども、
よく調べたら、「パネラー」なんていう英語はなかった! 間違っていた!
正しいのは「パネリスト」という言い方なんだ!
これからは正しい言い方「パネリスト」に統一しよう!
ということです。

…なんと、愚かな行為でしょう。

試しに、声に出して言ってみて下さい。
「本日のパネリストをご紹介します」
「本日のパネラーをご紹介します」
どうですか?どっちが言いやすいですか?
たいていの日本人には、後者のほうが言いやすいのではないでしょうか。
いや、それどころか、英語圏の国においてでも、panelist よりpaneler のほうが、
言いやすいかもしれません。

それなのに、この偉大なる発明「パネラー」を、
『もともとの言い方は「パネリスト」であった』
『「パネリスト」が正しい言い方なのだ』
などという理由で、葬ってしまっていいのでしょうか?

「そんなの、どっちだっていいじゃん、何を怒ってるの?バカなんじゃないの?」
と思われたかもしれません。
でも、実は、この一件は、もっともっと大きな問題を含んでいるのです。

よく、こんなことを言う人がいます。
「最近の日本語は、乱れている」「それは間違った日本語だ」「もっと正しい日本語を使いなさい」

さて、みなさんは、正しい日本語とはどういうものだと思いますか?

今、僕達が使っている日本語と、江戸時代の日本語はかなり違います。
平安時代の日本語は、また更に違ったし、飛鳥時代の日本語はもっと違いました。
そこまでは、誰もが知っていることだと思います。

では、現在僕達が使っている日本語は、いつ出来たのでしょう?
言葉は、いつ、どんなタイミングで変わるのでしょう。

「今日から鎌倉時代だ。はい、じゃあ、これが新しい日本語のテキストね」
などと言って、政府から配られるのでしょうか?
そうではありません。
ただ、実は明治維新の頃、そういった事をしようとした人がいたのですが、
まったく成功しませんでした。
あたりまえです。
そんなものは、普及するはずがありません。その人は「言葉」というものがどういうものであるかが、
ちっともわかっていなかったのでしょうね。

言葉は生き物です。長い歴史の中で育まれ、毎日毎日の積み重ねの中で、日々、変化していくものです。

では、言葉を育むものはなんでしょう?
それは、正しい日本語を、正しい用法で、正しく伝えていく事でしょうか?
違います。
もし、誰もがそんなことをしていたら、言葉はまったく変化しません。

だって、昨日と今日の日本語が同じで、今日と明日の日本語も同じ。明日とあさってもまた同じ。
これを何億年続けていても、日本語が変化するわけがありません。
自明の理です。

言葉を育むもの、それはズバリ、「誤用」なのです。

その時代から見れば間違った日本語。
でも、それが多くの人の気持ちにしっくりときたり、
また、合理的だったり、言いやすかったりして、
たくさんの人の間に、広まっていき、定着していく。
この繰り返しだけが、言葉を育むのです。

原始時代、最初に生まれた日本語とはなんでしょう?
(そんな時代に日本列島があったのかというツッコミはとりあえずおいておきます)
たぶん、「あー」です。
おなかが減った時も「あー」。愛してるも「あー」。敵が攻めてきたぞ、も「あー」。

ところが、ある日、敵が攻めてきた時、見張りの青年は思わず、こう叫んでしまったのです。
「おー」。

人々は、これが合理的なものであることに気がつきはじめます。
敵が攻めてきた、というような緊迫した状況では、みんながすばやく対応しなければなりません。
でも、そんなときにも、いつもと同じ「あー」としか言わなかったら、
「また、腹減ったのかなあ」とか「あいつも惚れっぽいなあ」としか思わなかったりするので、
対応が遅れて、村が全滅する事だってあるわけです。
敵が攻めてきた時だけ「おー」と言う事で、みんなは緊張する。敵が来たのだとわかる。
それで村は救われるのです。
なんと偉大な発明でしょう!「おー」は。

しかし、頭の固い原始人のAさんはこう思います。
「間違ってる! まったく、日本語が乱れてるよ。敵が来た時にも『あー』というのが正しい日本語なのに」

(言葉が「あー」と「おー」しかないのに、こんな複雑な事考えるかよ、というツッコミは
おいておきましょう。まあ実際には、新しい言葉に漠然とした違和感を感じ、どうしても「おー」を
受け入れられない人、と考えてください)

この原始人Aさんにそっくりな人、あなたのまわりにもいませんか?
いや、それどころか本を出したりしていませんか?偉そうに。

原始時代までいくとピンとこない、という人のために、
もっと身近な、ごく最近の話をしましょう。

「さぼる」「だぶる」といった日本語がありますね。
ご存知の方も多いかと思いますが、
「さぼる」は社会学用語の「サボタージュ」の「サボ」に、日本語動詞の語尾「る」をつけたもので、
また「だぶる」は、英語の「シングル、ダブル、トリプル」の「ダブル」と、日本語動詞の「〜る」をひっかけた、
掛け言葉です。
どちらも、ほんの数十年前、学生の間でひろまった、いわゆる流行り言葉でした。

もちろんこの当時、大人たちはこういった言葉を使う学生たちを、非情に強く非難しました。
「英語と日本語をゴチャ混ぜにしやがって。『言葉の乱れ』にもほどがある!」と。

ところが、この二つの言葉は、その後、すっかり定着しました。
今では、「さぼる」や「だぶる」を使わずに、それらと同じ意味をあらわす事が困難なくらいです。
それだけ、現代の日本語にとって、必要不可欠なものになっているのです。

逆に言えば、それらの言葉ができたことで、そういう概念が生まれたのだとも言えます。

若い人は、「だぶる」が「ダブル」から来ている事すら知らないのではないですか?
純然たる日本語だと思っている人も多いはずですよ。

ちなみに、「サボタージュ」はゆっくり仕事をする事であって、「さぼる」ことではありません。
だから、「さぼる」という言葉は、二重の誤用なのです。

さて、「超かわいい」「超ムカツク」といった言い方があります。
「超」で、形容詞や動詞を修飾する用法です。
これはもう10年以上使われていますから、十分定着していると言っていい日本語なのですが、
依然としてそれを「間違っている」と非難する人もいるでしょう。

「超カワイイ!」と、あなたが言った時、
「君、そんなまちがった日本語を使ってはいけないよ」という人がいたら、
「じゃあ、『超かわいい』ものを見つけた時には、どう言えばいいの?」
と聞いてみましょう。
より無知な人なら、こんなふうに答えるかもしれません。

「そうだな。『とてもかわいい』」とか『すごくかわいい』とか言いなさい」

そんなときには指を指して大笑いしてやりましょう。

ほんの2〜30年前。つまり、僕なんかはもう学校に通っていた頃ですが、
その頃、「とてもかわいい」や「すごくかわいい」は完全な誤用でした。

「とても」は、「とてもできない」「とても考えられない」など、可能形の否定文にしか使えないものでしたし、
「すごい」は、恐ろしい、おぞましい、と言う意味の言葉で、「かわいい」などという肯定的な意味あいの
形容詞につける事は許されませんでした。

「超かわいい」も「とてもかわいい」も同じようなもんなんです。

そこまで言っても、更に頭の血の巡りの悪い人は、こんなふうに言うでしょう。
「そうか、『とてもかわいい』も『すごくかわいい』も間違ってるんだな。じゃあ、正しくはどう言えばいいのだろう?」
その頃(2〜30年前)、「かわいい」につけることが許されていたのは、例えば「大変」です。
「そうか、じゃあ『大変かわいい』なら、いいんだな」

いえいえ、ちょっと待って下さい。もうちょっとさかのぼると、大変は「世の中をゆるがすような一大事」ですし、
もっとさかのぼれば「かわいい」自体が「かわいそう、ふびんだ」という意味しかないし、
更にさかのぼれば、そもそも「かわいい」などという日本語はありません。

その人は真っ赤な顔をしてこう抗議するかもしれません。
「そんな昔の話はどうでもいいんだよ!」

そうですか。それなら「超かわいい」でいいんですよ。
「超かわいい」を否定している根拠こそは、
「『超』プラス形容詞」が定着する以前の、昔の文法によるものなのですから。

今から、たとえば5年後に、「『超』プラス形容詞」がすたれる可能性もあります。
つまり、誰も使わなくなるということです。
そうなったら、あなたはどう思いますか?「『超』プラス形容詞」は、やはり定着しなかったんだな、
一過性の流行語だったんだな、と思いますか?
もし、それを一過性の流行語だと言うなら、あなたの使っている言葉は、すべてが一過性の流行語です。

あなたの使う日本語は永遠に続くのですか?ちょっと歴史を振り返ればわかることです。
未来には、言葉はすっかり変わってしまうに決まっているのです。
で、なければ、「古文」があんなに難しいわけがありません。

また、言葉やその用法は、一方向にだけ進むとも限りません。
例えば「全然」。
古い小説を読むのが好きな人は気付いているかもしれませんが、
その昔、「全然」は肯定文にしか使えない副詞でした。
それが、しだいに「まちがった」使い方である否定文につけることが流行りはじめ、
その語感がむしろ否定文にしっくりきたのか、その後「全然」は否定文しか使えない副詞となります。

ところが、また、部分的に戻っているのです。
現在、「全然支配されている」のような昔の用法は、やはり不自然ですが、
「こっちのほうが全然いい」とか「全然違う」「全然ダメだ」といった表現は、肯定文であるにもかかわらず、
あまり違和感がありません。
言葉は、その時代の人がもっとも使いやすいように、細かく修正され、育まれ、成長していくのです。

最初に「あー」という日本語ができてから、現在にいたるまで、
「正しい日本語」が生まれた事は、一度だってないのです。
本当に、一度も、です。
だって、生まれた時にはいつだって「誤用」だと言われるんですから。

と、すれば、この文章の中であえて「誤用」と表現してきたもの、それは本当に誤用と呼ぶべきですか?
言うまでもないですね。

ここまで読んでも、
「いや、やっぱり間違った日本語はあるよ。俺はそんな日本語は使わない」という人が、もし、いたら、
あしたから、「あー」だけで、暮らして下さい。
決して「おー」とは言わないように。それ、誤用です。

最後に、
「パネラー」を「パネリスト」にしようと言ったテレビ関係の人へ。
もう、21世紀です。人間が言葉を手に入れてから何年たったと思ってるんですか?
未だに原始人Aさんと同じ発想で、はずかしくないですか?
今からでも遅くありません。「パネラー」を復活させなさい!
おじさんは怒ってるんだぞ!




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