3 田舎家の別荘は繁昌の地に秋田杉

「待乳山(まっちやま)。金龍山とも聖天山ともいう。古木生い茂り、砂石山なり。仁王門の下蓮池のなかに弁天の社あり。この山の風景言語におよびがたし。かの土手通いする二挺だちの船は、浅草川より新鳥越の橋へこぎいれ、汐なきときは橋より前にてあがり、山の麓を徒歩(かち)にてゆくを、山の茶屋から知る人の見ることもやとて、熊谷笠をふせてかぶり、または羽織をうちかついで行けども、なりふりあゆみぶり、草履取りにてやがて見しりて、手をたたきてよびかくる――」
 と、『紫の一本(ひともと)』を女房お春に読んで聞かせるこの家の主は、治平とて人に知られし紙問屋、年のころは四十ばかり。昔は石町秀佳(こくちょうしゅうか)と呼ばれ、小娘、人の女房にも不料簡を出させし男。色香は失せて身ぎれいにて、垢と嫌味は微塵もなく、第一によいことは金銀があり余り、年々に利が利を産むこと鼠算はものかはにて、算盤の桁をはずして奢りにかけても世帯は傷まず、惣領の治之助に石町の見世を預け、その次は女の子、お今というて今年十七。去々年の春、秩父さまのお小姓にあげしとき、古今という名をくだされしが、容貌はよし、利発ゆえ、奥さまの御意にかない、ご自慢心で御遊山のお供にもいちはながけ。手習い、つま琴、茶の湯まで、それぞれの師匠があがって稽古するにも自由がたり。家にいるより気散じなと文のたびたびに言いおこせば、まずこれも苦労はなく、自分の妹は治平が父のまだ存生であるうちに本町辺りへ娶入(よめら)せて、いまでは二人の子持ちなれば離縁(さられ)て戻る案じもなし。
 この上なき身の上。あまりに繁花の土地に飽き、見晴らしのよきところこそよけれと、待乳山を背に隅田川を前に控えし地面を往年(さるとし)求めおき、茅門がかりの格子の入り口、木地を見せたる板塀の裏にひっしと竹を植え込み、住居はさまで広からねど、風雅を尽せし高殿の銅炉を仮の炬燵にして、ころりと寝て肱枕。
 女房お春は煙草を吸いつけ、丁寧に拭いて差し出し、
「いま、お読みなすったところがここのお山でござりますか。そのように編み笠をかぶって遊びに参りますは、おかしな姿でござりましょう。ああ、御膳をいただきすぎて腹がせつのうござります。ご退屈ならお銚子でも少し、あなた、あがりませんか」
 と、あじな詞の残っているこの女房の店卸し、また例の口さがなく、かいつまんでここに言うべし。

 もとこのお春は金杉の紙屑問屋の秘蔵娘、七つ八つより踊りが好きにて板東お実が弟子となり、十三ばかりのころなりけん、誰人いうとなくお春があだ名を悪酒といいはやせり。ついには親の耳に入り、元来、娘は酒も呑まず、よしんば呑みたりとも女子のこと、酒に乱れんようもなしと心得がたく思いしが、これに一条(ひとつ)の因縁あり。
 坂本辺りの水菓子屋の吉蔵という息子、十七ばかりの若衆にて、杵屋突太郎が門に入り、三味線をよくひきつ。人、水吉と呼びなせり。お春が地弾のおたつという女は大の浮気もの。杵屋のきねの太きを見込み、臼をこちから持ちかけて、あそこの茶屋で口説かんと、毎晩、毎晩の忍び逢い。とにかくお春が邪魔ゆえ、これへも誰ぞ相手をあてがい、二臼ずつで稼がんと年ごろも相応なれば、かの水吉をお春に取り持ち、踊りのさらいの騒ぎのまぎれ、楽屋で初めて会わせたるを、何人か見つけてお春のことを悪酒とあだ名せしは水が割ってあるとのことと湯屋で噂をお春が父、聞きより大いに驚き、おたつはすぐに長のおいとま。娘は踊りをいいたてに梶原さまの奥へ出し、お小姓となりお側へとあがり、今年まで勤めしが、この治平が前の女房死去し、その後へ、
「あの子はどうであろう。ちっと年は違えども、金に困らず厄介なし。あれほど気楽なところはない」
 と三分礼より十分一(じゅうぶいち)とるが巧者な薮にいる竹斎が中人口(なこうどぐち)。治平がほうへお見舞申し、
「こうこういう女があるが、中肉で真っ白な足の指がぴんと反り、口元の小さなところは極上品と愚老が見立て、そういうこともあるまいが、病労(わずら)いの看病などには妾よりは女房でなければ薬の利(まわり)が悪い、まだ三十にはなるまい」
 と、やっと二十一、二なる女を十ばかりふっかけ、とうとう見合いとこじつけて聖天の茶屋を借りしが、抱きつく縁があってやら、あんまり俺には若すぎると口には言えど、治平は承知。女のほうはどうであろうと、思いのほか子どものときから贔屓な秀佳に似ているとまんざらでなき様子なれば、すぐに相談取りきめ、披露目は後のことにしてまだ持ちたてほやほや女房。
 その容貌を詳しく見るに、時代に讃えれば花顔柳腰。世話にてこれをたとえんに、色白く、きめ細やかさは笹の雪という豆腐のごとく、腰の細くたおやかなるは、白滝と呼ぶ蒟蒻を百条ばかり束ねしに似たり。粧(つくら)ず、剃らず、産毛の生えたる額は富士を映し、眉をはらいしその跡の青やかなるは春の海。さも涼しげなる目のうちには秋の水をや湛えぬらん。にっこり笑えばかたかた(片方)へ指の腹ほどえくぼが入り、尋常な口元から真っ黒な糸切り歯がちょっと見ゆる可愛らしさあれで、そのとき唇を食い付かれたら弁慶でも一度では堪えられまじ
 着付けは結城の唐桟縞(とうざんじま)。くずしやの字に白茶の小柳。前垂れを締めるのが何よりも珍しく閑東嶋へ金襴での腰帯を紐につけ、縮緬は野鄙なりとて水でひとふり粘りを抜いた白羽二重の一布半から、肥えすぎず痩せすぎぬふくらはぎがちらめくをもし久米の仙人が見つけたら即死なるべし
 髪には布のかけたいところを、亭主が老けているゆえに年増づくりの丈長ばかりで、丸髷にちんまり結らせ、飛騨春慶の政子形。四方木の五分珠入れし銀台鍍金の一本足。

 治平の顔を楽しみそうに眺めながら、延べの煙管で薄舞を呑んでいるところへばたばたと上がってくるは、このお春に金杉からついてきた女にてお君といえるひょうきんもの。
「稲荷雁木にいかいこと舟がついておりましたが、皆、下へ下がったそうで、たった一捜残っている。御遠眼鏡で見てやろう」
 と、さし覗いて、
「おやおや、なぜか上がり場でもないところへ舟をつけて、船頭が乱杭から、あれ、土手へ上がってどこかへ行く。おやおやおや、舟の内には年増の女と若い男が差し向かい。ぴったりと寄り掛かり、あれまあ、女の呑みかけた酒を男に呑ませます。さあ大事ができてきた。女が頬をすりつけて口を吸わせるつらのにくさ。そりゃこそ男が手をかけたは、赤いのが長襦袢。白いのは二布(ゆもじ)であろう。我もの顔に手をかけてどうされるのか。女はいろいろ顔をしかめて倒れそうなのを男が抱いておりまする。おかみさん、おかみさん、ちょっとまあ、御覧じまし」
 と言われて、お春は見たくもあり、半ば夫の気をかけて、
「なんの簾も上げておき、日も暮れぬのにそんなことする者があるものか」
 と落ちつき顔に入れ代わり、見ればお君が言いしに違わず。
 女はもはやたまりかね、男の首へしがみつき、唇のうごめくは、(そんなにお前、じらさずとどうぞ早く)と言うのかと思えば味な心になり、
「おやおや、ほんに大胆な」
 と顔うち赤めて立ち退くをお君は待ちかねいるおりで、
「あれ、あれ。裾をまくりますと、女も手を差し入れて何をするのか、目を細くしてぽちぽちと話をするやら口がうごめく。目鏡へ耳をすりつけて、あの言うことは聞こえまいか。あれはきっと間男だ。どうしてやろう」
 と法界悋気
 身をもみあせれば、治平は振り向き、
「そういうことをしようと思って船頭へ一分はずみ、上がり場でもないところへ舟をつけておかせたのだ。あれまあ、お君は夢中になって尻をもじもじすることは。遠眼鏡を出しておいて、とんだ罪をつくった」
 と笑うところへ上がってくるは、お銭(せん)といって島田のときからこの家に奉公した女。娘の古今の気に入りにて秩父さまについて上がり、いまでは姿も屋敷風。昨日の昼、お側女中にそっと頼まれて四ツ目屋へ買いに行き、古今の宿に用もあれば、明日までこの家へ泊りがけ。容貌の優れしというにもあらねど、色白く、でっぷり肥って身ぎれいなれば、抱きでがあって暖かそうでと、男の目につく年増盛り。心のうちはどうか知らねど、まず見たところはしとやか者。
「これ、お君さん、お前はまあ大きな声で下までも筒抜けだよ。まだ初々しいおかみさん、困っておいでなさろうに、下へおいで」
 と手をとられ、
「それだと言っても、あれ、いまが肝心のところだわな」
「見たばかりでは腹は張らぬよ。行きな」
 というに、「情の強(こわ)い」とお君はお銭にひったてられ、名残惜しげに下りていく。

 お春は治平にうち向かい、
「お銭という名は、百千の千の字でよいことを、あのお銭は何でまあ、銭という字を書きますね」
「お、あれは俺が名づけ親さ。あのとおりの大女で、たいそうに力がある。近江のお金の金に続いた働きのあるという意(こころ)で銭とつけてやった」
「ほんにあれは力があって、古今さまのお人には気が丈夫でようござります」
 と言いながら、治平よりほかに人目もないのを幸い、また遠眼鏡をうかがい見るに、舟のなかはその最中。女はいと困りし気に船床へ両手をもたせ、うつぶして目をおし眠り、ときどき眉に皺を寄せるは、思う心の届かぬにや。さももどかしげに振り動かす手を男の膝へのせ、男のほうよりさまざまにもてくどかるるばかりと見え、応ずる心か息がはずむか口を開き、女はいよいよ上気して真っ赤になりし顔色の、少しさめしは満々たる気のもれたるかと。
 お春は見つめて耳たぶへほんのりと紅をさし、唾をいくたびか呑み込むを治平はそれと見てとりて、『るうふる』とかいう遠くへ声を届かする道具を取り出し、
「不義者見つけた。動くな」
 と舟を目当てに呼ばわれば、お春もびっくり振り返り、
「かわいそうに、二人ながら色青ざめて簾をおろし、きょろきょろそこらを見ております。殺生なことをあそばした。ああ、うかうか川を見ていたら寒くなった」
 と炬燵へあたるところを治平は押し転がし、ぐっと割り込み、膝頭をあててみるに、案にたがわず、触ったらこぼれそうなる水の出ばな。船頭への祝儀もいらず、さて女房は得なものと心におかしく、乗りかかられ、
「あれ、およしなされまし。誰か次へ参りました」
 と男へじっと抱きつきながら耳のそばへ口を寄せ、
「晩に寝てから楽しみに」
 と、あるかなきかの声にて言えば、治平、片頬に笑みを含み、
「誰が来てもいいじゃあねえか。それ、こんなになっているものを拭いてしまっては可惜(あったら)ものだ
 お春はそばの煙管を取り、雁首をひっかけて枕元の障子をばようようにたてたれども、まだ暮れきらぬ夕日の名残り、雲に映りていと明るく、しげしげ顔を見られるがどうもこうも恥ずかしさ。袖にて覆えばかきのけて口を吸われ、頬をすすられ、うつつもなげに仰向けに倒れたままに詞はなし。
 そもそも前に言うごとく、かの水吉に会いたるときは、恥ずかしいと怖いので子ども遊びのわけもなく、お座敷にあがりて後、枕草子(まくらぞうし)に気を動かせ、つまじき朋輩と張形を使いならい、情のうつるは知りながら、ほんの男に抱きしめられ、可愛いもの、よいものと覚えたるはこの治平なれば、ちょっと足で触られても味な気になるその上に、今日はとりわけ船中の取り乱したる躰を見て、もだつくところを締め寄せられ、こういう目にあうその嬉しさ。
「ああ、もう、どうも」と言いたけれど、屋敷女はしつ深いと、もしや愛想のつきやせんと我を忘れて荒々しき鼻息をじっとこらえ、顔のしかむも辛抱してただ莞爾(にこやか)に目をねぶり、慎み深き美しさを眺めながら、治平はその味を食いしめるに、そのことに馴れたる女が上手を尽し、持ちかけてくれるより初心(うぶ)なところがなおうまく、愛敬づくった女の顔のどこやらが皺面になり、目はいよいよ眠りながら口を開いて、この情をうつすのにて、はしたなくなる女よりは神妙なが可愛さ、言わんかたなくおもいれお春に楽しませんと治平はさまざま秘術を尽し、はじめはつつみし鼻息も後にはしげく顔もくずれ、
「あれ、もう悪い冗談を。それではどうも」
 と鴬声の初音を出し、谷の氷の解けるがごとく、
「そうさ。ぐっと舌を出して。吸わせようが上手になったよ。肥ったようでも軽い体だ。この脛の白いことは、いつでも暗くして寝るからこなたの肌をば初めて見た」
 と撫でられも、お春は何の答えもせず。後生大事に男の首へかじりついている顔が、またほんのりと赤くなる。ようように目は開いても顔をそむけ、晩の用意にもんでおいた延べの紙を取り出すところへ、次の間からお君の声で、
「もし。喜之助さんが参りました」


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