雑想の原(1999/05)


目次
  1. 「ゲームとロールプレイングと自由度」 (1999/5/30)
  2. 「ゲームの中古販売」 (1999/5/29)
  3. 「ワイルド・カード」 (1999/5/24)
  4. 「毒電波」 (1999/5/22)
  5. 「政治方面ネタ」 (1999/5/18)
  6. 「トランスフォーマー」 (1999/5/16)
  7. 「ひげガンダムとか」 (1999/5/15)
  8. 「留守番電話」 (1999/5/11)
  9. 「日曜朝の番組より」 (1999/5/9)
  10. 「LD:CAVとCLVのこと」 (1999/5/8)
  11. 「逮捕しちゃうぞ the movie」 (1999/5/5)
  12. 「天地無用! in LOVE2 遙かなる想い」 (1999/5/2)

 
「ゲームとロールプレイングと自由度」

(1999/5/30)
 どうでもいいけど、ここ、テキストだけのデータなのにちょっとしたCG並みのファイルサイズになってきたな(笑)。

 コンピューターゲームとしての登場以前からあるオリジナルのロールプレイングゲーム(RPG)。コンピューターの方の奴と区別するためにテーブルトークロールプレイングゲームと呼ばれます。今だとTRPGですか? 昔はTTRPGか単にテーブルトークと呼んでた気がしますが。
 そっちの人がTRPGの特徴というか売りを説明するのに良く使われたのが、コンピューターの方のとは比べ物にならないくらい自由度が高いんだぜ、ってことでした。
 まぁ、それはそれで、コンピュータプログラムの限界ってものもありますから、正しい指摘でしょう。しかしさらにその説明をするのに、「自分のキャラに可能なことなら思い付く限り、下らないことでも役に立たないことでも、何でも出来る」ってのはその通りかもしれませんが、「(例えばの話で)怪物退治に行かずに、釣りにでも行ってたって良いんだよ」というところまで言われると、頭に疑問符が浮かびます。

 「おい、それじゃゲームになってないだろ?」ということです。

 ゲーム。コンピューターゲームとかロールプレイングゲームとかに限らず、トランプやチェスやスポーツでも、試合になるものはGAMEの範疇に入ります。
 ゲームがゲームであることの特徴には、大きく2つの点があると考えています。
 1つめは、そのプレイに際して使える手段に制限がかけられている。つまりルールがあるということです。ルールがあり、なおかつそれに従ってプレイしなければゲームになりません。
 ポーカーでこっそりカードを隠し持ってそれを付け加えて役を作ったら単なるイカサマですし、サッカーでみんなが手にボールを持って走り出したら試合になりません。どんなにルール無用の格闘技大会だって格闘技の範疇から外れた武器の使用は出来ません。
 TRPGが自由度が高いといっても、ルールに従ったキャラメイキングに始まり、何でも出来るといっても結局そのキャラに出来るとされていることの範囲内でしかありません。ただ、だからこそ、あれこれと色んなことが出来る(色んな可能性が試せる)ほど面白いというところもあるので、この手段という点での自由度の高さはセールスポイントだと認めるのに依存はありません。

 もう1つ、より大事なことだと思う点は、ゲームには目的がある 、あるいは言い換えれば勝利(クリア)条件があるということですね。
 ゲームではルールと同様に目的も外的に定められています。試合の終了時点でより多くの得点を持っている方が勝つ、あるいは何かの行為を先に達成した方が勝つ、またはコンピューターゲームのアクションゲームやシューティングゲームなら自キャラ(自機)を失わずに最後まで行き着ければ(ラスボスを倒せれば)クリア。そういったことが勝利条件です。ゲームの種類によってはその目的が単純ではない場合もあるでしょうが、ゲーム中にプレイヤーが勝手に勝利条件を変えて良いというものは無いはずです(プレイに先立ってプレイヤーが自分で宣言するというのはあるかもしれませんが)。
 ロールプレイングゲームでは(アドベンチャーゲームとかでもそうかも)、プレイの中で当初明らかにされていない隠された目的を探し出すということはあるかもしれませんが、勝手に目的を変えるとか創るとかいうのはまったく別の話でしょう。そういう意味で、「何でも出来る」(手段)というのはともかく、「何をしてても良い」(目的)というのはゲームとして成り立っていない、という思いがあります。ゲームマスターの用意した目的を目指さなくなった時点で、ゲームではなくなっているという気がします。
 目的という点に関して、元からゲームに自由度なんて存在しないと考えます(いくつか用意されているものの中から選ぶというのはあるとしても)。

 ところが最近、オンラインゲームの流行などに伴って、この「何をしてても良い」の側面が強調されているように感じます。
 あれって、昔日本でも富士通がやっていた(今もやってるんでしょうか)ようなハビタットなんかと同じで、単なる遊びの場の提供に過ぎないのではないでしょうか。
 遊びという点で、例えば近所に公園(遊園地)や運動用のグランドが出来たとか、その公園にブランコとか滑り台とか色々な遊具が用意してあるとかいっても、それで公園そのものをゲームと呼ぶことは無いでしょう。

 ゲームっていうのは、競う相手があるにしろ自分自身の記録向上とかの場合にしろ、勝負ごとだよね。

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「ゲームの中古販売」

(1999/5/29)
 家庭用TVゲームソフトの中古販売を巡って上昇とエニックスの間でやっていた訴訟の判決が27日に東京地裁で出ましたね。
 ソフトメーカー側が主張しているようにテレビゲームが映画に類するものであるという主張には、俺なんかは最初から無理があるなと思ってるですよ。いや、内容に関して種類が映画と全然違うよねという点については頭から否定は出来ないかもしれません。まぁ内心は違うと思ってるんだけど、最近のムービーシーン頼り(PS・SS出現の頃からの)のゲームの氾濫を見るとね(その辺の話は近々する・・・かもシレーヌ)。今回の東京地裁の異なるとした理由にも、着眼点ズレてないか?ってところがあるし。

 ただ、ポイントはメーカー側が「頒布権(しまった。「りょうふけん」と読んでいたけど「はんぷけん」だったのね笑)を主張するために映画との類似を主張してるってところですよ。頒布権、ここではメーカーの思惑を察してあげて(笑)、一方的に流通をコントロールできる権利とでもしておきましょう。
 法律問題では良くあることですが、著作権法の条文に映画の著作物には頒布権があると書いてあったとしても(注:原文にあたったわけではないので少々の表現の違いは目をつぶるように)、必ずしもそれがすべてとは限りません。その理由、つまり何故映画にそのようなコントロール権を与えたのかというところにまでさかのぼって考えておかないと、果たしてその条文の適用対象になるかどうかは分かったものではありません(特に差し戻しじゃなくて実際に高裁・最高裁の法廷まで行っちゃうような難しい問題はね)。

 今回問題となっている法律で「映画」と言っているのは劇場で上映(もしくはそれに類する形での上映)されるような作品です。料金を取って不特定の人間に見せるわけですから、その流通を製作側(配給会社)が一定のコントロールに置くというのは仕方がないです。なにしろ、見せるだけであって実物を売り渡す(所有権を譲渡する)わけではないですからね。
 映画にわざわざ頒布権が設定されているということは、逆に言えばそれ以外の著作物には頒布権は無いということです(注:これも原文にあたったわけでも学会の意見を調べたわけでもありません)

 この映画の上映をコンピューターゲームに当てはめて考えてみれば、似ていると言えるのはせいぜいアーケードゲーム(ゲーセンのゲーム)くらいしか無いってのは明らかでしょう。テレビゲームの小売店は、ゲームを店頭でデモとして流すことはあってもそれ自体が目的ではなく、あくまでもお客さん個人に対して売る(売り切る)ことが目的なんですから。

 今度は、劇場映画に類する内容のものが、上映ではなくゲームのような小売の形態で流通するとしたら、どうなるかってことを想像してみましょう。
 そう、すぐ思い付くでしょうが、販売用のビデオパッケージ化(LD・DVDとかも含めて)された映画があります。

(レンタルのことは別に考えておきましょう。ビデオにしろCDにしろ今はちゃんとしたレンタル屋は許可取ってやってますしね)

 映画もテレビゲームも著作物に当たるということは同じですが、劇場で上映される映画と、小売されるゲームとでは元々流通形態が全く似ていないということは前述しました。
 ですから、テレビゲームを(劇場)映画と同じだと主張するには、著作物としての内容面でのタイプが同じであると主張しなければなりません。実際、ゲームメーカー側の主張はそこにあります。
 しかし、劇場映画とその販売用ビデオパッケージは、内容に関しては類似どころか=(イコール)です(もちろん削除カットの復活とか手を加えられることはありますが、それをまた劇場公開したりすることもありますから、それを拠り所に違うという主張は無意味です)。つまり、ゲームメーカーがゲームを映画と同じだと主張することは、ゲームと販売ビデオもまた同じだと主張していることに他なりません。

 で、私が法律に疎いだけなんでしょうが、ビデオの中古販売が違法だという話は聞いたことがありません。本(書籍)や音楽CDと同様に堂々と売られています。路上のあやしげな露店がレンタル流れの品を売っているのも含めてね。
 もちろんビデオには劇場映画のパッケージ化ばかりではなく、テレビ放送作品のパッケージ化やビデオオリジナル作品もあるわけです。それらの中で映画のビデオだけに頒布権があるという主張は通らないでしょう。つまり頒布権の概念は、著作物の内容ではなく、流通形態に基づいたものでなければならないはずです。

 こう考えてくると、テレビゲームに頒布権があるというのは、かなり無茶な考えです。

 それで、ここがそもそも疑問なんですが、なんで中古販売店側はこういう方面から裁判を争わないんでしょうね。ゲームは映画と似ていないということしか争ってないみたいですが(ニュースなんかで知る限り)。
 何か法廷独特の作戦(駆け引き)のためなのか、それともまったく別の大人の事情でもあるのでしょうか(何かやぶへびになるのを恐れているとか笑)。
 ゲームメーカー側も、コンピューターソフトに関しては使用条件書などを付けることなどによる譲渡の制限にそれなりに実績があるのだから、頒布権じゃなくてそっちから攻めれば良いのにね(まぁ購入者の大半が子供だという特殊事情はあるが)。
 その辺のところをご存じの方、というか察しの付く方でも、ぜひご教授願います(笑)。

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「ワイルド・カード」

(1999/5/24)
 小説です。創元SF文庫で92〜94年にかけて3巻まで、各上下巻で翻訳出版されました。
 編者としてG・R・R・マーティンの名前で出ていますが、内容はロジャー・ゼラズニイをはじめとして複数作家による短編集です。

 これは単なるテーマ短編集ではなく、ある共通した一つの世界を舞台としています。1946年、異星人のもたらしたウィルスによって変わってしまったもう一つのアメリカ。それだけなら日本でもよくある架空戦記物とかif歴史物とかですね。まぁ一人の作家の作品でしょうが。

 このウィルスに感染した者は、醜い肉体的変移を遂げてジョーカーと呼ばれる怪物となる(といっても大半は頭の中はそのままというのが悲劇なのですが)か、超能力を得てエースと呼ばれるかで、運命が分かれます(もちろん死ぬ者、変化の無い者もいますが話の上では目立ちませんから)。
 さらに、このウィルスの効果の現れ方は、人によってバラバラだというのが特徴です。怪物化にしろ超能力にしろ類型化できないんですね。このため、このウィルスが「ワイルド・カード・ウィルス」と呼ばれることになります。各キャラの能力がバラバラだという点では、ビアズ・アンソニイの「魔法の国ザンス」を連想させます。いや、X−MENでのミュータントの扱いに近い。

 そう、この作品はアメコミに近いと言えます。キャラクターの話だけでなく、複数の作家の作品が、単に舞台となる世界を共有しているだけでなく、お互いに密接に関係し会っています。
 ある作品の主役キャラが、他の作品にも登場する。それもちょい役ではなく、重要なサブキャラとして活躍したりします。他の作家の生み出したキャラでもです。

 まぁその辺のアメコミとの類似は偶然ではなく狙った部分であるわけですが。実際、エースはアメコミ風スーパーヒーローの戯画化でもあります。実際にスーパーヒーローやスーパーヴィラン(悪役)が存在した世界の暗部まで描くというか。

 わたし的にはワイルド・カード・ウィルス感染者を人種問題・思想問題に擬して描いたアメリカ史的な部分(1巻)が面白かったりするのですが、世界の混沌ぶりそのものも楽しみとなっています。

 日本語版では挿絵をあの末弥純が描いてるなど一般受けしそうな要素はあったものの、やはり売れなかったのか、翻訳出版が3巻で止まってしまっているのが残念です。

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「毒電波」

(1999/5/22)
 ここへの記載はちょっと間が空いてしまいましたが、「○ワイ○アル○ム」「『○』〜きず○と〜」に続けて「『○』〜し○く〜」(これも漢字一文字のタイトルだ)もほぼ続けて遊びました。あ、これは借り物じゃなくてちゃんと自分で買った(周囲に所有者がいなかった)から別に伏せ字じゃなくても良いか。

 話題の順番としては変になりますが、ゲームをプレイ後、これの小説も読みました。前に書いたとおり「きず○と」の小説には見るべきところは無かったですが、こっちの方は「よくここまでうまくまとめたな」と感心する出来でした。
 ゲームでは基本的には3人のヒロインがいて、それぞれの相手に沿ったストーリーが展開するわけですから、ストーリーが1本しかない小説でそのすべてを再現することはほぼ不可能なわけです。が、この小説版では主人公の役割をヒロインの一人である沙織にある程度割り振ることで、主人公の方は瑠璃子シナリオに近い形で行動させつつ、沙織シナリオ・瑞穂シナリオのエピソードも取り込むことを可能にしています。
 これも沙織が実は主人公に精神的に近い人間だから、成功していると言えるんですよね。ノベライズにあたっての着眼点が良かったというか。

 そう、ゲームでは瑠璃子のストーリーがトゥルーエンディングとされていたり、毒電波の話なんかもあるせいで、瑠璃子が主人公に近いような感じがしがちですが、実は単に「狂気」という大ざっぱなカテゴリではなく、根っこに抱えている問題のところでは沙織の方が同タイプの人間なんですよね。(プレイによっては分かりますが)
 「○ワイ○アル○ム」の時には感情移入度が高いと書きましたが、このゲームについては主人公との同調度が高かったように思います。←って、どう違うんだってのはうまく説明できないんですが、
 「○ワイ○アル○ム」では相手への気持ちの部分でゲームへ入れ込んでいきましたが、必ずしもゲーム中での主人公の行動がこっちの感情と一致していなかったりしました。それに対して「し○く」では主人公と自分に類似性を感じたりしているわけです。
 そして、まさにその点で沙織も同じことを考えていたりするんですよ。

 小説の方に関してもう一点だけ触れておくと、序章の香奈子の描写だけで既に、ゲームに無い何かを付け加えることに成功してしまっているところが凄いな、と。

 ゲームの構成に関しても、「きず○と」に感じていた不満な部分が無くて良かったです。まず物語の世界があって、主人公はあくまでもその中で行動しているだけだというところが。
 色々なシナリオを比べてみても、主人公がこう行動したからこっちではこういう出来事が起こってるんだな、という関連性がちゃんと見えます(もちろん細かく見ていくと例外はありますが)。

 ところで、私にとってアドベンチャーゲームというのは、マルチエンディングなんて言うのがまだまだはやる前の頃しかやってなかったこともあり、謎解きというか正解探しの一本道という感覚が強かったです。一つのエンディングと無数のバッド・エンドというか。そのせいでRPGでもあまりマルチエンディングなのは好きに慣れなかったりします(ファンタシー・スター3くらい思い切ったやつだと別)。
 しかし最近、立て続けにこういうのを遊び始めたせいで、ともかく何度もプレイしてすべてのエンディングを見ようという癖がついてしまいました。
 そのせいで、ここが分岐点だ、と見当が付くような選択肢では、楽しみ(ハッピー・エンド)を後に取っておくというか、わざとバッド・エンドになるような選択肢から試してしまうようなプレイに走りがちです。
 でもそれって、ゲームの世界に入り込んでないというか、真剣にプレイしていないってことでもあるような気がします。シナリオのある世界を、育てゲー系のリセット感覚を持ったままプレイしてたら、緊張感が生まれませんからね(それがマルチエンディングを敬遠する原因でもあったりする)。
 気を付けよう。「ゲームを楽しむ」っていのうは、必ずしもそのゲームを「しゃぶり尽くす」こととは限らないかもしれないのだから。

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「政治方面ネタ」

(1999/5/18)
 なんか国旗・国家の法律化がかなり具体的になってきて嫌ですねぇ。いや、国旗・国家を法律できちんと決めておくこと自体は特に強く反対することではないんですが(それが日の丸・君が代であるかどうかはまったく別の問題)、自民党のやり方が姑息で嫌いです。
 重要なことであるだけに、憲法に組み込むぐらいのことをすべき問題だと思うわけです。そこまでいかなくても、国民投票にかけるぐらいの、後で文句の出ないような手続きを通してほしいものです。
 百歩譲って、それも無理だっつうなら、せめてこれを争点にして衆院選挙やるくらいの気概は無いもんでしょうかね。

 ガイドライン法案でもサマータイムの話なんかもそうなんですが、こういう国全体の重要な問題を総選挙も経ずに国会内だけで決めようっつうのは、国民レベルで自分とこの案が多数派であるという自信が無いんでしょうな、やっぱり。

 考えて見るに、一番憲法に手をつける度胸が無いのって、実は自民党じゃないスかね。吠えるだけで行動に移らないってところが。

 あ、そうそう、サマータイム。省エネルックも出来ないような親父が省エネ効果とかほざくんじゃないよ、まったく。それに、仕事の時間が減るんでもなきゃ余暇が増えるわけないだろうが、1日24時間は変わらないんだから。

 (とかいうような話は、よそ様の掲示板とかではできないよなぁ)
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「トランスフォーマー」

(1999/5/16)
 トランスフォーマーといえばまずおもちゃを頭に浮かべる人が多いでしょうが、私なんかはミクロマンやダイアクロンがリアルタイムにおもちゃ売場に置いてあったりCMが流れてたりする頃の記憶が強いもので、トランスフォーマーが日本に入ってきた際には、純粋に新しいアニメとしてではなく、なんかヘンなものが出てきたなぁと言う感覚がありました。雑誌の記事あたりで、例えばコンバトラーVとかがアメコミでショーグン・ウォリアーだかいうのになっているというのを聞いた感じ。

 私らの小さい頃はテレビ東京(東京12チャンネル)あたりで、毎日のように(月〜金の固定時間枠だったり)アメリカのアニメをやっていましたし、アメリカのTVドラマの量なんかも今とは比べ物にならないくらい多かった(見やすい時間帯にやっていた率が多かったということかも)です。
 アニメの方はもっぱらギャグ・コメディーばかりで、生活の一部のように見ていたものの特に感動とか憧れとか入れ込む対象ではありませんでしたが、ドラマの方は好きなのがいくつもありました。
 トランスフォーマーの第一印象も、まず「ようやくアメリカもアニメで連続ドラマを作るようになったか」というところがポイントでした(製作が日本とか言う話もありましたが、シナリオ・演出があっちなら俺的には関係無し)。

 そういうわけで、トランスフォーマーの出来に関しては、もっぱらアニメの方にあっちのテイストが感じられるか否かという点が重要です。おもちゃの方は基本的に使い回しで、新しいおもちゃとしての魅力は感じてなかったですしね。
 とかいいつつ、おもちゃはいくつか持ってました。コンボイは自分で買ったかな? あと自分で買った記憶が無いので多分親が買ってきたかどうかしたと思う(もう俺けっこういい年だったはずなのに)のが、ダイノボットのトリケラトプスと、トリプルチェンジャーの戦車と戦闘機に変形する奴。自分で買ったのでないせいかあまり気に入ってませんでした。変形にあまり美しさを感じなかったし、少なくともトリプルチェンジャーならアストロトレインの方が好きだったはずだし。それに対してコンボイのフォルム・変形は美しくてなかなか飽きを感じなかったですねぇ。腰のあたりにちょっとアニメとの違いはあったものの、ほぼアニメ通りだったし。買えなかったけれど凄く魅力を感じていたのがビルドロン(デバスター)。あれはおもちゃとしてポイント高そうだったもんなぁ。

 あと、トランスフォーマーのおもちゃとしての特徴と言えばやはり、実在のものがロボットに変形するということでしょうか。もちろん具体的に該当する実在製品が無いもの(ラジカセとか顕微鏡とかはカテゴリですから)もありましたが、基本的には町中や家の中、そして戦場などにあっておかしくない物ばかりでした。これは元々、バックグラウンドとなる番組を持たないオリジナルの玩具として開発された経緯から、そういうセールスポイントを持たせたんでしょうねぇ。
 そういう意味では、番組が2010になった頃からの、未来カーとかなんとか、外見をどう作ろうが関係無くなってしまった頃の製品はつまりません。
 また、減点ポイントとしては、ともかくキャラの数つまりおもちゃの種類が多いことから、どうしても外装が変わっただけで同じ変形パターンを使い回した、悪い意味でのシリーズものがあったことでしょうか。そのへんは今でも同じ傾向がありますが。

 話の方をアニメに戻しますが、当事放送していたのが確か夕方5時あたりの早めの時間帯だった+うちにはビデオが無かったということもあって、あまりきちんと見ていません。ゴールデンタイムならもっと見ていたんでしょうけどねぇ。それでも最初のシリーズはけっこう頑張って見ていましたが。
 その終わりごろ、シリーズ交代を控えてか、タカラが「コンボイ死す!」のかっこいいCMをやって盛り上げていて(余談ですがこの外人がコンボイ!と叫ぶCMのおかげで、アメリカでも彼の名前はコンボイだとばかり思っていたもので、後になって名前が違うということを知ってガックリ来ました)、アニメの方でどういう風にコンボイが死ぬのかとしばらくワクワクしながら見ていたのに、最終回や特番を経ても結局コンボイが死なず、いざ2010が始まってみるといつのまにかロディマスとかいう格好悪い奴が司令官になっていました。2010が始まる際に、途中の経緯がきちんと説明されなかったことや、前述のように新しく出てきた連中が格好悪かったこともあって、2010を見ていた率はぐっと下がりましたねぇ。サイバトロンにコンボイ、デストロンにスタースクリームがいなくなってしまったというあたりが、話のテンションを下げていたように感じます。

 で、ヘッドマスターズ。見たらアメリカ製じゃなくなってしまっていたというところでほとんどアウト。私が期待していたのはアメリカ的テイストですから。ただ、純粋に日本製ロボットアニメとして見ても、当時のレベルとしてかなり低い方だったように思います。ほとんど見ていないから断言はしませんが(でも、最終回近くはけっこう続けて見たよ)。中途半端にそれまでのトランスフォーマーの世界を引き継いでしまったところが足を引っ張ったかもしれません。
 その後のマスターフォースでは、サイバトロン/デストロンといった単語は出るものの、時代も仕切り直したというか全く関係無い世界で始まってました。それが良かったのか、最初の頃はけっこう見てましたね。ほら、コンボイファンですから、ジンライがスーパーとかゴッドとかパワーアップしていってて、おもちゃ的に興味を引かれていた頃は(笑)。でも結局、どうも面白さとしては決め手に欠けていて、きっと何か裏番組が始まってせいだと思うんだけれど、見るのを止めてしまいました。その後はもう何かやってたのかどうかすら気にかけていませんでした。
 あ、でも、劇場版のLDが出た時には速攻で買いましたよ(注:私はビデオデッキ買う前にLDプレーヤー買いました)。2010の前にこれ見てたら、私きっと2010をもっと見れていたと思います。

 それでしばらくブランクがあって、アメリカではマシンウォーズってのがCGアニメでやってるよぉとかいう噂なども聞きつつ(結局それはCMだけの話だったらしいですが)、ビーストウォーズの時代です。
 最初、動物に変形するトランスフォーマーという話を聞いて、ダイノボットやインセクトロンにあまり(おもちゃとしての)魅力を感じていなかった私(アニメの、特に最初のシリーズでのグリムロックは好きです)は、なんだそれ、大丈夫か?とまず思いました。
 まだ日本に入ってくる前、アメコミを売っている店に買い物に行ったりしていた関係で、おもちゃの方は先に見ていたんですが、なにしろコンボイ(名前違うけど一応記事などで知っていた)がゴリラというあたりでヒイテましたよ。まぁパッケージを見ていただけなので、変形パターンなどが分かっていなかったのが敗因なんですけどね。今見ればメガトロンの両手なんかもそこが良い所と思えるんですが、ただロボット時の写真を見ただけではサイボーグ1号の蛇ハンド?(ガキの頃たまたま持っていたんです笑)という印象しか受けなかったんですよ。
 そしてCGアニメのビーストウォーズが始まったわけですが、これが素晴らしかったですね。映像がCGだとかいうところではなくストーリーのところで「あぁ、こういうのは日本じゃ作れないよなぁ」というテイストぷんぷんで、毎週楽しみでした。もちろん、面白さの要因の半分は日本語吹替えの良さにあったと思いますが。
 海外ドラマの魅力はなんといっても無駄口の多さ。少しは黙ってられないのか、というくらいしゃべくりまくってくれないと面白くありません。Aチームあたりのファンは分かってくれるかもしれません。私として引き合いに出したいのは爆発デュークとかアメリカンヒーローとか、知ってる人は凄い少ないと思いますがダンディー2あたり(広川太一郎と佐々木功の掛け合い漫才が最高)。バラエティーなら世界の料理ショーのグラハム・カー(笑)。
 もちろん、セリフばかりでなく、大げさな表情や身振りも良い味を出しています。

 しかし、それに続いて始まったのかII(セカンド)。「また日本製アニメで続けてしまって失敗するという愚を繰り返すのか、タカラ!」と叫びそうになりました。しかもセルアニメでビジュアル的にもぐっとグレードが下がります。
 何よりシナリオが、今どきこんな話作るかってくらいひどかったですからねぇ。
 その点では今やっているネオはかなり良い感じです。トランスフォーマーものである必然性については言及を避けておきますが、ジャンルとしては巨大ロボットものではありませんね、あれは。たまたまキャラがトランスフォーマーであるというだけで、基本的にはSFの旅・放浪ものとしてなかなか日本では見られないタイプの作品として成立していると思います。スタートレックやスペース1999と比べると文句言う人もいるかもしれませんが、宇宙空母ギャラクチカ(←日本での公式表現)のちょっと後くらいには並べて上げても良いかもしれません。まぁそれでも日本製なんで、妙な人情/友情話みたいなのがたまに紛れ込みますが(今度出たマッハキックのキャラがかなり不安笑)。
 それにしても、日本製のくせに、本編からのピックアップでOPの絵を作る手抜きは止めてくれい。延々と第1話の絵を見せられると嫌になるぞ(OPの絵が変わったらしいけど、たまたま飛ばしてしまったんす)。X−MENの時みたいにあっちの奴に関しては新規に日本でOP作れとは言わんから。

 でもまぁ結局、秋から始まるらしいあっちのビーストウォーズの続きを楽しみに待つ今日このごろ。おもちゃ的には減点なんですけどね。せっかく実際の動物に変形するというのが売りなのに、メタルスとかいってまた実在から外れてしまってますから。例えば同じコンボイでも、ゴリラ姿の時は前とあまり変わらないのに、ロボットモードの時の姿だけがグレードアップしているとかいうと、すごく魅力的なんだけどなぁ。

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「ひげガンダムとか」

(1999/5/15)
∀(機種依存文字っぽいけどターンエー)ガンダム
 キャラのデザイン画を見た段階では「なんだこりゃ」だったけど、実際に動いてるのを見ると割と平気だったというパターン。去年のトライガンなんかもそんな感じだった(こっちは原作とのギャップのせいだったけれど)
 登場人物の芝居(表情)は、すべからく「どっかおかしい」んだけれど、そのベースとなっている感情というか、作中で起きる出来事に対するリアクションそのものが、いずれも「どこかズレてる」ので、そういうキャラ達なのだと割り切ることにしている。
 昔、大林監督の「時をかける少女」を見たときにも、「これは登場人物が未来人と、それに洗脳されている連中ばかり出ているから、みんな演技がぎこちないんだ。決して芝居が下手なわけじゃないんだよ」とジョークにしていたが、そんな感じ。今の直系の未来の話だとしても、数千(百?)年後の人類の感性なんか、どうなってるか分かるもんかい。
 誰だったか失念してしまいましたが、第1話を見た段階で、今回は電波なキャラが出ていないようなので一安心、と書いている人がいたけれど、わたしゃその段階で既に、電波な奴ばっか、と思っていたんですけれどぉ〜(笑)。
 あぁ、だから、前衛演劇というか、ウテナ見てたときみたいな感じで楽しんでますってことで(笑)。

リンク制限
 なんか久しぶりに内藤さんのコメントに共感してしまったネタ(ファンなだけで別に親しいわけではありません、って断るまでもないですね)。インタネのHP(という単語を使うのは確信犯って言う話は前にしましたね)ってのは、公開の場だと思うわけです。例えて言うと、道路に面した自分の家の門なり塀なりに貼り紙をしておいて、通りかかった人はご自由にご覧下さい、というようなものでしょうか。お店や企業で言うとショーウィンドウやショールーム(あるいは単にピルの玄関でも)。
 そういうものですから、リンク禁止とか、リンクするのに要連絡とか、制限的なことをするのは、おかしなことと思えます。
 内容の複製とか、著作権法で許されている範囲を越えた引用とかは、もちろんいけないわけですが、リンクってのは単に「ここにこういう話題がありますよ」という場所の情報提供だけですからね。そもそも不特定の相手に見られて困るようなものを公開の場(インタネ)にあげてるところが間違いとも言えますから。制限するより、まず隠せって。
 もちろん、意図的に隠されている場所にアクセスする方法の開示(パスワードの公開とか)は別ですよ。本当に厳密なアクセス制限は、サーバの機能に手を加えられるような立場にないと難しいですけどね。
 といいつつ、うちにもそういうコーナーがあるのだけれど、最初から実効性があると思って宣言しているわけではありません。よくある18禁宣言とか、PL法的な注意書きのために書いてあるだけ(こっちの責任逃れね)で、それを守らない相手を訴える根拠になるとは思ってませんから。

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「留守番電話」

(1999/5/11)
 そもそも私は電話が嫌いだ。社会人になってちょっとした頃、実家を出て一人暮らしを始めた(転勤とかでなくて、うちは兄弟多いもので下の連中が大きくなってくると部屋が足りなくなったのだ)のだけれど、電話引く必要性を感じなくて、たしか3〜4年くらいは電話無しの生活を送ったものだった。

 で、電話引いたときに買った電話機(今も使ってるけど)が留守番電話機能付きなわけだけれど、当初、留守電案内のメッセージは電話機標準のものを使っていた。女声で「ただいま留守にしております・・・」とか何とか言う奴。作り付けのメッセージなので、当然こちらの名前を名乗ったりはしない。
 自分の声を録音するのなんて言うのは、なんとなく気恥ずかしくて、嫌だったのだ。

 電話番号をもらった直後というのはそういうものなのかどうか知らないけれど、前に使われていた番号なのか何だか、間違い電話が多かった。私がいるときはともかく、留守電になっているときは前記のように名乗っていないため、掛けてきた相手が間違いに気付かずにそのまま伝言を残しているものが多かった。まぁ、電話番号を間違える程度の頻度でしか掛けない相手に掛けているのだから、留守電メッセージがおかしいとかは思わないのだろう。

 そういう間違いがけっこう多かったので、その後しばらくして、仕方なく自分の声でメッセージを入れることにした。
 しかし、そのメッセージがまたぶっきらぼうに、「はい××です。ただいま留守にしておりますので伝言をどうぞ」とかすごい短い奴だったので、留守電だとか、(間違い電話の場合)相手が間違ってるとか、気付かずに変にしゃべりかけたような伝言が残ってたことも多かった。

 うちの電話機がヘボいのかどうか知らないが、この電話機、なんかの拍子にコンセントが抜けたりすると、登録したメッセージが消えてしまうのだ。おまけに、置いてある場所が悪いのか、けっこう頻繁にコンセントが抜ける。そのたびにメッセージを登録し直さなければならず、そのうちに面倒になって結局、作り付けのメッセージに戻してしまった。

 というわけで、間違い電話は間違い電話のまま、伝言が残ってたりするのだが、不可解なものである頻度がけっこう多い。
 それは、「あれ?」とか「なんだこれ」とか、全然伝言になってない奴である。
 作り付けのメッセージという奴は当然、これでもかというくらいこれは留守電案内のメッセージですよというのを分かりやすく主張しているメッセージである。私が適当に吹き込んだものと違って、ある程度の長さをかけてちゃんと説明している。
 それに対して、しかも「ピーッ」とか音の鳴った後で、わざわざ「なにこれ?」とか、とぼけた伝言を吹き込んでく奴って一体、何者なんだろうか。
 「お前、留守電ってものを知らないのか?」と聞きたくなる。いや、伝言の声がばーちゃんだったりすると、もしかするとそうかも、とは思うが、それにしたって今どきねぇ。

 ホント、何考えてるんだろうか・・・いきなりガチャンと切ってたり、「いないのぉ〜?」とか呼びかけてくる(私自身も、家にいるときも留守電モードにしっ放しのタイプだし笑)というのは、分かるんだけどね。理解可能な説明求む。

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「日曜朝の番組より」

(1999/5/9)
「救急戦隊ゴーゴーV」
 雑誌で見た玩具の写真などで大体見当は付いてましたが、やはりグランドライナーは面白味の無い合体でしたね。発進は作り込んでましたけどねぇ(999だけどさ)。
 それより、宮村優子がもうちょっと活躍するかと思ってたぞ。メンバーのところまでライナー運転して届けるとかさ。

「燃えろ!ロボコン」
 話はどうってことなかったけど、ロボコンが100点もらったところはちょっと来たなぁ(弱すぎ笑)。

「おジャ魔女どれみ」
 あいかわらず「さすが東映」って感じで、きちんとツボを押さえた作り方なのは良いのですが、最近なんかマジカルステージに頼りすぎな感じ。月1回くらいに押さえないと、ありがたみが無いよ。
 というか、何が起こるか分からないけどとりあえず願いがかなってしまうというのでは工夫が無いのよね。どれみ達が自分に使える魔法の範囲で、いかに物事に立ち向かうかというところで話を作って欲しいのだけれど。

「それゆけ宇宙戦艦ヤマモトヨーコ」
 主要キャラが死んだ?という引き方で終わるのは別に良いんですよ。番組中での時期にもよりますが、大体本当に死ぬかどうかの見当は付きますしね。
 でもね、道路に飛び出して車に轢かれるのだけはいかんスよ。旧ミンキーモモ世代にとっては衝撃度が高いですから。ドキッとしちまったい(笑)。

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「LD:CAVとCLVのこと」

(1999/5/8)
 2月の雑記でLDのCAV(標準ディスク)とCLV(長時間ディスク)について、画質そのものは変わらないと書きましたが、その後たまたま「CLVは画面が汚い」みたいな意見を何ヶ所かで見かけたので、あらためて確認してみようかと思いました。で、gooで検索しようとかしてみたんですが、LDに関する記述としてはほとんどインタネ上には無いみたいなんですね。パイオニアLDCのFAQコーナーが消えているらしいのが痛かった(笑)。
 見つけたところは時代の流れのせいか、ほとんどコンピュータの記録メディア絡みのところばっかりですね。一応、今回参考にさせてもらったのは次のページです。  CAVとCLVがそれぞれ何の略かなんてことはここらへんを見ていただくとして、記録方式の原理の違いについてだけ大ざっぱに説明しましょう(わたしゃ専門家ってわけでもないですし)。

 LDの盤面上のデータはその円盤の円周方向に沿って記録されているわけです。厳密に言うと渦巻状のラインで記録されているのかもしれませんが、ここでは話を分かりやすくするために半径の異なる同心円がズラッと並んでるものとして説明しましょう。

 CAVの場合、その一つの同心円に1コマの画像が記録されていると、考えると簡単です。つまり記録されている映像のコマ数分だけ同心円が並んでいるわけです。それはつまり、一番内側の円でも一番外側の円でも同じ1コマ分の映像しか記録されていないということです。
 さて、小学校の算数レベルの話になりますが、それぞれ半径の異なる円のそれぞれ円周の長さというのは半径に比例して異なります(なんか日本語ヘンだな)。LDの記録面において、一番内側の円に比べて一番外側の円では半径が約三倍になります。当然、その円周の長さも約三倍になるわけです。

 記録部分の長さが三倍になってるのに、一番内側と同じ1コマ分の映像(さっきから映像としか言ってませんが、最終的にはサウンドも含めたトータルなデータの話ね)の記録にしか使わないのはもったいないじゃないか、というのがCLV方式のとっかかりとなります。
 一番内側と同じ長さで、ずっと1コマの映像を記録していければ、一番外側では一つの円周に3コマ記録できるわけですね。ただ、全体としては内側から外側に向かって順次1〜3コマ分と変化していくわけですから全体が3倍になるわけではありません。全体を平均して2倍。これがCAVで30分、CLVで1時間という記録時間の差の根拠というわけです。また余談ですか、LDシングルがCLVでも20分程度しか記録できないのも、盤の半径そのものが小さいので外側の部分でもあまり記録の効率が上がらないからなわけです。

 このようにCLVでは内側と外側で、同じ一回転でも記録されているコマ数が変わってしまうため、再生の際には場所によって回転速度を変えるというテクニックが必要となります。普通に再生して見ているだけならこの程度の調整は特に問題とはならないレベルですが、特殊な再生(トリックプレー)を行う場合に困難が生じます。
 代表的な例が画像の静止ですね。静止を行うのに、CAVであればどの部分であっても円の一周が1コマで構成されていますから、ひたすらその同じ一周の円を再生し続けることで静止画となります(CAVの静止画の原理はこれです)。ところがCLVの場合は一周に最大3コマの映像が記録されているわけですから、CAVと同じ方法で静止させようとしても1コマだけでなく2〜3コマが繰り返されてしまう恐れが出てしまいます。
 で、どうすれば良いかというと、実はLDの規格上は決まっていません。どうしてもやりたければ、LDプレーヤー側で何とか工夫しなければならないわけです。実際の方法としてはLDの盤面からリアルタイムに再生するというのはあきらめ、1コマ分の画像をプレーヤーのメモりに記憶させて、それを再生するということになります(他の方法を取っているプレーヤーというのは私は知りません)。当然そのためにはプレーヤーにメモリを搭載するなど、余計な機構が必要になるため、いまだにこれが出来るのは一部の高級機種に限られています。
 高級機種と言っても今はそれほど価格差があるわけではありませんけどね。最初にこれが出来るようになったパイオニアのプレーヤーは確か30万円だか60万円だかした超高級機でした。当時既に普及機は定価7〜8万円かもっと下、という時代でしたが。ちなみに私が初めて買ったLDプレーヤーはもそのすぐ後ぐらいに出たソニーの定価12〜13万円くらいの機種です。
 昔はメモリも高かったため、ろくに搭載できなかったんでしょうね。そのソニーのプレーヤーでもCLVでの静止は確かにできたものの、画像が粗くて見られたもんじゃありませんでした。今でいうと解像度が低いということになるんでしょうが、実際には粗いというより電波状態の悪いTV映像のような感じ。処理するソフトの機能もまだ低かったんではしょうね。今はもっと良くなっています。

 この静止画のような問題は、早送り/巻き戻しや頭出しなど、トリックプレー全体に同じようなことが言えます。

 ただし、CLVの原理の説明で触れたように、記録されている映像そのものがCAVに劣っているわけではありません。実際にはCAVでの一番内側と同じレベルで映像が記録されているわけです。
 もし、通常の再生において、「CLVがCAVに比べて映像が汚い」などという人は、単なる思い込みによる気のせいか、使っているプレーヤーがタコなだけです。でなければ、CAVでも再生の最初と最後で画質の違いが分かるよと言えるほど、素晴らしく目の良い人ということになります(念のために言っとくけど、皮肉よ)
 まぁ、実際には、CLVで映像が汚いという場合、それはCLVだからという理由ではなくて、LD製作の際の映像ソースの質の問題のはずですけどね(笑)。


 えぇと、本題はここまでです。ここから先はちょっと細かい技術論っぽくなりますが、私が専門外の憶測で言ってる内容になりますので、読むとしても話半分にしておいてください。
 LDの映像はアナログデータですので、本当に厳密に言うと、記録密度による質の違いというのはありえます。つまり前述したCAVでの再生において最初と最後で画質の違いがあり得るということですね(外側の方が画質が良い)。
 記録密度というのはつまり、VHSビデオで言えば標準に比べて3倍録画ではテープをゆっくり回すことによって同じ長さのテープに対して3倍の時間録画しているというあれです。また、古くはアナログレコードで、LP盤(33・1/3回転)やEP盤(45回転)に比べてSP盤(78回転)の方が音が良いというのもそうです。(VHSは記録内容そのものを変えてるかもしれませんが)
 ただ、LDの場合はアナログといっても非常にデジタルに近いアナログだ、と私は考えています。アナログレコードの溝というのは左右に曲がりくねることで音を記録しているわけですが、信号としては部分部分によって溝が曲がっている/真っすぐだといった単純な情報だけでなく、その曲がる波の角度(長さというか間隔というか)や幅(高さか)といった様々な情報が含まれ、それによって音が変わります。それに対してLDのデータは一次元的というか、記録ライン(円周)に沿って信号があるか無いか、比喩として正しいかどうか分かりませんが、黒い線の部分とその隙間である白い線の部分の長さだけが信号として意味を持っています。非常にデジタルに近い単純さです。
 これが本当のデジタルデータであれば、この記録ラインをあらかじめ一定の間隔の目盛りで区切っておいて、信号の黒と白はその目盛りの部分でしか切り替わりません。それに対してLDがアナログだというのは信号の変わり目(黒と白の線の変わり目)が目盛りの位置に捕らわれずにどこででも変わり得るということなわけです。
 LDプレーヤーの読み取り機能には物理的に限界があるわけですから、CAVで一番内側と外側で同じ変化の状態が3倍の長さの範囲に記録されていれば、外側の記録の方がより細かく変化を読み取れる可能性があります。
 ただ、元になっているデータが白か黒かという単純さ、先ほど述べたように非常にデジタルに近いアナログなので、3倍程度の記録密度の差は人間の目には分からないかなと思います。いや、3倍の差というと感覚的にはかなりの差ですが、LDプレーヤーはそこまで読み取ってないかなという気がするだけですが(あるいは出力時にそこまで情報を生かしていないか)。

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「逮捕しちゃうぞ the movie」

(1999/5/5)
 なんか、予定の消化が全く進んでませんねぇ(笑)
 というわけで、天地に続いて、この映画も観てきました。

 丸の内シャンゼリゼの方で観てきたんですが、上映前のCMタイムがやたら長かったです。いや、それは他の映画の予告編が観れたりするってことなんで問題無いし、実際ウテナのかなり映像の入った予告編が観れたのなんかは良かったんですが、一つ問題あり。なんかねぇ、主題歌のミュージックビデオがあったんですよ。CDのCMとかじゃなくて、おまけにアニメの映像の入ったようなのならまだしも、歌っている4人組のプロモーションビデオらしきやつ。それもフルコーラス。映画(とかTV番組)の主題歌って、別にアイドルの拙い歌だったりしても普段は気にかけないんですが、こいつを延々と流されたおかげで、この主題歌をすっかり嫌いになってしまいました。

 で、映画自体の出来なんですが、結論から言うと凄く良いです。上映期間は余りありませんが、未見の方はぜひ見に行ってください。
 娯楽作品としてはほぼ文句の付けようが無いくらい、全編楽しめました。

 問題があるとすれば(たいした部分ではありませんが)、次の3点くらいでしょうか(前記の主題歌のことを除いて)。
 内2点はこの作品に限らず、私が割と色んな映画に関して感じてることなんで、特にこの映画が悪いってことではないです。一つはセリフ部分とBGM・効果音部分の音量のバランス。セリフに比べてBGMとかの音量がデカイんですよ。TV番組なんかにも言えるんですけどね。どちらかというと、きちんと聞き取れなければ行けないのはセリフの方なわけで、セリフの音量に合わせてボリューム設定されてると、BGMで耳が痛くなるくらいになります。実際、劇場のスピーカー、音が割れてましたもん(笑)。
 もう一つはエンディングですね。スタッフロールのところで、文字の流れる脇で縮小版の画面にその映画のカットがちょろちょろと出て来る奴。昔からある手ではありますが、何が悲しゅうて、今見たばかりの映画のカットを見返さなきゃならんのか。私、これが手抜きにしか見えないんですよ。何か一工夫があれば別なんですけどね。天地の場合は確かTVシリーズの映像で構成してたりしてたかな?

 問題の3点目はちょっと微妙なところ。この逮捕しちゃうぞという作品を全く知らない人でも楽しめるくらい、導入部分からの各キャラの登場の仕方とかうまく作ってあるんですが、一つだけちょっと説明不足かな?という部分。葵ちゃんが実は…とかいうのも説明無かったですが、この映画の中では特に知らなくても問題無い、ファンならではの楽しみの部分なのでOKです。気になったのは夏美の怪力(って言い過ぎ?)の説明が無かったことです。最初の方でうまくネタ振りしてあれば、知らない人でもあの「ブレーキ」のシーン(CMとかでも出て来るところ)を唐突に感じずに済むと思うのですが。キャラの特徴をうまく生かした名場面(徳野さんのセリフとか笑)だっただけに残念。
 あと、邪推かもしれませんが、後半のアクションシーンとかに静止画が増えてたような気がするのは、製作がおいつか・・・

 しかしまぁ、こんなことは些細な問題にしか感じないくらい楽しめました。
 実際の場所の取材に力を入れてたらしいですが、その成果を十分に生かしていたと思います。それだけだったらもちろん実写もののロケにはかなわないんですが、そういうリアルな場所でアニメでしか出来ない(アメリカはともかく日本の特撮ではまだ無理でしょう(ガメラ3観てないけど))ような無茶をやってくれるのが最高です。「ブレーキ」や「勝鬨橋」を初めとして、そんなシーン満載で、大喜びしながら観てました、私。こういうのって技術の問題じゃなくて、ツボを心得てるかどうかどうかなんですよね。

 もし本当に日本の警察機構(海上保安庁なんかも含めて)があそこまでやってくれるような組織だとしたら、ガメラ2の自衛隊なんかより、よっぽど頼りになりそうですよね。

 天地が「俺は面白かったけど人に勧めるのはどうかな?」っぽい映画(観る人を選ぶと言うか)だったのに比べて、こちらは文句無く娯楽作品としてお勧めできます。スターウォーズとかインディージョーンズとかを勧めるのと同じような感覚で。
 出来れば一般人(って誰だよ)に、踊る大走査線と見比べさせて感想言わせてやりたいような映画ですね(いや、あれも観てないけど笑)

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「天地無用! in LOVE2 遙かなる想い」

(1999/5/2)
 あの天地無用!の劇場版完結編とのことですが、先日観てきました。
 私、同じAIC制作&PLDCリリースの作品であるエルハザードのファンなんですが、この映画を観てまず思ったのが、「いまだにこれだけの作品を作ってもらえるってのは、うらやましいなぁ」ということです。

 私、天地のシリーズに関してはあまり見ていません。OVAも見ていないし最初のTVシリーズも見ていません。TVの新・天地と、劇場版の一通りは見ていますが。
 こういう見方なんで、本来の天地ファンの人とは作品のとらえ方が全く異なっているかもしれません。もしかしたら他の天地ファンの人の評価は低いかもなぁ、と思いつつ、今回の劇場版を褒めます。

 っと、その前に、何故「うらやましい」となるのかを説明しないといけませんね。
 エルハザードも天地と同様に最初からかなりメディアミックスを仕掛けられていました。その中で、最初のOVAは素晴らしいと思いますし、TVシリーズも作画などに難はありながらも良く出来た作品として気に入っています。出版関係では徳間書店(キャプテン、アニメージュ)がバックについて独自の展開を遂げたコミックスと小説が出て、これらも面白いです。ここまでは非常に幸せな作品だったと思います(竹書房の小説は別として)。
 しかし、後になって出たOVAの2は演出の出来が悪かったし、さらにその続編としてTVでやった「異次元の世界…」はシナリオレベルから破綻していました。出版関係についてもソニーマガジンズに移りましたが、パッとしないまま現在は途絶えております(OVA2の小説だけはアニメを凌駕する出来だった)。
(おまけ)

 エルハの没落の理由も分からないではないんですよ。
 まず第一は続編の舞台をOVAに求めたこと。天地が劇場版の素材をTV版に求めたのとは対照的です。天地の方はおそらく劇場映画公開に当たってより多くの人間が見ていた方を素材に選んだ方が有利だと考えたのでしょう。エルハだって同じことが言えたはずですが、続編がOVAでの制作となったためにOVAの続きということになったのでしょう。
 しかし、エルハのOVAでは主人公の誠とヒロインのイフリータが最終的に結ばれることが決定している上に、しばらくの間はそのイフリータを出せないような状況が設定されてしまっています。そのため、続編を作ってもヒロインが出せない上に、主人公を取り巻く女の子たち(新登場キャラも含めて)がいくら言い寄っても決してヒロインとの間に割り込めないという、主人公の恋愛関係についてはまともに描けないという不自由な条件が出来上がっています。普通なら前作でカップルが出来上がっていても、新たなライバル出現!みたいな状況を作ることも出来るんですがね。
 それならそれで、別の部分で物語を進めれば良いものを、女の子キャラの人気に頼ったような市場判断でしか企画を立ち上げられないような人間しかいなかったのでしょうか。不毛な恋愛のドタバタばかりが目に付く作品しか出来上がりませんでした。

 もうひとつはバックに付く出版関係でしょうか。天地は、コミックスについては作品の評価は知りませんが角川という巨大なバックが付いています。小説は富士見書房で、かなり良い作品が充実しているように見受けられます。これらが継続しており、うまくアニメ制作の間隙を埋めてくれているようです(つまり、ファンが離れにくい)。
 エルハも徳間書店という条件はもともとは悪くなかったものの、コミックスの連載中に掲載誌の突然の休刊という不幸に見舞われ、それについては後から一応フォローは入ったものの、出版は途絶えます(アニメージュ文庫はこの分野の先駆者だったとはいえ、出版量は見る影もない)。
 ソニーマガジンズは普通の出版社としてはともかく、この分野に関しては角川や富士見に比べれば明らかに経験不足で、作家以前にそもそも編集者が何もチェックせずに適当に本を出しているだろうと思わせるようなものしか出てきません(既に商売的においしい素材ではなくなっていたであろうエルハを引き取ったこと自体がダメなんですけどね)。

 天地は宇宙人の設定など色々あるとはいえ、所詮は現代日本の世界が舞台であり、作品は登場人物抜きに魅力を持ち得ません(キャラクターの流用によるプリティー・サミーという作品が生まれたこともそれを裏付ける)。それに対してエルハはエルハザードという異世界そのものがこの作品のアイデンティティであり、極端な話、登場人物を総入れ換えしてもこのシリーズの作品を作れるんですよ。それに気付かずに、さらに登場人物たちを別世界に連れてったような「異次元…」なんて作品を作るようだからろくなものが出来ない。

 エルハの愚痴をいつまでも言っていてもしょうがないんで、そろそろ話を戻しましょう。

(例によって以下、ネタバレあり?)
 このLOVE2を観てまず感心したのが、その登場人物の描写の絞り込み方。ゲストのハルナの心情描写はもちろんこのエピソード上外せないわけですが、レギュラー陣に関してははっきり言って魎呼と阿重霞だけにくっきりと絞り込まれています。普通長く続いてきたシリーズの劇場版、それも完結編を謳うようなものを作ると、どうしてもレギュラー陣に一通り活躍の場を与えようとしがちですが、実際は劇場映画の限られた時間内でそれをやろうとするとストーリーが散漫になって、ポイントが失われがちです。安易なパターンだとシャンプ系の「ここは俺に任せて先に行け」的人柱作品になるようなアレです(最後はみんなで力を合わせたり)。
 しかしこの映画ではひたすら魎呼と阿重霞の心情描写に時間を費やします。彼女らの、なぜ天地を探すのかという自分自身への問いかけがこの映画のテーマになっていると見受けられます。主人公であるはずの天地ですら、行方不明&洗脳により、ただいるだけの存在と化し、能動的な活躍はしません。もちろん、そうなっても天地が天地であり続けているという点がこの作品のキーにはなっているんですけれど、それに意味が出て来るのはクライマックスだけです。

 このポイントの絞り込み方そのものが作品の構成として感心するところなんですが、さらに感心したところが、その心情描写が想いの確認で終わらずに、一歩踏み出したところまで描かれているところですね。それも、クライマックスでは変化を描いたのにラストのオチのところでやっぱり元に戻る、なんていう逃げを打たずに、最後まできちんと踏みとどまっているところが素晴らしいです。完結編と言うに相応しいエピソードでしょう。
 あぁ、そういう意味では、この映画の主役って阿重霞かもしれません。魎呼はそこまで踏み込んでないかも。

 エルハもこれぐらいの劇場版を最後に作って、きちんと終わらせてくれないかなぁ(いや、いったんきちんと終わったものを変に続けたのがまずいんだけどさ)。

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(c)TAKARASHI YUTAKA. 1999