別 世 界 通 信

FIRST TOPICS

☆ ☆ ☆

「何故ADnDをプレイするシステムとして選んだか?」


Collum written by ジーク


 ADnDをプレイするゲームとしてなぜ選んだのか、私の場合その背景を含めて過程や思いを書いていこうと思う。論理的な事(?)は他の方々が書かれているようですし…。
 

1.その日…

 大学1年の秋の木漏れ日が漏れたその日、私はとあるコンピュータ関係の国家試験受験のため、ゲームの会場、浅草のオレンジ通りに面した場所に赴いたのは16:00すぎであった。そのゲームの会場ではいくつかのSLG(注:WAR GAMEのこと)が行われているはずだった。時間が遅くゲームには参加できないかもしれないが(注:SLGはほとんど一日がかりとなる)、各人の戦略・作戦を観戦するのは無駄ではない…。

 その日会場に着くと、SLGは全くやっていなかった。そこではDMとして奮闘する天査殿の姿が…。天査殿がADnDのシナリオを作ってきてそれをみんなで実施していた。ADnD自身以前、池袋の会場で何回かやっていたのを、SLGをやっていた傍目に眺めていたことはあったが、間近に見たのは初めてであった。するとやっていた一人のプレイヤーが用があり帰らなければならないと言う。天査殿は私に帰ってしまう彼に代わって参加しないかと持ちかけてきた。結局手持ちぶさたになって彼のやっていたキャラクター(パラディン)を引き継いでやることにした。もちろんルールなどわかるはずもなく、簡単な説明、ダイスを振って戦闘結果を出す、パラディンとは聖戦士であるなどを受けただけで始めたのであった。当時からフィギュア及びタイルを使っていたため、SLGの延長線上としてとらえることができ、何となく進めていった。

「目の前におどろおどろしい扉があり、中から何らかの詠唱する声が流れてきますがどうしますか?」

とDM。どうやらさらわれたお姫様をパーティは助けにきたらしい。でそのお姫様に魔法的に何かを行おうとしているらしい。という簡単な説明により、急いで助けなければならないと思い、私は言った。

「ドアを蹴破ります」

その時に他のメンバーの冷たい視線を受けた。そしてDMからも、「不意打ちをするチャンスだったのだけどもね」とのコメント。私はああそういうことか、戦術的に正しくないオプションを選んでしまった訳かとそのときには納得した。しかし帰るときに電車の中で「でもパラディンって聖戦士ということだけども、そんなことをするのかな」(聖戦士=聖なる騎士と思っていた…。騎士たることについて何一つとして知らなかったけども)とその背景についてを考え始めていた。

 この考え始めたことがADnDにのめり込むきっかけとなった…。
 

2.なぜADnDなのか(その1)

 SLGは基本的には将棋や囲碁のように1対1で行い、会場に複数の人間が集まったとしてもそれを継続していた。たまに多人数で行う個人ゲーム、例えばジビライゼーション(HJ社別名「文明の曙」)などをやっていたが、原則的には存在しなかった。そのためあぶれる人間(余ってしまいゲームができない、特に遅れてきたり途中からきた人)も出ることとなった。せっかく会場にみんなで集まるのだからみんなでできるゲームはないかと考えた、とある偉大なDMのGG氏によりDnD(当たり前だが日本語版ではない。当時SLGも日本語版が少なくまた誤訳が多くある程度の英語読解能力を必要とした)が行われるようになり、私が知った時点でそれはADnDとなっていた。

 つまり私の回りみんなで楽しくできるゲームとしてRPGそしてADnDが注目され、RPGとしてはそれだけが行われていた。それにより自然とADnDだけをやるようになっていた。他のRPGは当時全く眼中になかった。
 

3.他のゲームとの遭遇

 ADnDをやるようになって5、6年たち、他のRPGと遭遇する日がやってきた。HJ社が「フォーリナー」なる怪しげなRPGを販売開始したのだ。私も早速購入し中身を見てみた。見て思わず率直に思った。

「金かえせー!!」

と。その時にADnDを見慣れていた私にはかなり奇異にその製品は写った。最低限のルールと設定。これでは何をどのように遊んで良いかわからない。完全に情報不足だったのだ。継続したサプリメントの販売予定も立っておらず、これでは遊べないと判断した。というわけでめでたくお蔵入りとなった。箱だけはフロアタイル入れとなって有効活用できたが(笑)。

 次に手にしたのは日本語訳がHJ社より販売されたルーンクエストとストームブリンガーだった。システム的にこなれていてそれはそれでおもしろい内容であったが、ルール、特に戦闘のルールが細かすぎ(その当時のADnDの戦闘ルールはサプリメント等はなく単純だった)、戦闘に時間がかかりすぎてしまう。またストームブリンガーの方は私にはマイケル・ムアコックの構築するワールドをうまく生かしているとはとても思えなかった(ストームブリンガー=悪魔だった構図を他のものにも広げすぎている構成が私には許せなかった)ので、やはり購入後お蔵入りとなった。ただし日本語版になったと言うことに敬意を払い(?)日本語版は全て購入し保持している(笑)。ちなみにルーンクエストのみ3回ほどプレイヤーとして参加した。

 その次に手に入れたのは、やっぱりHJ社より日本語化クトゥルフだった。その当時クトゥルフの小説を読み込んでいたこともあり(ちょうど創元の方から続けて文庫のシリーズの販売が始まっていた)、ADnDにない面、つまり推理と考察の面が重視され、怪物達と戦闘はやったらほとんど負ける点が気に入り、また狂気ポイントという考え方もクトゥルフワールドを良く表していると感心した。クトゥルフも2回ほどしか参加できなかったが、これはやっていたDMであるマキビ殿が東京を離れ新潟に行かれてしまったためであり、とても残念だった。また日本語化されたやつはやっぱり全て購入したと思う(ちょっと自信なし)。

 他にも文庫本サイズでウォーハンマーなどがでたが、以降はおっくうになり全くと言っていいほど手を出していない。
 

4.なぜADnDなのか(その2)

 他のゲームの存在を知り、それを手にとった後もほとんどADnDしか実施しなかった。またプレイヤーを行うだけでなくDMをやるようにな ってもADnD以外(クトゥルフはやろうか考えたがメンバーなどの問題があり)手を出さなかった。その大きな理由は次に挙げるルールが他のRPGに存在しなかったためである。

 (1)アライメント
 (2)評価制度

 評価制度はオプションであり、必ずしも導入が必要なものではない。またこの2つは完全に定まってはおらず、人によって判断基準がまちまち で、紛争の種になりやすいことも十分理解している。しかしこの2つを私は重要視している。

 なぜ重要視しているのかというと、DMが提供しRPGGでプレイヤーが行っていることは、空想上のこととは言え、「命」をもてあそぶことであると私は考えている。ダンジョン自体、色々と理由を付けても結果的に強盗殺人を繰り返してシュミレートいるだけにすぎないと私は思う。戦闘的な面だけ、つまりルールの面だけを重視することを私があまり好かないのはこういった点から来ているのかもしれない。コンピューターゲームやTVゲームでもこういったことが言えるのかもしれないが、テーブルトークで行うゲームの場合、人と人が向き合って共同して行っていき、そこで人と人とのエゴがぶつかりその結果人間関係にひびが入ったりまた構築されていく。そういった中で行われる内容はTVゲーム等では得られない何かをもたらすのではないかと思う。なおこれを明確に意識したのは天査殿の奥方でもあるレーネ殿が私のシナリオに参加し始めてからである。レーネ殿は敬虔なカトリックであり、シナリオ作成及び実施に関してプレッシャーを受け、その中で固まっていった。

 ゲームでプレイするその世界は現実をそのまま映し出す鏡「鏡の中の世界」を表しており、その場で起こることは人間の良心や心を重要視したものでなければ、だんだんと誤った考えを持つものを生み出していくのではないかと私は疑っている。これは考えすぎではないか、飛躍過ぎではないかと考える方もいると思うが、現実つまりゲームの外の世界では日本においても良心や心が失われつつあるような事件が起こるのを見ると楽観的な気分に私はなれない。

 そういった歯止めの意味からストーリー的なものそして、良心を問いかけるようなシステム自体を評価しているのである。なおこれらのことはプレイする上で認識し自然と行っていれば問題ないのかもしれない。ただしそういった人間が何人いるのかは知らないが…。

 ただし私自身初めての知らないDMの元でプレイヤーとして参加する時にはエビルのアライメントをつけることが多い(笑)。これは上述の点そのDMがどのように捉えているのかを知ることをまずは重視するので、わざとわかってそのアライメントをつけ、そういった行動をとり、ある意味では試す行為を行い易くするためである(なんか我ながら嫌なプレイヤーだなぁ)。そのDMの元でプレイが続けられるかは、そのDMが何を考え、どのようなことをプレイヤーに提供してくれるのかを正しく把握した上で判断されるものと考える。なおそのDMのパーソナリティがわかっている場合はもちろんそんなことはしないけども…(笑)。
 

5.最後に

 長々と書き散らしてきたが、ADnDはそれだけでなく、多種多様な可変性をもち、行うものによって様々な姿を見せてくれるすばらしいゲームだと思っている。どのようなプレイ形態をとることもできるしやりたいことを実現できる数多くのルールを持つ。またルール等を自分で構 築することも可能であろう。

 今後も、きっとやり続けていくのに違いない。

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